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ユッテの涙


 ユッテは厚い絨毯の廊下を走り、絨毯の切れ目の重なった場所で転び、近付いて来た兄が追い付けない程にさらに走り、誰もいない避難口の階段を降りて来た。岩壁に四角く穴が空いたような平らな場所があり、天井に吊り下げられた船を降ろせば川に逃げられるようになっている。

 そこからライン川の流れを見つめながら、ユッテは涙が止めどなく溢れて来るのをそのままにしていた。

 後からルードルフ王子が階段を降りて来て、「ユッテ」と声を掛けた。

 ユッテは慌てて涙を拭いた。

「どうだ、結婚を弄ばれる気持ちは。余の辛さが少しは判っただろう」

「誰のせいかしら?」

「それについては詫びる。だが遅かれ早かれ決まっていただろう」

「私は、心の準備は出来てました」

「なら何故逃げたのだ」

「イサベラにまで酷い事をして、私はそれを承認までしてしまいました。こんな事なら兄様がしっかりイサベラを口説き落としていれば良かったのよ。それなら私、応援してあげたわ」

「気持ちが無ければ一緒だった。我が思いさえままならぬ。思いすら余のものではなかったという事だ」

「アフラをそんなに好き?」

「そうだな……会えばいつも、まるで何も無い荒野に、一時だけ色鮮やかな花が咲くような気持ちになった。でも、もうそれも終わりだ」

 同じ思いにユッテも心当たりがあった。今までそれに気が付かなかった。

「それは、恋ね。少しだけ、届かなかったわね」

 ユッテはそう言って、また涙を零した。

「ああ、泣くが良い。余の代わりにもな」

 そう言うと、ユッテは兄に抱きついて泣いた。

「色々、邪魔してご免ね……」

「ユッテが邪魔な事など、あるものか」

「嫌な事いっぱいしたわ」

「大した事ではない」

「私達、似たもの同士ね……」

 その言葉は何処を差しているのか王子には判らない。

「そう言ったろう」

 ルードルフ王子はユッテが泣き止むまで大人しく胸を貸していた。



 ユッテはチューリヒへ戻る事が許されず、何とか説得出来た頃には気が付けば三日が経っていた。移動日を含めればほぼもう一日が経った事になる。

 ようやくにしてチューリヒに戻ったユッテがエーテンバッハ教会の副院長室を訪れると、アフラは講義中だと言う事だった。

「じゃあ、私、後でまた来ます」

「貴女も仮入学の学生ではなくて? あれからまだ一度も講義に出席されてないでしょう。一緒にお受けになっては?」

「そうでした」

 色々あってユッテはそんな事すら忘れていた。自分を受け入れてくれる場所があることは少なからず嬉しい事だった。

 副院長の案内でユッテは講義室にやって来た。

 ドアを入るとアフラが目を見開いて、小さい声で「おかえりなさい」と言って迎えてくれた。

 ユッテはアフラの隣に座り、講義に加わった。

(何の講義?)

 ユッテは囁き声でアフラに聞いた。

(ラテン語です。全く判らなくて困ってます)

 アフラは講義テキストをユッテに見せてあげた。

 この時代の聖書や本はラテン語のものが殆どだったため、修道院でラテン語は必修科目だ。公式文書でもラテン語を使用する事が往々にしてある為、王侯貴族も少なからず同じだった。

「聖書の一節ね」

 ユッテはテキストを指で辿りながら、その訳を口にした。すらすらと滞りなく言うその解説は、ゆっくりと進めていた講師に勝っていたようで、周囲から拍手が漏れた。

「すごーい。ユッテさん、語学は天才級ですね」

 アフラも拍手して絶賛した。

「流石は王女。勉学が進んでいますな」

 講師も感心して言った。ユッテは少し恥じて言った。

「いえ。お邪魔しました。どうぞお進めにになって」

「私のお教え出来る事は少なそうですね」

 少し寂しそうに講師は講義を続けた。


 講義が終わると、アフラとユッテは執務室へ向かった。エリーザベトにその鍵を預かっていて、出入りはいつも自由だ。二人は部屋の応接用のソファーに座ってしばしの休憩をした。

「ユッテさんはラテン語ペラペラですね」

「毎日のように勉強したら誰でもそうなるわ」

「先生より解説が端的で上手でした。ユッテさんに教わりたいくらいです」

「いいわよ。教えてあげる」

「やったーっ。ラテン語判らないと講義について行けなくて。ここ判らなかったんです」

 アフラは本棚からラテン語の聖書を取り出し、ユッテに教授をせがんだ。

 ユッテはそれを先程の調子でスラスラと読み解いて見せ、アフラは必死でその速さについて行った。気が付けばあっと言う間に講義一つ分程も訳が進んでいた。

「あとは、前に貰ってたドイツ語の聖書があるでしょう?」

「はい。ここに」

 アフラがその聖書を取り出すと、ユッテはラテン語の聖書と同じ節を空けて並べて見た。

「こうして見比べれば意味が判るし、見返せば判らない単語も判るでしょう?」

「凄い。今までのこと全部書いてある! ここの数字で場所が判るんですねー。知らなかった」

「こうして対訳で両方読んでいけば、きっとあの教師より早く勉強が進められるわ」

「はあー。とても勉強になります。ありがとうございます」

「お役に立てて嬉しいわ」

「ところで、ご実家の集まりは、どうでした?」

「ええ……いつもより大変だったわ」

「なんだか浮かない顔をされて入って来て、怒られたのかなと思って」

「アフラったら。怒られたりはしなかったけど、その方がましだったかも」

「そんな大変な事ってあるんですか?」

「王宮はねえ、いろいろあるの。まだ言えないけど」

 ユッテは溜息を吐いて項垂れた。

「ここまで言って秘密ですかぁ」

 アフラもまた項垂れるので、ユッテは思わず笑った。アフラは講義の時間割を取り出して言った。

「次の講義は哲学史だそうですよ。受けますか?」

「それはちょっと小難しいからパスね」

「じゃあ、糸紡ぎします? 毎日行ってるの」

「それも苦手だわ。少しお腹が空いてるの。また私の宿に来ない?」

「そうですね。それもいいですね」

 ユッテとアフラは馬車で大通りのホテルへ行き、戻るなりロザーナにおやつをせがんだ。

 おやつとは言え、そこは王室御用達、しばらく待つとホテル自慢の高価なタルトが幾種類も出て来た。

「す、す、すごいーっ」

 アフラは望外のご馳走の山に恍惚とした。

「遠慮無く召し上がれ」

「戴きます! 全部食べていいんですか?」

「いいけど、そんなに食べられないでしょう?」

「食べられます! 別腹ですもの!」

「でも少しは余らせて、女中達にも下げ渡すのが嗜みなのよ」

「じゃあ、ちょっとずつ全種類戴きます」

 そう言いながらアフラは給仕に全種類のトルテを取り分けて貰った。そして手を汚さないように皿を持ってザッハトルテに一口齧り付いた。

「うん。おいしい」

「アフラがタルトにかける熱意も凄いわね」

 ユッテも同じトルテを手で掴んで食べた。こういう場所では手で良いようだ。アフラも真似して手掴みになる。

「私、タルトを作れるようになりたいんです」

「そうなの? じゃあ後でここのシェフに教えて貰いましょう」

「いいんですか?」

「言ってみないと判らないけど、私が言えば多分大丈夫でしょう」

「お金を出すユッテさんの権利? ですね」

「権利というか権威ね」

「権威? どう違うんですか?」

「言う事を聞いた方が身のためだぞって言う、まあ脅迫の一種だわ。最低ね」

「そんな。自然にお願い事聞いてくれるところもあるものですし」

「まあ自然な風にお願いしてみましょう」

「きっと美味しかったですって言えば、いい顔で教えてくれます」

「いいわね、それ」

 二人はタルトを食べてお腹いっぱいになると、早速給仕の案内で、厨房へ行った。

 厨房へ着くと給仕は「お待ち下さい」と言い残し、支配人を探しに行ったので、二人は周辺を歩きながら厨房の見学を勝手に始め、タルトを焼くと思われる大型のパン焼き釜を見つけた。

「これで焼くのね」

「大きい。鉄の扉が重そう」

 焼き釜には大きな鉄の扉が三段に付いていて、アフラが開けようとしてもビクともしなかった。

「こら。勝手に触るんじゃない。火傷するぞ」

 そこへやって来たコック長は言った。

「タルト、とても美味しかったです」

 アフラは開口一番から言ってみた。しかし、コック長は素気なく、

「それは良かった。しかしここは邪魔だ。向こうへ行っててくれ」

 と二人をそこから追い立てた。

「ヤーン」

「ヤーンじゃない!」

「コック長?」

 そこへ支配人を連れた給仕がやって来た。支配人はコック長を窘めた後も睨んでいる。そしてユッテの前に来て恭しく礼を取った。

「ご機嫌麗しゅう王女様。大変うちの者が失礼を致しました。ご見学をご希望だとか」

「これは! これは、これは、我が厨房へようこそ」

 コック長の態度が気持ち悪い程に急変し、右手を胸に当て、営業スマイルをしている。

 ユッテは出番とばかりに言った。

「一つお願いがあって来ました。タルトの作り方を教えて欲しいそうなの。教えてくれないかしら」

「お二人に?」

「この子だけよ。大変美味しかったので、是非教わりたいと」

 頷いているアフラを見て、コック長は言った。

「ウチのレシピはそう安々とは教えられないのです。それにこの子じゃ小さ過ぎて作れないでしょう」

 アフラは食い下がって言った。

「基本だけで良いのでお願いします」

 コック長は少し考えて言った。

「ここはいつも動いている仕事場ですので、教える時間はほぼありませんから、ここでは料理は目で見て盗むのです。人手不足なので手伝うというなら作りつつ教えないでもないのですが……」

 アフラは腕を捲って言った。 

「お手伝い? 私します!」

 ユッテはしかし、慌ててアフラを止めに入った。

「駄目よアフラ、貴女は安静にしてなきゃいけないんじゃない。お医者様にまた怒られるわ」

「怪我に触らなければ、大丈夫です」

「それにこんな所で働かせたなんて言ったら、兄様に怒られるわ……」

 この言葉にアフラは、ユッテの兄に対する心境の変化を感じざるを得なかった。

「これは私の望みですもの、むしろやりたいんです」

「じゃあ、私もやる?」

「ユッテさんこそ、こんな所で働かせたら怒られそうです」

「怒られるとしたら、あなたよりここの人ね?」

 支配人が慌てて言った。

「判りました! では、急遽、体験イベントを組む事にしましょう。いいねコック長?」

「はい……。でしたら次に沢山タルトを焼く時にお呼びしますので、見学に来て下さい」

「タルトを焼く時? じゃあ良い頃合いに私が纏めてオーダーすればいいのね」

 とユッテは満面の笑顔で頷いた。

「むう、それは作ったものを食べて頂けた方がよりいいですね」

 コック長は漸く笑顔を見せて頷いた。

「では、決まりね。今日はもう沢山食べたので、早速明日の今頃、今日と同じものをオーダーします」

「明日……畏まりました」

 支配人とコック長は深く礼を取った。

「すごいわユッテさん」

 アフラは大喜びで手を打って跳ね、ユッテと笑い合った。



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