リンデンホーフの丘で
ユッテの部屋へ帰るとホテルの支配人がいて、セシリアが顔色を変えていた。
「ユッテ様。この壺は相当するようで、弁償になるとの事です」
「私は何もしてないわ。弁償なら兄様に言って」
支配人は揉み手しながら言った。
「はい。伺っております。王子様とそちらの男性が揉み合って壺を割ったとか。ですのでそちらの男性に持っていただくというお話になっております」
「待って! 兄様が押したんだから、全部兄様のせいじゃない?」
「何でもこうした場合は、王族を妨害した罪人が全額持ちになるそうです」
「罪人って、この人はもう解放されたのよ?」
「罪は免除されたようですが、慣例は慣例ですし、王子の護衛騎士の言った事に私は逆らえません」
アルノルトは恐る恐る聞いた。
「それは一体、幾らですか?」
「銀貨十枚です」
アルノルトは血相を変えた。
「銀貨二枚になりませんか。全財産でそれなんで……」
「うーん、残り八枚は両替商に言って分割支払いならそれでもいいですが……」
「高利貸し? そんな事……とても返せないよ」
アルノルトにはちゃんとした収入すら無い。利子が付けば大変な事になろう。
その隣でアフラが袋を出して言った。
「ここに銀貨四枚あります」
「おい。アフラ、どうしてそんなに持ってるんだ?」
「エリーザベト様に戴いたの。あとお父さんからの滞在費ね」
「それは助かるが、いいのか?」
「ええ。でもまだ四枚足りないのね」
ユッテは高らかに言った。
「残りは私が出すわ。それで解決ね」
アフラはユッテの方を伺って言う。
「いいんですか?」
「私の兄のせいだし、後できっちり請求してやるわ」
支配人は手を胸にして言った。
「それはそれは王女様、お話が早くて助かります。ではお預かり致します」
支配人はアルノルトとアフラから銀貨を回収し、セシリアからは宿代から一緒に請求する確約を取った。そして部屋を出て行こうとした所を——
「待って下さい」
アルノルトが支配人を呼び止めた。
「はい。何でしょう」
「その……全財産を持って行かれると、帰れなくなるんです。食うにも困るし。壺が古かった分くらいはオマケして貰えませんか」
「それは無理ですね。新しく買い換えますし、こちらは過失がありませんので」
「じゃあ、ここで働かせて貰えませんか。一週間でいいんです」
「当ホテルでですか?」
「何でもしますので、お願いします」
「あなたはうちのパティシエに見込みがあると言われていたようですし。今は人手不足です。いいでしょう」
「本当ですか!」
「但し使えなければ、すぐに辞めて戴きますよ」
「ハイ! 頑張ります!」
アルノルトはその日のうちから見習いとして働く事になり、初日は一通りの道案内の後は、ひたすら皿洗いをした。
ホテルの一階にはレストランもある。これが大変な盛況のようで、夜遅くまでかなりの枚数の皿を洗わねばならなかった。
幸いな事には仕事中の食事が付いたので、朝食さえ我慢すれば食事に困る事は無い。泊まる所もユッテと同室という気兼ねはあるが、何とか確保されていた。
アルノルトが仕事を終えてユッテの部屋へ帰って来ると、セシリアがドアを開けてくれた。
「遅くまで大変でしたね」
部屋の中はもう暗くなっていて、既に寝静まっているようだ。
「もう寝たのかな?」
「はい。お食事がまだでしたら、注文を取るよう言い付かっておりますが」
「夕食は出してくれるので、大丈夫です。ありがとう」
アルノルトが案内された部屋へ入ると、ソファーが端に押し詰められ、長椅子とスツールを集めて作った簡易なベッドが出来ていた。
「少し手狭ですが、寝台はご用意出来ております」
「十分です。ソファーも使っていいんですか?」
「ええ。この部屋にある物はご自由にどうぞ」
「働くと喉が渇いて、水は何処にあるんですか?」
「水差しをお持ちしますね」
セシリアは水を取りに隣室へ行った。
アルノルトは長く泊まるつもりが無かったので、手持ちの着替えが殆ど無く、鞄の中のものをソファーに広げて着替えの確認を始めた。
その中には紐付きのパンツもある。アフラの着用していたものとほぼ同じ形だ。
「そのパンツ……」
戻って来たセシリアはそれを見て言ったが、アルノルトが思わず手で隠したので、言った自分も恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「ア、アフラさんのと同じですね」
「母さんのお手製なんです。紐で調整出来ればお古でも着れるからって」
「どこの店を探しても無いわけですね。今、その形を参考に特注して作っている所です」
「そうなんですか?」
「ユッテ様がお気に召されたようで」
「お姫様が? こんなの着るとは思わなかった」
「新鮮だったようです。それにアフラさんが似合っておられましたので」
「元々は男用なんですけどね。お姫様はそれなりに女性用にアレンジした特注品がいいと思います」
「水差しをこちらへ置いておきますね。この部屋は護衛騎士の休憩所でしたので、誰か間違って入って来たら、追い払って下さいね」
「王族の護衛騎士を追い払う? また危険な橋を渡る予感がしますよ」
「追い払えなければ、私を呼んでいただくか、そのまま過ごしていただくよりありませんが……」
「がんばってみます……水をありがとう」
アルノルトはセシリアの入れてくれた水を一杯飲み、荷物を確認し終えると、急に頭を抱えた。
「ああ、何という失敗を……」と呻いてしばし後悔に暮れた。着替えも物資も足りないが、もうお金が一銭も無い。
「おやすみなさいませ」
セシリアはそれをあまり見ないように苦笑いで部屋を出て行った。
アルノルトは諦めてベッドに入った。こんないい部屋に泊まれる事は良いのだが、護衛騎士が来そうな部屋は居心地が定まらない。
明日も朝早くから仕事がある。取り敢えず一週間仕事を頑張ってみよう。アフラが帰るのは一週間後なのでそれは丁度いい。父に手紙を出して、しばらく帰れない事を知らせよう。
そう考えながらアルノルトは目を閉じて眠りについた。
次の日の早朝、アルノルトは少し寝坊してセシリアに起こされた。
「おはよう御座います。アルノルト様? もうご予定の時間ですよ」
「わっ。セシリアさん、おはよう。起こしてくれてありがとう」
「朝食の用意が出来ております」
「食べる暇が無いけど、パンだけ一ついただいてもいいですか?」
アルノルトはセシリアにパンを貰い、それを頬張りつつ仕事場へ向かった。
急いで仕度部屋へ行くと、コック長が待ち構えていて、
「遅い! パンを頬張りながら来るな!」
と小言を言われた。
アルノルトはサイズの一回り大きめのボーイ服に着替えさせられ、朝から掃除に明け暮れた。
主に厨房とレストランの掃除をし、廊下や玄関を掃除すると、今度は皿洗いが待っている。時々コック長に呼ばれてルームサービスの料理を部屋へ運ぶ事もあった。
ほぼ間も無く働き続け、ようやくお昼を過ぎた頃に暇が出来、厨房裏の階段に座ってパンを囓りつつ休憩をしていると、アフラとユッテがやって来た。
「兄さん、お仕事どう?」
「お疲れのようね、アルノルト」
「ん、おう。案外忙しくて目が回りそうだ」
「その服、とてもお似合いね」
「これ? サイズが合わなくて腕を捲ってるよ」
近くにいたコック長が王女がやって来たので背筋を正して言った。
「これは王女様、ご機嫌麗しゅう。こらアルノルト、しっかりご挨拶しろ」
「こ、こんにちは」
アルノルトが無理矢理立たされて挨拶させられると、ユッテは言った。
「無理に挨拶しないでいいの。コック長さん。私はあなたの客よね。この人は私のお客。客の客は?」
コック長は少し考えて言った。
「客ですね」
「判れば今みたいな扱いはしないで」
「ですが、これも仕事を早く覚えて貰うため、意地悪などではありませんので」
ユッテはそんなコック長に言い聞かせるように言った。
「だいたいこの人が働いてるのは何のためか知ってる? 私の部屋に兄が無理に押し入ろうとするのを止めて、突き倒されて、その時に壺を割ったからよ。部屋に無許可に押し入る人を止めるのは、本来ならホテル側の仕事では無くて? それに普通はこんな年の子なら、そこまでの金額は問われない。ホテルが被ってもいいのよ」
「仰る通りで……」
「王族の跡取りに立ち塞がるなんて、あなたに出来る? 壺を割ったのもこの人のせいじゃないのに、黙って被ったのよ。そんなご立派な人に変な事をさせたら、一生の恥と思ってくれていいわ」
アルノルトはユッテにそう言われると自分が失敗したと思っていた事が、そうでも無いような救われた気持ちになった。
「持ち上げ過ぎだよユッテ、その辺にしてあげて」
アルノルトがそう言うと、コック長は再び姿勢を正し、礼を取った。
「判りました。こちらも丁重に遇しますので、この辺りでご容赦下さい」
「判ってくれれば結構よ」
コック長はその姿勢のまま言った。
「アルノルト、しばらく自由時間をあげよう。鐘八つだ」
鐘一つで十五分、足して二時間もある。
「そんなに!」
「お相手して差し上げるといい」
そう言ってコック長はウィンクし、厨房へ戻って行った。
アルノルトは呆気に取られたままだったが、少し嬉しい。
「お相手だって」
肩を竦めてアルノルトが言うと、アフラが笑った。
「良かったわね、休憩が増えて」
ユッテは心配そうに言った。
「嫌な事させられてない? あのコック長、顔がキツそうだもの」
「少し指導は厳しいけど、間違ったことは言わないよ。悪い人ではない」
「そう。良かった」
アフラが怖ず怖ずと聞いて来た。
「お仕事ではタルトを焼いたりしないの?」
「今のところそれは無いな。掃除とか皿洗いさ」
「私のお願いとしては、タルトを焼く秘訣を見て盗んできて欲しいわ」
「またタルトか。それは仕事だからどうも出来ないな」
「そんなあ。ちょっと盗み見して来てくれれば」
「機会があればな。さあ、この間にお父さんに手紙を書こうかな。しばらく帰れないからな」
すかさずアフラが言った。
「手紙ならもう書いて出したわ。お医者様が今日言ってた怪我の様子と、兄さんが帰れなくなったいきさつも書いたわ」
「医者に診て貰ったのか? どうだった?」
「うん。思ったよりいいって。もう少しで傷が塞がるそうよ」
「そうか良かった。なら手紙も急がなくていいかな。実は手紙を出すお金も無いんだ。ただ、出来れば迎えに来てくれないかな。二人分の馬車代までお金が貯まるか正直判らないし」
「私もあのお金、本当は教会に寄付するはずだったの。生徒にして貰った分は寄付するものなんですって」
ユッテが思い出したように言った。
「私もまだ寄付してないわ。あとでセシリアに言っておかなくちゃ。何ならアフラの分も寄付しておくけど?」
「それは出来ません。教会への寄付ですから、神様を誤魔化しちゃう事になりますから」
「まあそうね。ねえ、それより、これから向こうの丘に行ってみない? 前から気になってたの。近くだからすぐ帰って来れるし」
「リンデンホーフの丘ですね。それは行きたいです。兄さんも?」
「アルノルトもよ」
「えっ? 僕はいいよ」
「ちょっとだけピクニックしましょう。昼食にサンドイッチも付けるわ。そんなんじゃ足りないんでしょう?」
「昼食? じゃあ仕方無いなあ」
アルノルトはその言葉と裏腹にホクホク顔だ。最近のアルノルトは食べ物で簡単に釣れる。
「決まりね。ちょっと準備するから玄関ロビーで待っててね」
ユッテとアフラはサンドイッチや飲み物、馬車を用意するために一旦部屋へ戻った。
外で動きやすい服に着替え、おめかしなども入り、二人が再びアルノルトの待つ玄関ロビーにやって来る頃には鐘が二つ鳴っていた。後には一人で全ての荷物を持ったセシリアも付いて来ている。
アルノルトはボーイ服のままで玄関ロビーにずっといたので、道を聞かれたり、仕事を頼まれかけたりと、周囲の目がかなり苦痛だった。
「遅いぞー。休みが無くなってしまう」
「お待たせ。じゃあ、行きましょ」
玄関先には既に馬車が御者と共に待っていて、一同四人はそれに乗り込んだ。
リンデンホーフの丘への道は、通りから角を一つ曲がればすぐに上りの階段があって、そこで馬車を降りる事になった。アルノルトは軽く笑うしかない。
「なんだ、この距離で馬車? これなら歩いてくれば良かったよ」
「そうね。帰りは歩きましょう。馬車は返すわ」
「兄さん、ユッテさんは王女様なのよ。本当ならこんな所でウロウロ出来ない人なの」
「じゃあ、丘の方も人がいっぱいだよ? 大丈夫かな」
「いいのいいの。ここで私なんて気にする人いないから。行きましょう」
一同は馬車を降り、小島のように木々が繁った丘へと階段を上って行った。
セシリアの荷物が明らかに多過ぎるので、アルノルトは一番重そうな水筒と食器セットの籠を手に取った。
「お客様に持たせるわけには……」
「客って言うよりお世話になってる身ですし、僕も持ちたいんだ」
リンデンホーフの丘の上は石壁を巡らした丘に森と公園が広がっている。
ユッテとセシリアはそこに広い芝生を見つけると、その上に大きめのナプキンを敷いて座り、そこでサンドイッチとフルーツの籠を開いた。
「はい、どうぞ」
ユッテはそこからサンドイッチを一つ取って、アルノルトに渡してくれる。
「待ってました。ありがとう」
アルノルトはそれを受け取って、美味しそうに食べた。
「仕事の後で食べると、ひときわ美味しいね」
「それは良かったわ。ここは他より一段高くて、木や芝生もあって、良い景色ね」
「向こう岸が遠くまで見えるよ」
「キレイね。とても良い場所を見つけたわ」
その横でアフラもサンドイッチを一つ貰って食べたが、今日のユッテは何だかアルノルトばかり構っているような気がした。
セシリアは一人一人にセイジのお茶も注いでくれ、その後は林檎を剥いて出してくれる。しかし自分が食べる事は無く一人仕事に徹していた。
「そこはいい眺めだろう」
そこへ通りかかった初老の男が言った。隣には夫人を伴っている。
「ええ、とても。何てキレイな場所なのかしら」
ユッテが褒めると夫妻は上機嫌に笑った。夫人が言った。
「ここは昔、ローマ時代のお城だったんですよ。向こうのエーテンバッハ教会まで続く城跡があったんです」
ユッテはそう聞いてひどく納得したように言った。
「へえー。そうだったんですね。あの教会、お城みたいだと思ったの」
「お城で勉強してたんですね。素敵!」とアフラも目を丸くした。
男は頷いて言った。
「そうだろう。今ではもう潰して埋めてしまってな、公園や広い教会になっている。ところで、そこの芝生はあまり踏み荒さないで欲しいな。植えたばかりなんだ」
「すいません」
と、アルノルトが立とうとすると、
「いい、いい。今から立っても踏むのは同じだけだろう。軽そうな女の子ばかりだしな。後で踏み荒らさないように出てくれ」
「はい、判りました」
「ところでそこの女の子二人は、見覚えがあるな。エリーザベト様の披露会で騒いどった子じゃないか」
アフラが首を傾げた。
「騒いでたかしら?」
「騒いでた」とアルノルトは頷く。
「ではあなたもあのパーティーに?」
「ああ、私はここの帝国執政官さ」
帝国執政官と聞いてユッテが驚いて聞いた。
「え! 帝国執政官! それって、ここではどれくらい偉いんですか?」
「参事会があるから、偉そうな事をする訳では無いが、帝国から判事とチューリヒの主な教会の後見を任されている」
アルノルトが目を輝かせた。
「父のような……管区長のようなものですね!」
「そなたの父はアーマンか。規模は違うが、まあそのようなものだ。どこのアーマンだ?」
「ウーリです」
「ウーリか、ウーリは良くやってくれていた。階段を降りたすぐそこに家がある。何かあったら言って来るがいい」
「実は……お聞きしたい由々しき問題があります……」
「何だね?」
「実際起こった話です。ある賠償事故がありました。ホテルの一室で一人の自由民が王子の道を塞いで、王子に突き倒されてホテルの壺を割ったのです。その場合、その壺は自由民がホテルに弁償するものですか? それとも王子の過失責任ですか?」
「えらく具体的な話だな。その場合は罪が重い方が賠償する責を負うな。自由民の危険行為があった場合は自由民、王子が暴力的だった場合は王子、両方で喧嘩してたら双方で割る、という所か」
アルノルトは立ち上がって手を広げて言った。
「自由人は立ち塞がっただけです。危険な行為は何もありません。この場合に罪はありますか?」
「王族の通行は塞いではいかん事になっている。しかし、それは公務の時だ。ホテルの一室ような私的な場所でなら関係が無い。よって賠償責任は王子になるな」
「それを聞きたかったんです! ありがとうございます!」
感激したアルノルトは一跳び跳び上がって執政官の手を取った。
「お主、芝生を踏み荒らすなと言ったろう」
「あ、はい……すいません」
「しかしな……王子に賠償しろと言える人がそうそう居らんだろうな。そこがかなり難しい。代理人を立てるとしても人を選ぶし、相当のお金もかかる」
「そ、そうですよね」
「まあ、そんな相談もそこに見える尖り屋根の家で受け付けてる。いつでもおいで」
男と夫人はそう言って去って行った。二人の行く先を見送ってアルノルトは言った。
「いい人に会えた」
「そうね。いい人だわ」
ユッテは少し違う意味で頷いた。その違いが判ったアフラはアルノルトに言った。
「兄さん、相談に行って来れば? 場所もすぐ判りそうだし」
「そうだな、でも、お金がかかるらしいし、仕事が忙しいから行く時間があるかな……」
残りのサンドイッチを頬張りながらアルノルトは考えを巡らした。
ユッテは「そんなことしなくても私が後で言ってあげるのに」と言ってくれたが、アルノルトは断った。
「王族に頼ったとは後で村の人には言えないしな。やっぱり後であの人を頼ってみるよ」
そうしているうちに八つ目の鐘が鳴った。
「しまった、遅くなってしまった。僕は行くよ。二人はゆっくりしてて」
「頑張ってね」
「ああ。サンドイッチありがとう」
アルノルトは慌てて丘を下り、走って仕事に戻った。
ホテルの仕事場にアルノルトが戻ると、少し遅れていたにも関わらず、誰も怒らなかった。
「少し遅くなってすいません。次は何をしましょうか」
恐る恐るコック長にそう言って見ると、コック長は優しい声で言った。
「いいんだ。じゃあ食器を洗ってくれ」
そこからはあまり雑用に振り回される事が無く、アルノルトはただひたすら食器を洗った。
少し慣れてくると食器を洗いながら周囲の料理の様子を伺う余裕が出来た。パティシエがタルトを焼き始めるとそれを横目に見つつ、手順やレシピをおさらいしたりも出来た。
夕方になると、「今日は帰って良い」とコック長に言われた。
「これから夕食で厨房が一番忙しくなるんじゃ……」
「心配してくれるのは嬉しいが、事情が事情だし、早朝からあまり遅くまで働かせるのは良くないと支配人と決めたんだ」
「まだやります。やらせて下さい」
「王女の言う通り、お前は本来客だし、王女の所へ遅く返してお相手も出来ないんじゃあ、またクレームが付くだろうからな。彼女は貴賓中の貴賓客なんだ」
「お相手も何も、あまりあの部屋にいたくないんです。それに夕食が出なくなるのは困るんです」
「王女の所で食べてるんじゃないのか?」
「彼女にはなるべく頼りたくないんです。それなら、夕食の休憩をまた長く下さい。その頃には食器が溜まってるでしょうから、それを洗いに来ます」
「いいのか? それなら夕食を出そう。明日からはその分、朝を減らそう。明日から昼前からの出勤でいい」
「それは助かります」
厨房裏でコックが出してくれた夕食を手早く食べ、急に時間が空いたアルノルトは、日も暮れているというのに帝国執政官の家に行ってみる事にした。
遅くなるかも知れないので、一応フロントへ行き先を伝言してからアルノルトはホテルを出た。




