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国境の牛小屋


 明くる朝には雨が降っていた。アフラはエルハルトに早朝から起こされ、牛小屋へ行く準備をした。

 エルハルトは大きな二つの藁束をロープで繋いでから、それらを肩に抱えて牛の背に一度乗せ、それ左右へ落として背に吊り下げる。そして牛の背で張り渡されたロープに皮布を巻いて当て、左右の藁束のバランスを取った。


「じゃあアフラ、これで落とさず行くんだぞ」


「落としたら私乗せられないわ、背が届かないもの。重いし」


「だ・か・ら! 落とさないで行くんだ」


「ハーイ」


 アフラは雨を避けるために頭からスッポリと覆う赤い頭巾を被った。頭から膝丈まで真っ赤な姿だ。

 牛のタロスは何故かその姿に反応し、アフラを追い掛けて来る。


「兄さん。タロスが追い掛けて来るわ!」


「ハハハ。牛は赤い物が好きなんだ。角で突かれないようにな」


「ヤダーッ! 怖い!」


「手綱を握ってれば大丈夫さ」


「めっ」


 アフラは牛の手綱を握って牛を落ち着けると、牧場を出発した。

 到着までは歩いて四時間くらいもかかる道のりだが、放牧と比べればまだ道がいい。

 牛は首に大きなカウベルを付けていて、起伏を歩く度にカランコロンと音を立てる。

 長い手綱を引くアフラの歩みはゆっくりだったが、牛はその足に合わせて歩いているようだ。

 しばらく道を行ったところで、牛はアフラの赤い服を気にし始め、鼻先を擦りつけて来た。そのうちに角が当たるものだから、これにはアフラも堪らない。


「痛! こらタロス! 角立てたでしょう!」


 アフラは手綱の端でタロスの角を打ち、怒って見せたが、牛には挑発にしか見えなかったようだ。

 タロスは首を下げてアフラにさらに角を立てて当たって来た。

 一応は闘牛の牛、軽く当たるくらいでもそれはかなりの痛撃だった。


「キャー! イターイ!」


 たまらずアフラは手綱を放して逃げ出した。

 タロスは追い掛けて来るので、アフラは道の端に巡る木の柵に登った。


「しっしっ」


 柵の上からアフラはタロスを追いやろうとしたが、追いやっては仕事が頓挫する事に気が付いた。


「どうしよ〜う」


 そのまましばらく対峙していると、タロスは道端の草を食み始めた。

 そこへ柵の内側からやって来たのはマリウスだった。


「お姉ちゃん何してるの?」


「マリウス! タロスが追い掛けて来るの。手綱を取って」


「やれやれ。ダメだな—」


 マリウスは柵を乗り越え、タロスが草を食べている隙を見て、易々と手綱を取り上げた。


「どうだ、タロス!」


 マリウスは手綱をタロスに向けて言ってみたが、タロスは草を食み続けるのみだった。

 次にマリウスはアフラを振り返った。


「どうだ、お姉ちゃん!」


「偉い! ありがとう! マリウス」


 アフラは柵から降りて来て、手綱を受け取った。


「昨日の牛小屋へ行くの?」


「ええそうよ」


「僕も行くよ。丁度雨だし」


「そんな格好じゃ濡れちゃうわ」


「へっちゃらさ。もう濡れてるもの。またこんな事あったらお姉ちゃん困るでしょ?」


「そうね。じゃあ行く?」


「うん!」


「タロス。もう食べた? 行くよ、もう」


 アフラはタロスの手綱を強く引いて、再び出発した。


「イタタッ」


 アフラがタロスに突かれた脇腹を見てみると、服に血が染みていた。服を捲ると深い傷になっている。


「怪我しちゃったね。大丈夫?」


「タロス〜っ! こんな怪我しちゃったじゃない!」


 アフラが脇腹のその怪我を牛に見せつけると、タロスは申し訳ないという様に小さくモーと啼いた。

 ビュルグレン村の広場に来た頃には、雨もかなり小降りになっていた。

 アフラの赤い頭巾はやはり目を惹いた。通りがかりの村の人が挨拶をして来る。


「牛を連れてお使いかい?」


 ビュルギ家の母親、デーレは言った。


「うん。怪我した牛に藁を届けるの」


「ああ、うちの人が作った小屋の? 雨の中国境まで歩いて行くのかい。大変だね」


「この頭巾があれば雨はへっちゃらなの。なんだけど……」


 アフラは脇腹をちょっと押さえて言った。


「お腹空くだろう? じゃあ途中で食べてね。はい、マリウスにも」


 デーレは持っていた林檎を一個ずつアフラとマリウスに渡した。

 マリウスは林檎を貰って大喜びだ。


「ありがとう!」


 そうしていると子供を三人連れた親子が歩み寄って来た。


「大っきい牛!」


「この牛は闘牛の牛かい?」


 父親に聞かれてアフラは自慢気に言った。


「ええ、そうよ。昨日の牛祭りで賞を取ったのよ。タロスって言うの」


「流石に強そうだ」


「かっこいいなあ」


「そうでしょう。角に気を付けてね。さっき突かれたから」


「どうどう」


「タロスー」


 子供達はタロスを撫で回した。タロスが首を振るとアフラは手綱をギュッと握って暴れないようにしたが、案外大人しくしている。


「撫でられるの好きみたいね」


「小さいのに偉いね。これあげる」


 子供達の父親はアフラとマリウスに持っていたビスケットをくれた。


「こんなに? ありがとう」


 ビュルグレンの村の広場を過ぎ、アルトドルフの市街を過ぎると道は湖畔の山間に入って行く。そこからは道も細くなり、アフラもマリウスも滅多に来ない場所だった。山林の中に入り、道も悪くなって、分かれ道も所々あった。

 しばらく行くと道は小さな牧場に辿り着き、巡らされた柵に囲まれた。先へ行くと袋小路になっていて、作りの荒い小屋のような家と、柱に屋根だけのある牛小屋が幾つかあった。


「なんか怖いよここ」


「マリウス。戻るよ」


 二人が道を戻ろうとすると、道端から顔中黒い髭だらけの男が牛を連れて歩いて来た。

 その牛はアフラの赤い服を見て、何か興奮したように前足を掻き始めた。


「どうどう!」


 黒髭の牛飼いは牛を必死に抑えようとするが、手綱が無く、牛の目前に立ちはだかって、視界を塞いで落ち着かせた。

 アフラとマリウスが近くまで歩いて行くと、男は正面で道を塞いだまま振り返り、お互い顔を見合わせた。

 横幅がアフラの倍もあり、見上げるような大男が、吊り上がった目を大きく見開いて睨んでいる。


「お嬢ちゃん、その赤い服!」


「お気に入りの頭巾なの。雨避けなの」


「いかんいかん!」


「悪い?」


「悪くは無いが、いや、牛飼いには最悪の色だ! お嬢ちゃんも牛を連れてるんだ。赤は止めた方がいい。牛が奮り立つんだ」


「もう! 先に言っといて欲しいわ!」


 アフラは地団駄を踏むように言い放ち、その勢いにたじろいだ男の脇を強引に歩いて行こうとした。

 黒髭の男は後の牛の目が爛々としているのを見て言った。


「いかん! もし牛が向かって来たら、赤いのは脱いで遠くに投げてやるんだ」


 アフラは立ち止まって振り返り、男を見た。


「そんな方法があったのね。それも先に聞いておけば良かった。ご親切に」


 アフラは赤い頭巾の長い裾を広げて、片足を半歩下げて礼をした。

 すると男の真後ろにいた牛が、アフラに向かって突進した。


「キャア! また!」


 アフラは慌てて頭巾を脱ごうとしたが、脱ぐにも時間がかかるので、頭巾を捲り上げ、そのまま走った。


「前が見えなーい!」


 マリウスも一緒に逃げ、頭巾を引っ張り上げるのを手伝った。

 手綱を解かれたタロスも走った。タロスはしかしアフラへでは無く、隣の牛と併走してその首に角を打ち付けた。そして二匹の牛は道端に走り出て対峙した。

 その間にアフラは赤い頭巾を脱ぎ捨てた。それは風に煽られてすぐ足下に落ちたので、マリウスがそれを拾ってさらに遠くへ投げた。そこには屋根だけの小屋が建っていて、頭巾はその柱に出ていた枝に引っかかった。

 再び牛はそこを目掛けて駆けて行き、柱に掛かった赤い頭巾に角や顔を擦りつけた。頭巾は見る間に汚れ、あちこち破れてしまった。


「あ〜ん。私の頭巾!」


「どーう、どう」


 髭の男は走って行って牛をなだめ、掘っ立て小屋の中に入れ、柵の横木を閉じた。地面に落ちた赤い頭巾を拾ってくれたのは牧場の奥から駆け付けて出て来た初老の女性だった。奥さんなのだろう。


「お嬢ちゃんのねこれ。汚しちゃったねえ」


「ありがとう」


 アフラが受け取った頭巾を広げて見ると、頭や背中が何カ所か破れていて、それは雨を防ぐ役を果たせなそうだった。

 アフラは少し泣き顔になった。


「あーあ。破れちゃってる」


 マリウスは破れたところを摘まんで見たが、簡単には直らなそうだ。


「まあ、雨も上がって来たし、このまま行きましょ。おばさん、道が判らなくなっちゃったの。ここからどう行けばいいの?」


「ああ、道ならここで大きく曲がって、あの柵に沿って坂道を登って行くと繋がっているんだよ」


「ありがとうおばさん。行くよタロス……」


 そう言って、アフラがタロスを見ると、タロスは一人で暴れていて、背中の藁束を振り落とした所だった。


「あ… 何てこと!」


 アフラは藁束を持ち上げてみたが、水を吸って重くなっていてビクともしなかった。マリウスがやっても同じ結果だった。


「ダメだ。ちっとも動かない」


「ねえねえ。おじさん!」


 アフラは小屋の入り口の木箱に腰掛けている黒髭の男を呼びに走った。


「なんだいお嬢ちゃん」


「藁束が落ちちゃった」


「藁束?」


「乗せて欲しいの」


「ああ、そういうことかい」


 黒髭の男は「どっこいしょ」と重い腰を上げ、タロスのいる方へ歩いて行った。


「これよ」


 男は言われた藁束を一つ持ち上げたのは良かったが、二つを繋ぐ縄が付いており、腰くらいの高さで長さが尽きてしまう。


「兄さんは二つ同時に持ち上げられたわ」


 牛飼いは藁束を二つ抱えて持ち上げてみたが、思い切り力んでも水を吸った藁束は持ち上がらなかった。


「無理だ! 藁を減らそう」


「束が崩れちゃうわ。しっかり束ねるの難しいの」


「袋に入れればいいさ」


 そう言って男は小屋から麻袋を取って来て、一つの藁束を割って藁を取り出し、四つの袋を作った。

 それらを牛のタロスの背に乗せ、左右に二つずつ紐で渡して吊り下げた。


「袋ではこれが限界か」


 しかし、一つの藁束はまるまるまだ余っている。


「大分少なくなっちゃったじゃない!」


「ひどいな、おじさんここまで頑張ったのに。こんな藁だけ運んで何処まで行くんだい?」


「国境に怪我した牛がいるの。その牛の餌なの」


「牛祭りの牛か」


「ええそうよ。しばらく毎日届けるの」


「それは偉いねえ。残った藁束はどうする?」


「また明日来るわ。置いておいて」


「牛の餌にあげるなら乾いた方がいいな。軽くなるし。どこかこの辺に干しておくよ。いつでもここに取りにおいで」


「ありがとう」


 アフラはお礼をして、タロスの手綱を引っ張り、坂道へ歩を進めた。

 マリウスがタロスの背を撫でて言った。


「さっきのタロス、かっこよかったね。体当たりして牛を止めたんだ」


「さっきは守ってくれてありがとね。タロス」


 アフラはそう言って牛の頬にキスをした。

 しかし、タロスは雌牛だった。


 湖に沿った山道を行き、岬の先端に近付くと、山の斜面に緑の野が広がる。そこは昨日牛祭りの会場だったところだ。

 道をさらに行くと国境に辿り着き、木の葉の屋根の丸木小屋が見えて来た。


「着いた!」


 丸木小屋が見えるとマリウスが駆けて行き、小屋の中へと駆け込んだ。


「うわ!」


 暗い小屋の中には修道女が三人いて、黒い服なのでマリウスには顔だけが沢山動いて見えた。

 目が慣れてくると、ただ一人白い修道服を着たイサベラが見えた。


「おはよう御座います。いい朝ですね」


「おはよう!」


「あれ? イサベラさんもういる?」


 アフラは牛の手綱を木に繋ぐと、小屋の中に駆け込んだ。


「イサベラさん! 早かったのね。何時頃来たんですか?」


「馬車で送ってもらったの。八時過ぎくらいかしら。皆さん、こちらがお世話になったウーリのアフラさんです」


 年配の修道女が挨拶をした。


「大変お世話になりましたようですね。こんな立派な小屋を作っていただいてありがとう御座います。私は女子修道院長のクレアと言います」


「ウーリのアフラです。お待たせしましたでしょうか。お約束の藁を持って来ました」


 アフラは早速牛の背に積んだ袋を下ろし、マリウスとその袋を小屋へと運んだ。小屋の中で二人は袋を開け、藁を取り出した。


「ちょっと少ないかしら? びしょ濡れだし……」


 心配そうにしているアフラに、イサベラは厳しかった。


「昨日ここにあった量より少ないわね。それに、濡れてるときっと食べないわ」


「ああ、やっぱり。途中半分を置いてきちゃったの。落としちゃって。ごめんなさい」


「そんな。謝らないで。さっきから餌をあげてるから、これでもいいと思うわ」


「でも敷き藁がもっと無いと寒いと思うの」


「そうねえ。じゃあいい方法があるわ」


 イサベラはそう言って、回りに生えてる草を引き抜き、集め出した。


「ゼンメルは枯れ草より、こういう緑の草の方が好きなの。よく牧場で会うと食べさせてあげたわ。だから生えてる草を集めて食べさせてあげて」


「そうね。じゃあマリウスも草を刈って」


 するとマリウスはポケットから小さなナイフを取り出して、手早く草を切り取って行く。


「マリウス、いいわねそのナイフ。早いわ」


「お姉ちゃんの籠にも入ってたよ、多分」


「そうだったわ」


 アフラは籠からナイフを取り出して、草を刈り集めた。二人でやると、草はあっという間に一杯になった。そしてイサベラは二人からそれを受け取って牛に食べさせた。

 それが一段落すると、アフラは小屋の牛糞の掃除をし、敷き藁を敷き直した。そして綺麗に牛の体を拭いてやり、イサベラと修道女達にやり方を逐一説明するのだった。

 そうしているうちにお昼になり、皆、小屋を出て草の上で休憩をした。アフラは籠の中に持って来たサンドイッチや貰った林檎、そしてビスケットを広げて皆に振る舞った。


「皆さんで分けると少しだけになってしまうんですけど、どうぞ」


「ありがとう。私達は普段からお昼は食べませんから、皆さんで分けて下さい」


 修道院長はそう言って辞退したが、一人の修道女はサンドイッチを取った。その黒い修道服は近くで見ると継ぎ接ぎがあり、生地も傷んでいる。イサベラの修道服だけは生地も真っさらで全身白だったのでとても煌びやかに見えた。


「イサベラさんの修道服だけどうして白いの?」


「これはシトー派の修道服なの。私の家はシトー派なので実家から送って来たのよ」


「シトー派? 普通は何派なのかしら」


「エンゲルベルクはベネディクト派教会で、ウーリやこの周辺は大抵そうね。伝統的に修道服は黒ね」


「白の修道服の方が素敵だわ。私もシトー派にしようかしら」


「エンゲルベルク修道院の方々の前でそれを言うなんて、とても度胸があるのね」


「え? あ! いけなかったかしら!」


 聞いていた修道女達は笑った。

 修道院長クレアが言った。


「服装で学派を撰ぶのは良くないわね。でも本来はそんな学派なんて関係ないんです。人の都合で作った物だから、神様の作ったものの中では大した事では無いのよ。時に派閥が違うだけで争いの種なんですけどね。異端なんていうものが出来たから余計に対立が増えたのよ」


「異端ってなあに?」


「異端って言うのは、キリスト教の中でも偽物だって言う判決を受けた学派の事ね。本来は同じキリストを信じる者同士なのに、判決一つで悪魔扱いされてしまうのです」


「悪魔? 怖い!」


「そうね。でも実際その人を見ていたら、大変研究熱心な立派な信仰者でした。悪い事したわけでは無いの」


「怖くないのね?」


「ええ。ちっとも」


「良かったーぁっ」


 アフラが心底ほっとすると、イサベラの笑いが止まらなかった。


「クフフッ。キャハハハハ」


「ちょっとアニエスさん?」


「あー可笑しい。ごめんなさい」


 イサベラは笑いを堪えて謝った。


「僕、リンゴむくの上手いんだよ」


 マリウスはさっき草を刈ったナイフで林檎を器用に剥いて、修道女達に配った。

 クレア修道院長は「ありがとう。上手ねえ」と言って受け取って、これを口にした。


「美味しいわ。草の香りも味付けかしら?」


「いけね。草の汁が付いてる」


「もう、マリウスったら」


 アフラは慌ててハンカチでマリウスのナイフを拭いてやった。

 お昼休憩が終わると、イサベラは牛の食事に緑の草を手でたっぷり摂らせた。そしてアフラはその草を後で食べ易いよう周辺に散らばらせておいた。

 そして、もう一人の修道女は水汲み桶を持ち、マリウスの案内で湖の船着き場まで行って水を運んで来た。そしてその水を牛の側に置いた。

 帰りの道のりは遠い。それだけでもう帰りの時間になってしまう。


「じゃあまた明日。ここで」


「ありがとう。また明日もあなたに会えるなんて、楽しみだわ」


「私も! 明日また来ます!」


 二人は約束を交わし、手を振って別々の方向へ歩いて行くのだった。その約束が叶えられないとは、その時は思いもせずに。

 


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