泣き虫な聖女
エックハルトの講談はひとまず終了し、修道女達は解散となった。
エーテンバッハから来た修道女達も別れの挨拶をして馬車に乗り込み、チューリヒへと出発した。
それを見送って手を振るエリーザベトとアフラ達だったが、すぐに礼拝堂へと戻った。見ればクヌフウタは未だ礼拝堂の隅に座り込んでいる。
クヌフウタの様子は、ずっとおかしいままだった。少しの間泣き止んでも、また思い出すのか、少しすればまた泣くように顔を伏せてしまう
「クヌフウタさん、行きますよ? 大丈夫ですか?」
エリーザベトが肩に触れて聞くと、少し立ち上がり、また泣き出して蹲ってしまう始末だ。
エックハルトがそこへやって来て言った
「エリーザベト。もうすぐ日も沈むだろう。修道院に宿泊棟があるから、今日はここに残るといい。こうなっては私もこのままこの方を放っておけないし、伝えておかなければならない事がある」
「そうですね。でも、こんな大所帯ですし、高貴な方もいますので……」
困っているエリーザベトにルーディックが言った
「この後は近くのキーブルク城に寄って、日が沈みそうだからそこで泊めて貰おうと思うんだ。あちらも大所帯では困ることだろうし、組を二つに分ければいい。残る人と、キーブルク城へ行く人とに。僕はハルトマンに話があるから行くとして、ユッテ王女、イサベラ姫はこちらで決定だろう。年少組はみんな連れて行くとしよう」
「では残るのは、クヌフウタさんとお連れさん、そして私?」
「エリーザベトは残って見てあげて。積もる話もあるでしょう?」
「あなた……」
エリーザベトは喜んでいいのか、皮肉なのかと複雑な顔をした
「俺も残りますよ」
そう言ったのはエルハルトだった
「馬車が必要でしょう? クヌフウタさん達が乗る馬車は、俺の馬車ですから」
アルノルトが言った
「じゃあ僕も残り?」
「アルノルトはご友人だ。ここに残る理由もない。行って来るといい。もちろんアフラとマリウスも一緒だな」
アフラはしかし、手を挙げて言った
「私も残る!」
「え? 残ってどうするんだ?」
「明日もトビーのお見舞いに行くわ?」
「しょうがないな……」
マリウスはどっちに行こうかとキョロキョロしたが、時間切れの言葉がルーディックから発された
「じゃあ、それで決定だね。アルノルトは僕の馬車に乗って。弟さんもね。エリーザベトはクヌフウタさん達と残って、明日エルハルトさんの馬車でキーブルク城へ合流するという事でいいね」
「ええ! あなたがそう仰るのなら……」
エリーザベトはいつになく強く頷いた
「では、エルハルトさん。我が愛妻をよろしくお願いしますね」
そう言ってルーディックはアルノルト、そしてマリウスと馬車に乗り込み、ユッテはイサベラと一緒に馬車に乗り込んだ。ユッテの従者一行もそれに併せて馬車に乗る。そして馬車はキーブルク城へと発した
「愛妻……」
馬車を見送りながら、エリーザベトはその言葉に少し顔を赤くしていた。
修道女ローラの案内で、クヌフウタはペルシタとエリーザベトに支えられつつ隣の建物の客間へと入った。そして向かい合う長椅子に座った。宿泊する部屋は別にあるが、男女が完全に別れ、ベッドが並ぶだけの共同部屋になるらしい。男性であるエルハルトとエックハルトも客間では一緒にいることが出来た。
日も落ちてくると、この日は少し冷え始めた。ローラに許可を取り、エルハルトは暖炉に火を点けようと一人奮闘し、小さな火を起こして口で風を送っていた。アフラはその傍に大人しく座り、エックハルトの方を盗み見ていた。
エックハルトとエリーザベトは暖炉の前に来て立ち話を始めていた
「何とも若々しい婿だがしっかりしている。あのエリーザベトが掌で上手く転がされてるようだったじゃないか」
「嫌ですわ。当主ですから思いのままにと言ってると、本当に思ったままをするようになって来たようで」
「当主としてはいい傾向じゃないか? もう少し私の講義にも興味を持って貰えると最高だが……あの年頃は仕方無かろう」
「難しい年頃ですものね。見てる間にも成長していきますもの。いい学びの場を与えて育ててあげませんとね」
「それはでも、楽しみだろう」
エリーザベトは言葉にはせず、しかし目で頷いた
「そうか……」
エックハルトは新妻の恥じらいを見た気がし、思わず笑わざるを得ない。
クヌフウタが少し落ち着いたのを見計らって、エックハルトはクヌフウタとペルシタのいる長椅子へとやって来て言った
「もう落ち着きましたか?」
「はい……」
しかし、クヌフウタはまだ涙声だ
「これから、大事なことを言います。しっかりと心を落ち着けてから言いましょう」
「はい……すいません……」
そう言うとクヌフウタはまた泣き出した。エックハルトはそんなクヌフウタに言った
「泣き虫になってはいけません。あなたは神に祝福されたのです。さあ、これよりは顔を上げて、その涙さえ、踏み越えて行かなければ」
「はい……でも、涙が……止まらないのです……」
クヌフウタは顔を上げ、懸命に涙を堪えてそう言った。しかし、後から後から涙が零れて来る。こんな美しい涙は見たことが無いような、そんな涙の粒だった
「泣きたいのなら、泣かせてあげるといい」
暖炉に火を灯し終え、そう言ったのはエルハルトだった
「誰よりも……辛い事を乗り越えて来た人なんです。本国のボヘミアから、親類の遺した修道院を後継するための重責を担って、ローマまで向かっているそうです。フランチェスコ派は私有財産が認められませんから、医療に必要な物の他には何も持たず、本当に運命を神に託すようにしてここまで来たんです……実際に旅をすれば、その苦労が判る……」
「エルハルトさん……」
そう聞いて、クヌフウタは顔を伏せて涙を落とした。いつしか、ここに理解者がいた。その事が嬉しくて、今違う色の涙を流した。そして、みっともなく声を上げて泣いた
「ふえええぇ……ありがとう……」
ずっと一緒にここまで来たペルシタも、隣で少し貰い泣きしている。
少し手を広げたような格好をエルハルトに向けて、エックハルトは言った
「……落ち着くまでは、いつまでも待つつもりだ」
余計に泣かせたような格好になったエルハルトは、少し苦笑いを返した。
クヌフウタは程なくして心を落ち着け、涙を手で拭って言った
「もう、落ち着きました……」
「お話しても大丈夫ですか?」
「泣くだけ泣いてすっきりしました。もう、大丈夫です」
クヌフウタはエックハルトと、そしてエルハルトに頷いた。
エックハルトは長椅子に座るクヌフウタの前で恭しく跪くように座って言った
「あなたはずっと神に己を委ねられて来られたようだ。それによって離在を成し得たのです。今日起こった事は、世にも大切な、至宝のようなことです。胸にしまって、一生大事にして下さい」
「はい!」
「しかし、今日を限りに忘れるのです」
「え……」
失望を滲ませるクヌフウタに、エックハルトは苦渋に満ちたような顔をしている。それは教説を取る者として、大きな矛盾だった。しかし、異端の摘発の厳しいこの時代、その理由も自ずから判った。エックハルトは言葉を続けた
「忘れられるものでは無いかもしれませんが、有った事も無いが如くにする、これは処女性に立ち戻るという事でもあります。それに、私は異端審問の厳しさを良く知っています。時に私も審問に関わり、この目で見て来ましたから。決して公言してはいけませんよ。いいですね」
「はい……」
「皆さんも、秘密厳守でお願いします」
異端と断じられればたちまち極刑に処される事もある。エリーザベト達は心配そうに頷いた。修道女ローラもまだ戸口にいて頷いていた。エルハルトには何が秘密なのかが判らなかったが、一応頷いておいた。
エックハルトは少し笑顔を見せて言った
「しかし、まだ今日の内ならば、大いに語るも良しとましょう。あの時、何が見えましたか?」
クヌフウタはまだ目に涙を溜めながら言った
「キリストの心を宿す——そう強く思った時に、光が……心が洗われるような白い光でいっぱいになって……」
「精神の光を見た……」
「はい……そして、体から木々が芽を吹くように、至福感でいっぱいになって……ああ、なんと言えばいいのでしょう……」
「自然と自分の体が同じように感じられたと……」
「はい! まるで、世界の生まれた時がそこにあるようで……」
「時の始まる『今』を見た……」
「そうです! 先生はすべてをご存知なのですね?」
「それは神の全き姿が心中に見えたのです。私の教説は全てそこへ導くためのものです。その導く先を知らないはずがありません。ですが、あなたはほんの少し私の話を聞いただけでそこへ辿り着いた。驚嘆に値します。しかし、まだ準備は不十分です。この不安定な状態では、自身のみか、周囲を巻き込んで破滅へと導いてしまう事さえあり得る」
クヌフウタは姿勢を正し、エックハルトに向き直った
「教えて下さい。どうすればいいのでしょう……」
「すべてのものが神自身である、その賜物を見たでしょう。しかしそれはひとときで、すぐに消えてしまうでしょう。それは高峰の頂上へ出て地平を俯瞰したようなもの。これよりは山を降り、この賜物がいかなる場所でも現前にあるよう練達して行かなければなりません。一切の行いを通して一切に神を見るかのように、自身の内面を省みる事を習慣とするのです。一つは環境や他者による外的要因を心に留める場所があってはいけません。それは苦難をも苦としないということです。もう一つは内面の要因です。心の高揚や、このような涙もそうです。多様な心の動きや嗜好に心を奪われないようにすることです。自分を我心に捕らわれぬよう絶えず戒心を持ち、常に処女性に立ち戻ることを習慣として自分を導くようにしなければなりません」
「難しい事に思えます」
「そうですね。このためには毎日の懺悔礼が有益です。した事はあるでしょう?」
「それはもう。嫌というほど……」
「これは懺悔室でなくて良いのです。毎日身に覚えが無くとも神を相手に懺悔をするのです。良心に照らせば反省する点は出て来ますから、それが無くなるまで」
「判りました」
「気を付けたいのはそれが悔恨や後悔であっては心に苦しい想いだけで終わってしまうという事です。神に一つ懺悔をし、心から改心が出来れば、理性に徳が加わり、その修正がなされ、神は思う以上を許され、大いに進むことが出来ます。ただ、これらは戒めるという消極的なものです。前に進むには、心思を神に向かわせる、大いなる熱誠が必要です」
「大いなる熱誠……」
その言葉はクヌフウタの心に沁み渡った
「例えば、自身の仕事をする時の熱心さ、忠実さです。聖体拝領をする時、神に祈り、自身の心を神に問う時、形だけで熱心さでそれに劣る事がまま見られますが、それでは何の意義もありません。しかし、それに勝る熱誠を以てすれば? それは意義深く、このような聖霊や天使の祝福に触れる事も出来る」
「ご存知なんですね。あれは、やはり聖霊だったのですね?」
「言葉だけなら聖霊と言っても言葉遊び。おとぎ話と同じです。神と魂は密接に結びついています。聖霊や天使群においてもそれは同じ。聖霊が触れる時、神も魂に触れるのです。言葉は表面的な作り物です。言葉では本質とはまだ遠く隔たりがある。どう語るとしても誤解を生じます。心に聖霊という本質を持たなければ」
エックハルトは胸に手を置いた。それに答えるようにクヌフウタも胸に手を置いた
「まだ……残っています。まだ触れているように、ここに……」
エックハルトは微笑して目で頷いた
「神も触れています。神に触れることで神自身が自分自身となり、自分自身の心や体、感覚さえすべてが神のものとなって行き、神と知覚を共にすることが出来ます。知り得ぬ事が感得できるようになるのです。魂とは元来そのように出来ている」
「今ならば……先生の仰る事がこの心で判ります。言葉だけでは本質には遥かに遠く、届きませんね……」
そう言ってクヌフウタはまた少し涙ぐんだ
「私の講義は神学にも哲学にもなっていないという人がいます。しかし、それも言葉の字義的な表面だけを見る為です。最も本質的な事を話しているのです。イエス・キリストに学ぶ者ならば、イエスのその内奥の真実こそが中心課題なのであり、それを説いているのですから。離在によって心が自由になれば言葉は無限に溢れますが、あなたもその分を堅持し、本質から離れないことです。自分の分を果たしつつ、イエスと同じ本質に沿うならば、異端のそしりからも逃れられるでしょう。ビンゲンのヒルデガルドやマクデブルクのメヒティルトのような、神からのビジョンを本にした先人もいることですし、神のビジョンを見ることについては世間に理解を得やすくなっています。神による幻視を視たのだと言う程に留めるのです」
クヌフウタは真っ直ぐな目をエックハルトに向けて頷いた
「はい……判りました。ヒルデガルドは私達にとりましても教科書です。全て仰る通りにします」
「私の言葉は道案内に過ぎません。あとは、自分の目で見て、自分の足で立ち、自分の歩みで踏み超えて行くのです」
「全て宝物のようなお言葉です。一生、大事にします。先生のお話を聞けば、このようになることはきっと良く有ることなのでしょうね」
「いいえ。その場で離在に達することは悲しい程にありませんでした。講義中に泣く方なら時々はいるんですがね」
アフラが手を挙げて言った
「それは私のことですね?」
「君か! よくここまで来てくれたものですね」
「ウーリに一度戻ってから、また来ました」
「ウーリから? それはまた遠くから遙々聞きに来てくれたんですね」
「往復です。父さんに無理矢理連れ帰られ……また来たんです。ここへ来るのが少し遅れて、教会に入れなかったんですぅ」
「そう言えば今日は満員だったのに、どこから聞いてたんですか?」
「隣の建物の窓から覗いて聞いてました。トビーが礼拝堂の窓を開けてくれたんです。それであんな怪我をしてしまって……神様に懺悔します!」
修道女ローラが驚いて言った
「そういう事だったんですね! でもそれは、中から窓を開けた私のせいです。私が懺悔します」
二人はさっきの話のせいか、懺悔をしたいかのようだ。
エックハルトは考え込むように言った
「大元を辿れば、私がそこで講義をしていたせいでもありますね。ここは皆で明日、謝りに行きましょうか」
アフラは驚いて言った
「本当ですか! 私、行こうと思ってたんです!」
「先生、なんてお優しい……」
「いえ。良心に従ってした行いで怪我をして、その良い心根が意気消沈する事があってはいけません。少年を励ましてあげましょう」
クヌフウタも言った
「私も参ります。心残りもありますし、離れる前に診察をしておきましょう」
ローラが嬉しそうに言った
「早速診察が見れそうで良かったです。何でもお手伝いさせて下さい」
「では早速ですが……小さな子の手首の形に合った添え木が欲しいのです」
「それは……ちょっと難しいですね」
「それなら……」
エルハルトが暖炉から焦げた薪を一本取って来て言った
「これをナイフで削ればいい」
そう言ってエルハルトはナイフを出して焦げた場所を少し削ってみた。かなり脆くなっていて、簡単に削ることができる
「こんなカーブが付けばいいのかな? 見た感じアフラの手で合わせればいけるだろう」
そう言ってエルハルトはアフラの手に合わせてみた。アフラの白い手に黒い焦げ目が付いた
「あ、バッチい」
「エルハルトさん!」
クヌフウタは立ち上がって、それを間近で見て言った
「布で包みますから、これで完璧です! ですが、出来れば手の先から肘くらい大きい方がいいです」
「そうなると、新しい薪から作るよりないが……ローラさん、道具を貸して貰えますか?」
「それはもう! こちらです」
ローラは建物の外の薪を割っている場所へ案内してくれ、エルハルトに原木とオノを貸してくれた。エルハルトは早速薪割りの要領で原木を割り、必要な大きさを切り出した。
隣ではローラとアフラ、そしてクヌフウタが見に来ていた
「このくらいの長さで大丈夫ですか?」
エルハルトはアフラの手を借りて、あてがってみた
「ええ。トビーはアフラさんより少し小さいか同じくらい。手はそう変わらなそうですね」
「あとは出来るだけ手に合わせた形にしていけばいいんですね?」
「ええ。痛くないよう出来るだけ凹凸感が無い方がいいです。お願い出来ますか?」
「任せておいて下さい!」
エルハルトは胸を叩いた
「エルハルトさんはとても頼りがいがありますね」
「いや。これくらいはいつもの……」
「兄さん、照れてるー」
アフラに笑われたので、エルハルトは妹の額を突いてやった。
それから一同は食堂で夕食を摂り、その後は少しの雑談をしていると、すぐ修道院の消灯時間となり、共同部屋のベッドへ向かった。
エルハルトは夜遅くなっても客間の暖炉の火の前で木材を削っていた。
手の形に合わせて木材を少しずつ焦がしては削り、痛くないように丁寧に表面を削った。
しばらくはアフラも手のモデルをしつつ一緒にいたが、早起きだったアフラはすぐに眠くなって部屋へ眠りに行ってしまい、一人残されたエルハルトはその手のイメージを思い浮かべながら削って行った。
作業をしながら、エルハルトは今日のエックハルトの話を思い出した。仕事をする時の熱心さ、それを上回る熱誠でという事ならば、今の自分もそうは負けていまいと思った。そう思うとエルハルトの胸には少し暖かい気持ちが灯った。
クヌフウタとペルシタは夜中にその場を抜け出して、川へ行った。そして暗い中で修道服を脱いで裸になり、水浴びをした。
暗い場所ならば誰かに見えることも無い。川の水は冷たいが、森の息吹と星の息吹が感じられ、自然の中で心身を清められるようで、心から清々しくなれた。




