三つの話
帰り道、橋の上でアルノルトはユッテに礼を言った。
「流石に歩いて来たようだね。ご足労ありがとう。これで何とかなりそうだ」
「連名出来なくてごめんなさいね。仮にも兄だし」
「いや、かえって証言の方が良かったかもしれない。ユッテ王女の証言があれば誤魔化したりは出来ないだろう。最大のサポートだよ。ありがとうユッテ王女」
「イヤよ。ユッテって呼んで」
「護衛がいるここで?」
「なおさらよ。あなたとの間に王女は抜き。良くって?」
「じゃあ、ありがとうユッテ」
「どう致しまして」
そう言って微笑むユッテはいつもより眩しかった。
アルノルトは昨日の事を謝るつもりだったが、どうにも言い出せず、横を向いた。
「いい眺めだ」
橋から見るリマト川は水が湖から入ったエメラルド色で、両岸に高く立ち並ぶ建物も中欧の伝統様式で揃っていて美しい。
両岸に教会の高い尖塔が見え、見れば川の中に建っている教会があったり、どういう訳か河口の真ん中に塔も建っている。
川沿いにはパラソルを立てたオープンテラスが幾つもあった。
「わあ。チューリヒは本当にキレイな町ね」
ユッテが欄干に乗り出してそう頷くと、アフラも並んで指を差した。
「オープンテラスで気持ち良さそうにワイン飲んでる」
「僕もいつかここでワインを飲みたいものだ」
「今すればいいじゃない?」
「もうすぐ仕事だし、さっきあそこで全財産を置いて来たんだ」
「じゃあ、示談が決まったらここでお祝いしましょ?」
「いいね。でも帰るまでに間に合うかな」
ホテルに戻ると、ユッテとアフラは一緒にホテルの部屋へと上がって行き、アルノルトは早めだが仕事場へ行った。
しかし今更ながら、アフラは療養中の身でユッテの部屋に入り浸っているようだと、アルノルトは内心でぼやいた。
もっとも今日は自分の用事で連れ出したのではあったが。
アルノルトはボーイ服に着替えると、コック長に荷物運びをさせて欲しいと願い出た。
「皿洗いも両方やりますので、お願いします」
「そうか。ボーイと両方はきついから控えようかと思っていたが、そう言うなら支配人に言っておこう」
アルノルトは皿洗いが暇な時に、荷運びのボーイをする事になった。昼ご飯時が終わった頃にチェックイン客が多く来るので、それは丁度良かったのだ。
玄関にチェックイン客が来ると、そこから客の大きな荷物を持って階段を上がる。
それは予想外の重労働だったが、予想通りなことには重労働なもの程チップが貰えた。
給料が週終わりしか出ないので、それまでに貴重な現金収入が貰え、アルノルトは内心大喜びだった。
加えて、ユッテの部屋へ手紙や買い物の品を届けると、受け取った護衛騎士は客の中では一番多い額のチップをくれるのだった。
この日はチップだけで一日の給料分くらいを稼いだ計算になった。
そのお金の一部を使って、夕方には父への手紙を出す事が出来た。
仕事が終わって部屋へ帰ると、護衛騎士二人にそのことを報告した。
一人はレオナルド、もう一人はマルクと言った。
「これはすごいな」
「そんなに稼いだのか」
「ええ。レオナルドさんの助言のおかげです」
「俺もチップ弾んだぜ?」
「はい。マルクさんにも感謝してます。昨日貰った分も早速代理人の手付け金になりましたし」
「これならもしここを追い出されても帰れるんじゃないか?」
「今まで働いた分を合わせればそうですね。でも僕一人じゃなく、妹の分も稼がないといけないので」
「独り者の俺達よりしっかりしてるぜ。また何かあったらチップ弾んでやるよ」
「ありがとう。期待してます」
そこへセシリアが扉をノックして入って来て言った。
「アルノルトさん。ちょっと……」
レオナルドは「最後の審判が来たぜ」と言った。
「はい……行きます」
アルノルトは部屋を出てセシリアに随いて行った。
何を言われるかと思うと、心臓の鼓動が早くなった。
通された部屋はベッドのある小さな個室だった。
「あれ? ここは」
「私の部屋です。そこに座って下さい」
セシリアに椅子を勧められたが、アルノルトは座る前にまず謝った。
「昨夜はすいませんでした。ウロウロして浴室や王女の湯上がりを見てしまって」
「それは護衛騎士のせいもあるし、いいのです。ユッテ様はお咎め無しとの事です」
「でも、気にしてたようだったし」
「あれからすぐ気を取り直したようです。大丈夫でしたよ。ああいう事もありますから、あまり前の広間でウロウロしないでいて頂ければ、それで大丈夫です」
「良かった。追い出されるかと心配してました。騎士さんなんて普通に死刑だって言うんですよ」
「そんなことを? それは非道いですね」
セシリアは不意に笑った。いつも大人びた神妙な顔をしていて笑顔を見たことが無かったので、ひどく可愛く見える。
しかし、その顔はすぐに引き締まった。
「それより、お話が三つあります」
「そんなに? 何でしょう?」
「まず一つは、朝食をいつもご用意しているのですが、いつも食べに来て下さいませんね。ユッテ様はひどくそれを残念に思っていらっしゃるようです」
「あ、そうでしたね。今日は朝からちょっと出かける用事があって」
「ユッテ様は最近は早めにご起床されて、あなたの出勤前に設定した朝食時間に待っておられます」
「えっ。それは悪い事をしてました?」
「明日からは食べに来て下さいますか?」
「実は今日から仕事が昼からなんです。明日からは食べに行くと約束します。時間も遅くしましょう」
「それはユッテ様もお喜びでしょう。では、二つめです」
「何でしょう?」
「お風呂に入りませんか?」
「お風呂?」
「はい。今からロザーナとお湯を張りますので」
「あと一週間くらいは入らなくても平気だと?」
「いいえ。失礼ですが、少し匂います」
「そうかな?」
アルノルトがあちこち匂いを嗅ぐが自分では判らない。
セシリアはアルノルトに近付いて鼻を鳴らすと、手でバッテンを作った。
「仕事に影響しますでしょうし、ユッテ様と近く接する事もありますから、綺麗にしておいて貰わなくては」
「確かにそうですね。じゃあ入ります」
「良かった。じゃあ用意しますね」
笑顔を見せたセシリアは部屋を出て行こうとした。
「あの、三つめは……」
「それは…………お風呂の後に、お渡しします」
セシリアはそう言ってお風呂の用意に出て行った。
風呂の用意はかなり大掛かりな仕事だ。釜場で炊いたお湯を湯桶に汲み、セシリアとロザーナで何度も往復してフォーレと言われる楕円形の風呂桶に入れて行く。さらにここのフォーレは普通サイズより一回り大きいので、往復回数は並大抵では無かった。
お湯の用意が終わるとアルノルトは浴室へ行き、たっぷりと張った湯に浸かった。
湯加減も良く、体が伸ばせて入り心地は満点だ。
たっぷりのお湯に浸かっていると皮脂汚れが浮き出て来て、疲れまで溶け出て行くようだ。
「結構汚れてたのかな」
そこへセシリアがやって来た。
「お背中をお流ししましょうか?」
アルノルトは慌ててカーテンを閉めて言った。
「大丈夫です。自分でやりますから!」
「まあ。アフラさんと同じですね」
「うちでは自分でやるんです!」
「実は、例の……お着替えを置いておきますね」
カーテンの向こう側で、セシリアはそう言って浴室を出て行った。
アルノルトは頭と体をしっかり洗い、風呂桶から出ると、着替えの置き場所に真新しいコットとパンツが置いてあった。コットは下着にも部屋着にもなりそうな質素な貫頭衣状のものだ。
パンツは紐付きの猿股のウエストを長く、紐掛け箇所を多くアレンジして新調したものだ。三つ目の話というのはこれの事なのだろう。
「かっこいいな、これ」
早速アルノルトはそれを穿いて紐を締めてみた。サイズは少し小さめだが大丈夫そうだ。
ウエストが少し高いのはコルセット風にウエストを締める効果があるようだ。ここは女性用のアレンジと言えよう。
何より生地にはシルクの光沢があり、只ならぬ高級感がある。
「もう男向けじゃないなこれ」
アルノルトは着てしまえばもう返すことも出来ず、頭を掻いた。
浴室を出ると広間の長椅子に座ってセシリアが待っていた。
「如何ですか? 着心地は」
「三つ目って、これですね?」
アルノルトはコットの片方を一瞬捲ったが、若い女性に見せる物では無いとすぐ降ろした。
「着心地はとても良いです。亜麻布よりすべすべだし、かっこいいし」
「良かった。職人さんに掛け合って特注で作ったんですよ」
そう言われると、女性用みたいだとはもう言えなくなった。
「でも、こんな高そうなの、いただけません」
「たくさん作りましたし、アフラさんにはもう渡す約束をしましたので、その一部だと思って頂ければ。それに、お着替えがあまり無いとお見受けしましたが」
「正直それは助かるのですが……。では、給料が入ったら、服のお代はお支払いします」
「アフラさんもそう仰ってましたが、ユッテ様はお金はいいと仰るし、そうなると間に立つ者は困るものです。ご遠慮なさるよりも、そこをお汲み下さいましたらと」
「そうですか……では、黙っていただくことにします」
「それが男らしくて素敵だと思います」
「いやあ、それ程でも……」
アルノルトが予想以上に照れるので、セシリアは言った言葉を取り消したくなった。
「じゃあ、素敵ですくらいに訂正します」
「セシリアさんに褒めて貰えるなら、何でも嬉しいです」
「まあ」
二人は笑い合ったが、細く開けたドアから覗いていたユッテがそこにいた。
「あれ、ユッテ?」
そのドアを押し広げ、勢いよくユッテが出て来た。
「ちょっと! 聞いてれば、何よ。私がその服をアフラとあなたに作ってあげたのよ。私が感想を聞くべきだわ」
アルノルトは腕を組んで言った。
「聞いてたんじゃないのか? それに立ち聞きは良くないな」
ユッテは一度怯んでから言った。
「ここはドア一枚だから聞こえるの!」
「じゃあもう感想も聞いただろう?」
「そうだけど……そうじゃなくて! 服は気に入って貰えたかしら?」
「まあまあかな?」
「まあまあ? 穿き心地はいいんでしょう?」
「いいね。すごく。でもちょっと女っぽいのがね……」
「男女兼用だと聞いたけど? でもアフラには似合いそうだと思わない? その為にサイズも余分に作ったの。私も着たかったのもあるんだけど」
「そうだね。着せてみないとね。今日はアフラはいないのかい?」
「ええ。借りてる聖書を帰るまでに読破しないといけないんですって。ドイツ語とラテン語の聖書を比べ読みしてるのよ」
「うーむ。意外と勉強熱心だ」
アルノルトは改めて感心して頷いた。
「そうでしょう? アフラは勉強を続ける方がいいと思うのよね」
「そうしたら君もしょっちゅう遊びに来れると?」
「そうしていたいけど、私は一週間の約束なの。城の家庭教師が待ってるから」
「まあ、村では日曜学校だけだから、ラテン語までは出来ないしな」
「何ならアフラを城で預かって、勉強させてあげてもいいのよ」
「馬鹿言うな!」
アルノルトは急に声を荒げて怒鳴った。
ユッテは目を丸くして手を口に当てて、急に黙り込んだ。
アルノルトはこの目を見たことがあった。これはもう泣く前の顔だ。
セシリアが責めるような目でアルノルトを見ている。
アルノルトは仕方なく謝ることにした。
「怒鳴ってゴメン。でも……それは約束違反だ」
「ごめんなさい。ただ、アフラに勉強させてあげたいというだけで言ったのよ。でも、あと少しで別れてしまうのは、とても辛いわ」
ユッテはそう言うと涙を滲ませ、自室へ駆け込んだ。そして扉の向こうからは泣き声が聞こえた。
アルノルトは意気消沈してしまい、セシリアに謝って、部屋へ戻った。
タダで泊めて貰っているというのに、無礼極まりない事を言った事は、他の女中や護衛騎士にも聞こえていた事だろう。
今度こそ追い出されるかもしれないと、また今日も想いが巡った。
そして、アフラに生まれたもう一つの危険を感じつつ、眠りに就いた。




