父と子と聖霊と
その家から外へ出ると、空はもう茜色が掛かって、畑に囲まれた背の低い家々を仄赤く照らし出していた。
そんな風景を見ながらクヌフウタが言った
「すっかり日が傾いてしまいましたね」
アフラが言った
「特別講義はもう終わってるでしょうか?」
「とっくに終わってるでしょうね。皆さんをお待たせしていないか心配です」
「ユッテさんやエリーゼ様を待たせていたら大変!」
急に気が焦りだし、一同は戻る足を速めた。今ばかりは美しい夕日が赤くなって行くのも口惜しい気がした。そして駆け込むように修道院の門を潜った。礼拝堂の入り口前にはエルハルトとアルノルトが待っていた
「ああ、戻ったかアフラ」
「アル兄さん」
「エリーゼ様達はもう礼拝堂に移動したよ」
そして一同は一緒に礼拝堂に入って行った。
礼拝堂の中では、壇の下にいるエックハルトを修道女達とエリーザベトが囲み、礼拝後の語らいが続いていた。ユッテとイサベラ、そしてルーディックは少し後の方で専ら私語に勤しんでいるようだった
「やあ、遅かったね」
「やっと戻ったわね」
ルーディックとユッテが小声でそう言って迎えてくれた
「大変お待たせ致しました」
クヌフウタは一礼をして中へ入った。アフラ達もそれに習って小さく礼をした。するとエリーザベトが席を空けて少し奥の方へ座り直した。
その空いた席をエックハルトが勧めつつ言った
「お待ちしていましたよ。あなたは……」
「クヌフウタと申します」
「クヌフウタさん。どうぞこちらへ。窓から落ちた少年の怪我は如何でしたか?」
クヌフウタとペルシタは示された席に座った。
アフラはユッテの隣の席に座り、エルハルトとアルノルトは後方の席に座った。マリウスは迷ったあげくアルノルトの後ろに座った
「怪我をしたトビーという子は足の打撲と手の骨折をしていました。手の指はいつも動く所なので、完治するまでは大変かもしれません」
クヌフウタはそう言って心配そうな顔をする
「そうですか。それは心配ですね」
「私のせいです」と、そこにいた修道女の一人が悲痛な顔をして言った。それはさっき表にいた修道女だ
「その子が外から窓を引っ掻いてたので、窓を開けたら、驚いて窓から落ちたんです。後ほど謝罪に伺います……」
他の修道女は「懺悔かしら」と慰めにもならない事を言った。
エックハルトはさらに言った
「その後あなたは村人の診療をしていたとか」
「ええ。少しの間でしたが、この前で診療をさせていただきました。周辺は高額な医者しかいないようでしたので。そこの方に場所を貸して貰い、呼び掛けていただいて、大変助かりました」
「いえ…‥」
泣きそうだった修道女は少し笑顔を取り戻した
「その若さで医療の心得があると?」
「はい。私のいます聖アネシュカ修道院は、無料の施療院を開いています。私はそこで毎日診療のお手伝いをして過ごしましたので、自然に身についたのです」
「素晴らしい。私は神の教説を述べる事は出来ても、実際に病める人を治し、命を助けるような事は出来ません。この間にそれらの事をしていたとは、敬服に値します」
「いえ、そんな。出来る事をしたまでです」
トエス修道院のさっきの修道女が言った
「薬草に身近なものが多くてとても興味深かったです。私達もそうした事が出来るといいのですが……」
クヌフウタはその修道女に言った
「学ぶ気持ちがおありでしたらお教えします。ただ、総合的に見た診療が出来るまでにはどうしても時間が掛かりますので、三年は見ていただかないといけませんが」
「三年…‥ですか」
修道女は三年と聞いて、苦い顔をして周囲を見回した
「ただ、多くは風邪や切り傷ですので、その処置くらいはすぐ出来るようになるのではないでしょうか」
「是非、教えて下さい!」
「ええ。喜んで。それなら三日もあれば……」
「し、しばらく外出許可を戴きます……」
こうして修道女一人のしばらくの弟子入りが決まった。その修道女はローラと言った。
アフラが手を上げて言った
「先生。質問があります」
エックハルトはアフラへ手を向けた
「君もさっき戻って来た所だね。どうぞ」
しかし、アフラは何故か言葉が続かない
「私ぃ、あのー、私ですねー?」
「うん? 何なりとも」
ユッテが小声で横から急かして言った
「どうしたの。アフラ?」
アフラは顔を赤くして言った
「私、処女なんですが、『女』である処女になれますか?」
ユッテが口を抑えて笑うと、さっきの講義を知っている修道女達からも笑い声が漏れた。講義を聴いてない人には何の事なのかさっぱり判らなかった。エックハルトは目を見張って言った
「君は講義をどこで聞いてたんだろうか。聞いてない方もいらっしゃるので改めて話しをしましょう」
エックハルトは壇に立って話した
「今日ここで私は処女性について話をしました。処女性とは、外から来る形象にも、内から来る知性にも、それら全てが未だ存在する以前であるかのように、とらわれないという事です。それは単に処女という事とはかなり隔たりがあります。喩え言葉ですからね」
「喩えでしたか……エヘ」
アフラは照れ隠しに頭を掻いた。周囲には笑いが漏れた。
エックハルトは思考するように言った
「私の言葉にはその実、譬え言葉が多いのです。処女性をさらに喩えるならば、それは時の届かない部屋の鏡のよう……もっと言うならばそこにある窓が初めて開くその時、その一瞬が永遠になるようなことです。先程は神と処女の庭とも喩えました」
アフラがそれを思い浮かべて言った
「そこにはお庭があるんですね……」
「そうです。見渡す限りの庭です。そこに見えるのは魂の本来の形象です。それは内からも、外からも、神自身の造形であるものの他は何一つ造られる事の無いような形象——神のイデアなのです。誰も触れ得ないそれは、神のはじめの言葉にも等しい。その言葉もまた、未だ時間にも肉体にも触れない精神の中に述べられないまま留まってあるのです。この真の処女性を宿すならば、精神が神のはじめの言葉と等しいものとなり、心に神を迎える準備が出来るのです」
クヌフウタが溜息を漏らして言った
「見渡す限りが初めて……。そして触れ得ない神のはじめの言葉……。それが真の処女性というものなんですね」
「その通りです。聖母マリアは永遠の処女と言われますが、底にある意味は、この処女性を宿すという事を表しています。そしてイエスもまた、子として真の処女性を心に持ちました。真の処女性にある人は最高の真理を妨げるものが無く、多くの賜物を生みます。この賜物を実らせるためには、大いに人は世間に触れて役目を果たして行かなければなりません。踏みにじられることも多くあるでしょう。そういう時も心は常にこの処女性へ立ち戻ればいいのです。それが『女』であり、『処女』であるという事なのです。先程の質問に答えるなら、不断にそう務めるならば、いつか君にもなれることでしょう」
エックハルトの言葉に、アフラはしばらく言葉が出なかった。心をどこか遠くへ連れて行かれたまま、まだ帰って来れず、窓から何か幻影を見ているようだった。ユッテはそれを心配げに見て「アフラ」と呼んだ
「あ、ユッテさんありがとう」
そしてアフラはもう一度軽く目を閉じてから、エックハルトに言った
「……そのお部屋は、魂のお城ですか?」
「む? それも喩え言葉ではあるが……」
エックハルトは目を見開いて大きく頷いた
「それは等しい! 魂の城の入り口と呼ぶに相応しい」
「喩えとしても、素敵ですね!」
アフラは両手の指先で目頭を拭きながら微笑み、「ねー」とユッテとイサベラと頷き合った。
そして、クヌフウタはエックハルトに言った
「素晴らしい喩えです。この機会に私も先生にご質問をしたいのですが、宜しいですか?」
「勿論です。何なりとお答えしましょう」
「先日、三位一体というお話をされていました。しかしそれはローマ聖庁でされている意味とは大きく違うように思いました。それは異端に触れる心配もあります。その解釈の違いをお伺いしたいのです」
「非常に鋭い指摘ですね。それは私の教説の強みでもあり、また弱点でもあります。順にお話しましょう」
エックハルトは壇上の黒板まで行って、『父』、『子』、『聖霊』と書いた
「ローマ聖庁の教理によると、イエスは父であり、子であり、また聖霊であるという、このお馴染みの骨子が三位一体です。聖霊は解釈が分かれるのでここでは置いて、父であり、子であるという事を考えましょう。父であり子でもある、これはこのままでは矛盾があるようには感じませんでしたか?」
そう聞かれてクヌフウタは苦笑いで首を捻った。ローマ法王の教理に異を唱えれば、異端を告発され、火刑にもなり得る、そんな怖い時代だった。
エリーザベトがそれを見て言った
「父と子がそのまま真逆の意味だと捉えるならば矛盾もありますが、違う解釈もありそうですね」
「その通り」
エックハルトは黒板に『神性』と『人間性』と書いた
「父と子とは、神性と人間性です。その二つの性質は全く違うものに見えます。しかしそれでいて、産むもの産まれるものの関係で、本来分かち難いものです。子であるイエスは自らの中、先程の処女性の内で神性と人間性を一つに結び付けました。そしてそれを達成した事で彼は完全な人間であると同時に、すべての神であるという事に到達しました。聖霊はその誕生を助けるものです。そう解するなら、三位一体は一なる神格となり、何ら矛盾はありません」
これにエリーザベトが讃辞を送った
「エクセレント! そう考えれば、むしろ先輩——いえ、先生の解釈こそが三位一体の原理をより完成されたものにしていると言えます」
クヌフウタは雲が晴れたように目を輝かせて言った
「とても心に落ちます。心の霧が晴れていくようです」
その教説の種が体に宿り、今やもう芽吹き始めている、クヌフウタはそんな気がした。それはそこにいた修道女達も同じ想いだった。
エルハルトとアルノルトもエックハルトのその教説を初めて聞いて、その奥深い広がりに感じ入った。アルノルトはアフラが言っていた、三位一体はこれかと思い至った
「これは教理の傍証ともなるでしょう。真理に根ざしたものですから、矛盾は無くなる上、生命の通ったものになるのです。そこでもう一歩進みましょう。イエスの人間性は、今までも、これからもただ一人のもので、他の人と全く異なるものでしょうか? どう思いますか? では王女様?」
エックハルトは小声でアフラと話していたユッテに聞いた。ユッテは慌てて言う
「私にとってイエス様は、もう神! と言う感じですから」
「むう。神であるとは言え、人として生まれたからには人々と共に生き、人間性もあります。もしイエスが隣に来て、対話出来たとしたら、どうですか?」
「そうですね。父のように頼れそうです」
「父とはいい喩えです。イエスの人間性を表すなら一番は父です。イエスが父であり、同時に人の子としては子である、それは今父である人が、昔は誰かの子であった事にも似ています。神である父が子を産むという時、それは普遍的に与えられた自然の仕組みの中でその子を産みます。生を生む同じ仕組み、同じ性質は父から子に、そしてさらにその子へと受け継がれ、今も絶えず永遠的にすべての人は生み継がれ、生を与えられて来ました。ここから私は言うのです。父である主はイエスばかりではなく、私もまた子として、そしてまた同時に父として産んでいるいるのだと。それによって私は父である神の性質を継ぎ、存在を継ぎ、父もまた私自身にそれを継がせる事で誕生するのです。そして、皆さんも同じく子であり、やがて父、母ともなります。父と子が一体というその性質はこの今も永続しています。という事は、どういう事だと思いますか?」
エックハルトはクヌフウタを見て微笑んだ。
クヌフウタには不思議な感慨が体を衝いて走っていた。その答えはようやく言葉になった
「三位一体は、私達にも同じ……」
「その通りです! 父と子がここに一つである事は、イエスと他の人の間でも違いはありません。すべて人はイエスを心に宿し、イエスと人間性を共有する事が出来ます」
イエスを心に宿す、そう聞いて、自身も強くそう思った瞬間、クヌフウタの精神は純白の光が差した気がした。イエスの存在をすぐ近くに感じた。エックハルトの言葉は続いたが、あまり聞こえなくなって行った
「イエスは比ぶべくも無いお手本となります。誰でも彼の到達したものを実現し、達成し得ます。むしろイエスはそれを望んだからこそ、教えを述べた事でしょう。そう信じて私もこれを述べ伝えるのです」
クヌフウタを包む純白の光はまるで天から降る祝福のようだった。心がイエスと結ばれた気がして、神との結婚とはこう言う気持ちを言うのかと思った。
その瞬間、それは訪れた。礼拝堂の天井の高みから、微かな輝きが一つ二つと羽根のように舞い、それは聖霊の到来のようにクヌフウタの胸を震わせた。そして途方も無い感動は涙となって溢れた。
エックハルトがそれを見て、厳かに言った
「聖霊が来られた……」
泣き崩れるように顔を伏せ、クヌフウタはただ頷いた。修道女達は響めいて、思わず十字を切って祈る者が続出した。ペルシタはクヌフウタにハンカチを渡して、その背を優しく擦っていた
「どうしたんでしょう?」
後の方にいたアフラ達には椅子の陰で何が起こっているか判らず、ただクヌフウタが泣いているとしか見えなかった。
エックハルトはそんなクヌフウタの近くへ来て言った
「これこそ神の誕生です。あなたは多くを捨て、多くを神に捧げて来ました。だからこそ今、届いた」
「はい、でも、今は涙が……止まりません……」
少し堪えてそう言うと、さらにクヌフウタは声を上げて泣いた。




