旅の始まり
早朝の霧深い坂道を、幌を掛けた馬車はやって来た。アルトドルフの大通りから少し入った駅舎の前に、その馬車は止まった。
馬車を御するのはエルハルトで、御者台のその隣にはアルノルト、そしてブルクハルトが座っていた。
「着いたぞ。荷を下ろせ」
御者台にいたブルクハルトは馬車を降り、後の荷台へ声を掛けた。
幌を被った荷台の中では、何故かマリウスの笑い声が聞こえるばかりで出てくる気配が無い。
ブルクハルトは荷馬車の幌を大きく捲った。
「どうしたんだ。早くしろ。ん?」
荷馬車の中にはマリウスとソフィアが座っていて、大きな毛布で梱包した荷物に紐を巻いている。
「なんだこの荷物は!」
マリウスがその荷物の前に立ちはだかって言った。
「僕の荷物さ」
「さっきこんな大きな荷物無かったぞ」
「どうしたんだい」
御者台を降りて来たアルノルトがやって来て、幾つか鞄を下ろし、軽々と荷台に飛び乗った。
「これかい? マリウスの荷物って?」
「うん! そうだよ」
「こんなに要らないだろ。ちょっとは減らして持って行け」
アルノルトが毛布を捲ると、そこにアフラの頭があって、目が合い、思わず毛布を戻した。そしてマリウスとソフィアを見ると、肩を竦めてお願いのポーズをしている。
「あ。ソフィアの荷物も一緒? 仕方無いなあ。持てるかな」
アルノルトが持ち上げてみると、かろうじて持ち上がる。
「ほら、マリウスも手伝え」
その毛布の荷物は二人で持ち上げて、荷台から石畳の地面に下ろした。
「アタッ…」
「ん? 何か声がしたような」
幾つか鞄を抱えたブルクハルトが荷物を振り返るが、すかさずソフィアがそこへ「エイ」と飛び降り、アルノルトとマリウスは急いで毛布を持ち上げて立ち去って行った。
そこへエルハルトが声を掛けた。
「荷物は全部降りたかい?」
「ああ、これで全部だ。ありがとう」
「じゃあ、僕は戻るよ」
「留守を頼むよ」
父の言葉に、エルハルトは一つ頷いてから馬車を発した。
アルノルトが馬車から下ろした荷物をアッティングハウゼンの持つ駅舎の玄関口に入れた。
ブルクハルトが駅舎の二階に続く広い階段を上って行くと、その上にあるレストランを兼ねた待合室には、既にアッティングハウゼンとヴァルターが待機していた。
「待っていたぞブルクハルト。どうかね。署名は首尾よく集まったかい」
「村周辺の者は殆ど集まったよ。そちらはどうです?」
「通り毎に手分けして居る者はほぼ書いてもらった。上首尾じゃ。ヴァルターもな」
「南は山ばかりでしたが、集落は通り沿いだから、通りに近い所だけ回ってきたんでさ」
三人のアーマンはそれぞれの仕事を十分果たせた事を確認し合い、胸を撫で下ろした。
「ひとまずそれは良かった。実は子供達を連れて行きたい。ルーディック卿から招待されていたんだ」
「特急馬車に乗れるといいんだが。何人だ?」
「三人だ」
「確か六人乗りで意外と広かったから大丈夫じゃないでしょうか?」
「もう一人いたら辛い所だったがの」
階段を半ば上がって座っていたアルノルトは、その声に耳をそばだて静かに階段を上がっていった。
「ひとつ頼みがある。パレードの時に使った服を子供用に借りたいんだ。なにぶん良い服が無くてな」
「ああ、構わんよ。階段裏のその衝立の裏に戸棚があるじゃろう。その中にある。見繕って持って行くがいい」
「すまないな」
「あまり荷物が溢れると、行きみたいにまた荷物に囲まれるから程々にな」
「ああ」
ブルクハルトは衝立の奥へ入っていき、戸棚から服を幾つか見立てて取り出した。幾つか選んで鞄に押し込むと、アルノルトが階段を上がって来た。
「ああ、この子か」
その声にブルクハルトは鞄を抱えて顔を出した。
「おお、我が息子、アルノルトだ」
「実は……」
アルノルトが口籠もった。
「どうした。挨拶をしろ」
「あ、おはようございます」
「おはよう」
「実は……もう一人いるんだ」
「何? 他に客が来たか?」
「いや、荷物の中にアフラがいた……」
「何だって! あれかー!」
ブルクハルトは階段を駆け下りた。アルノルトもそれに続く。
階段を降りる途中、マリウスが毛布の荷物に話しかけているのが見えた。
毛布をよく見れば、丸くなった人の形をしている。
「いるのか?」
ブルクハルトがそう聞くと、マリウスは慌てて離れながら大きく首を振る。
「いるだろ」
ニヤリと笑ったブルクハルトは毛布を引っ張ってみた。そこには足の形が出て来た。
ブルクハルトは足のあるらしい毛布の端を指の先で擽ってみた。
「ふっ!」
何か声にならない息が聞こえた。が、その後の反応は無かった。
「こっちかな?」
ブルクハルトはもう片方の足をコチョコチョと擽る。
「キャーっ! 止めて—! もうダメ—っ!」
毛布ごともぞもぞと暴れ出すが、紐が掛かっているため、ただ転がって捩れた。
アルノルトは慌てて顔の布を取った。
「アフラ、観念して出て来い」
毛布から顔を出したアフラは、苦しそうに顔を真っ赤にして「はあー。ごめんなさーい」と言って悄げている。
マリウスは紐を解き、毛布にくるまったアフラを開梱した。
ブルクハルトはしゃがんでアフラに顔を近付けて言った。
「怪我しているんだから家にいろと言ったろう。どうして言い付けが守れない?」
「だって……」
「だって?」
「私も行きたい!」
「ダメだ! 長旅だ。傷に悪い」
「熱もずっと無いし、傷は瘡蓋出来たもん。治ったもん!」
「それは治ったとは言えないだろう」
「マリウスもソフィアも行くのにぃー! 私も行きたい! 行きたい! 行きたーい!」
涙目を大きく見張らせて服に掴みかかって言うアフラに、ブルクハルトはやれやれといった風に頭を掻いた。
「駄々っ子か……。しょうが無い奴だな」
おもむろにアルノルトは跪いて、優雅な仕草で左手を胸に、右手を帰り道へ向けて言った。
「お嬢様? 上流貴族の集うパーティーに嗜みの無いお子様はご遠慮願います」
ブルクハルトは感心して言った。
「流石、領主と付き合いのあるアルノルトはもう礼儀が身についたな」
「うぅ」
青くなったアフラはアルノルトの逆を向いて聞かない振りをしたが、アルノルトは畳み掛けて言った。
「おやおや、服は寝間着のようですね。笑い者になりに行く? ずいぶん面白い方のようで」
「ヤーン!」
恥ずかしがるアフラにアルノルトはさらに畳み掛ける。
「荷物に紛れて来た侵入者はどうすべきか? 地下牢か、次にはサーカスにでも売ろうか?」
「えうぅ。売らないで。お父さーん。ごめんなさーい」
アフラは半ば泣きながら父に縋った。
ブルクハルトはしかしその言葉に唸った。
「うーん本当だぞ。ここで見つからずに行っていたらどうなることだったか。危なかったぞ」
父に目を向けられたアルノルトは言った。
「考え無し過ぎるぞアフラ。その格好で! ここから帰るにも着替えがいりそうだな」
ブルクハルトはさっきの鞄をアフラに渡して言った。
「いい服を借りてある。取り敢えず着替えて来い。二階に衝立があるからそこを借りるといい」
「うん」
アフラは鞄を受け取って二階に上がると、優雅にお茶を飲むアッティングハウゼンとヴァルターの目を避けるように鞄を楯にして隅の衝立まで走り、衝立をしっかりと囲い込み、そこで着替えをした。
「例の子かの?」
「そのようですな」
二人のアーマンは目で笑い合った。
そうしている内に特急馬車が駅舎にやって来た。この便は南の峠の入り口にあるジーレネンの宿駅を始発とし、そこからアルトドルフへやって来て、しばらく停留する。
ブルクハルトは馬車の前方にある荷物スペースに持って来た荷物を載せ込みつつ、アルノルトを駅舎の二階に呼びに行かせる。
アルノルトに呼ばれて幾つもの荷物を抱えつつやって来たアッティングハウゼンとヴァルターは、御者にこの便で運搬する郵便物を渡し、その後荷物スペースに自身の荷物を載せ、自身も馬車に乗り込んだ。
続いてブルクハルトも馬車に乗ろうとする。
そこへアルノルトに続いて白いフリルドレスに着替えたアフラがスカートの裾を持ち上ながら歩いて来た。
それは春祭りのパレードの時にイサベラが着ていたものだが、サイズが一回り大きいようだ。
「わぁっ! アフラ。お姫様みたい。似合うわ!」
ソフィアはその姿に飛び付いてアフラの回りを回っている。
「これ、少し大きいの。引きずっちゃう」
「少しだけよ。少しヒールの高い靴を履けば大丈夫じゃない?」
「ソフィアも同じのがあるわ。きっとサイズは合いそうね」
アフラはそう言って鞄を開けて見せた。
「うわーっ! 私も着て来ていい?」
鞄を受け取ったソフィアは近くにいたアルノルトへそう聞いて来るが、馬車はもう今にも出発しそうなので父の顔を伺った。
「何してる、早く乗れ。アフラは帰るんだ」
ブルクハルトがそう言ったので、アルノルトは首を振って「だってさ」と言ってからひとまず馬車に乗り込んだ。
続いてアルノルトの手に引かれ、マリウスが乗り込み、それにソフィアも続く。
一人残されたアフラは長いスカートを持ち上げたまま悲痛な声を上げた。
「私も行きたい!」
ブルクハルトは手で帰れという風に山の方を差した。
アフラは落胆してスカートを落とし、項垂れながらも、まだ言った。
「私も行きたい……」
強くなりだした雨がアフラの服に染みを作って行った。
御者がやってきて「乗るんですか?」とキョロキョロする。
アッティングハウゼンがそれを見て言った。
「乗せてやるんじゃなかったのか」
「怪我してるのでな……」
「さっき元気に走っとったぞ。大事ないじゃろ。着替えておいて可哀想じゃ無いか」
「今年の春の乙女です。参加資格は充分でさぁ」
「席がもういっぱいだが……」
「詰めて詰めて」
「つめてつめて」
対面する前席に座っていたアルノルト、そしてマリウスとソフィアは席を出来るだけ詰めて座ってみた。
すると小さい子ならギリギリ座れそうなスペースが出来た。
「なんとか大丈夫そうだよ」
「大丈夫、大丈夫!」
ブルクハルトはそれを見てアフラに手招きして呼びかけた。
「許可が出た」
アフラは跳ねるように顔を上げた。
「いいの?」
「傷には注意しろ」
そう言ってブルクハルトはアフラに手を差し伸べる。
「やったぁー!」
バンザイして飛び上がったアフラはブルクハルトの手を掴み、馬車に駆け上るように飛び乗った。
「ゆっくりだ。傷には注意しろって言ったばかりだろう」
そうブルクハルトが言っている内に「よかったね」と言うソフィアとハイタッチし、マリウスともハイタッチをし、アフラは隣の狭い隙間にお尻をねじ込んだ。
「きっつ!」
「定員オーバーかも」
騒ぐ子供達を置いて御者は馬車の扉を閉めた。
「それでは、特急馬車、出発します!」
御者は鐘を鳴らしてから御者台に上り、手綱を振って馬車を発した。
特急馬車は馬は四頭立てで、特急というだけあって速度は早い。道を横切る人があると、鐘を鳴らして警告を発しつつ、馬車は速度を上げていく。その分揺れが酷く、道を曲がる度に子供達は悲鳴を上げ、はしゃぎ声を上げた。
ブルクハルトが五月蠅そうに目を顰ませて言った。
「舌を噛むからあまり喋るなよ。それでアフラ、出るとき家には言ってきたのか」
「う……説得出来なくて、寝るふりしてからこっそり毛布被って馬車に乗り込んだの」
「それじゃあ、カリーナは知らないのか! 家で一騒動になるじゃないか!」
「ごめんなさいっ」
「次の駅舎で速達の手紙を出しておくか」
湖畔の山道は所々道がぬかるんでいるものの、平らに砂を敷かれ、段差や急な坂が無いように整備されている。特急馬車ともなれば走行する速度も速く、今までに無い速さで馬車がシュウィーツの駅舎に着いた。
そこで御者はもう早々と四頭立ての馬を交換する。
その作業の間、子供達はゾロゾロと馬車を降りて、揺れで痛めたお尻を撫でつつ体操をし、ブルクハルトは駅舎に手紙を出しに行く。アフラとソフィアは行き交う行商人を目聡く捕まえて、底の高い安い靴を荷物の中に見つけ、ソフィアが多めに貰っていた小遣いで買った。アフラは小遣いも何も持って来ていないので、ソフィアはお揃いのものを一緒に買ってあげた。
そして馬車は準備を終え、全員が再び乗り込むと、御者はベルを鳴らして馬車を発する。
広いアルプに沿った平坦な道は、山へ向かう昇り道となり、谷間へと入って行き、山に囲まれた盆地の湖沿いの村、アルトに着いた。
そこでは馬は換えないが、届け物の小包を降ろすため、しばしの停車をした。僅かな間でも子供達は馬車を降りてお尻を擦った。
「綺麗な湖ーっ。なんて言う湖?」
アフラが少し離れた湖を見てそう言うと、ブルクハルトが答えた。
「ツーク湖だ」
馬車は湖沿いへ出て、湖畔を蛇行する道を進んで行く。
近くで見る湖の色は、エメラルドよりも澄んだブルーだ。
波の少ない湖面を真っ直ぐに船が行くのを見て、アルノルトが言った。
「船便の方が楽そうだな」
アルトの港からは船が出ていて、そこから長い湖を縦断して幾つかの町を繋いでいる。
「荷物が沢山ある商人は、実際ここから船でツークやクシュナットまで行くんだ。そこからまた馬車や川船に乗せ替えるんだ。ところで次のツークでしばらく停まるが、降りるんじゃないぞ」
「どうして?」
「ハプスブルクの代官の根城になっている。変な難癖をつけられたら堪らんからな」
「おしり痛いのに—」
「我慢するんだ」
しばらく進むと湖の北端に背の高い建物が見えた。それがツークの町並みだ。船が沢山行き交う港があった。
ツークでは馬を換えるので、馬車は少し長めに停留した。その間子供達は荷物置き場で立ち上がって、体を伸ばして過ごした。
しかしそこへ、偉そうな騎士が荷物を取りに来て、馬車を覗き込んで来た。
その騎士は幾つかの荷物を引き取って帰って行ったが、重々しい雰囲気がこの町にはあった。
その先からは山越えの道だった。
馬車は深い森を駆る険しい道を進んで行った。
山を越えるとやがて道は舗装されたように揺れが無くなり、眼下には霧が掛かった大きな湖が見えた。
うっすらと対岸が見える長く細い湖は、まるで巨大な川のようでもある。
「あれは川? 大きい」
アフラが窓から見てそう言うと、ブルクハルトが答えた。
「チューリヒ湖だ」
「細長くてウーリ湖に似てるね」
「ルツェルン湖でなく?」
「対岸から来る人はルツェルン湖って言うけど、こちら界隈ではウーリ湖でいいんだよ」
ソフィアとアルノルトそんな湖の名前の談義をしていると、ブルクハルトが指を差して言った。
「この辺から東半分は見えるだけラッペルスヴィル領だ。湖の北端の一帯が目指すチューリヒだ」
「ラッペルスヴィル家ってこんなに大領主だったのか。チューリヒより広いんじゃないか」
「すごーい。ウーリより広いんじゃないかしら」
「まあそうだな。そろそろ着替えておけ」
アルノルトが服を出してみると、豪華に膨らんだ袖のある赤い天鵞絨のローブに同じ生地のカボチャ型の半ズボン、それに紫とオレンジと左右で色の違うタイツ状のショースというスタイルだ。マリウスも緑の色違いのような服だがショースは無難に白い。アルノルトは服を広げて見て苦い顔をした。
「このショースは何かの間違いだよ。色が片違いだ」
「文句を言わず着るんだ」
「穿き間違えと思われるよ。穿かなくてもいい?」
「裸足でもかっこ悪いだろう。これが流行の先端なんだ」
座席の前部にある荷物スペースにはカーテンが付いていて、アルノルトとマリウスはそこで着替えた。
ソフィアは恥ずかしがって、皆が降りてから着替えるという事だった。
何せ馬車の揺れでカーテンの隙間が出来て、着替えはほぼ見えていたのだから。




