怪我をした牛
しばらくするとウーリの人々が十人くらい集まって来た。
加わった中にはオイゲーンとモーリッツ、テオドールのビュルギ一家の姿があった。
アルノルトが2輪の荷馬車を引いて来ると、前部を持ち上げて、荷台の後部を牛の目の前に付けた。傾けた荷馬車の下には丸太をたっぷり積んで行く。
アフラがロープを持って来たので、エルハルトはそれを牛の四肢に結わえ付けた。
「じゃあ、行くぞ! 一! 二の! 三! 引いて!」
十人がかりでロープを引くと、斜めになった荷台に巨牛は少しずつ摺上がって行く。最後の腰を持ち上げるあたりからはなかなか持ち上がらず、少し人数が加わってようやく良い位置まで持ち上がった。
そして牛を吊り下げたまま荷馬車の前部を乗せていた丸太を外して行き、梶棒を引いて荷馬車を平らにして行くと、後ろ足を残して牛が乗っていた。
最後にその足を数人で荷馬車へと押し込めた。
「すごい!」
「こんな事が出来るなんて、凄いわ!」
イサベラとユッテが感嘆の声を上げていたが、エルハルトは嘆息気味だ。
「下ろす時がまた大変だ。丸太をそうは持って行けないからな」
そこへアルノルトが駆けて来た。
「車輪が曲がってる! ヤバイよ!」
荷馬車の車輪の軸となる木が大きく湾曲して、車輪はハの字に傾いていた。
「木が曲がって回らなくなってしまう。すぐにゆっくり運ぼう。モーリッツ、こっちに来てくれ。皆さんも付いて来て下さい!」
エルハルトはモーリッツと荷馬車に細めの丸木を乗せ込んでから、前方の梶棒を二人で引いた。
オイゲーンとブルクハルトは後からそれを押して、ようやく荷馬車は進み始めた。
その後にはウーリの人々が大勢随いて歩いて行く。手伝う人とその家族までもが追随して歩いて来ていたので行列になっていた。
イサベラとユッテ、アフラ達も当然荷馬車に寄り添って歩いている。
アフラがアルノルトに聞いた。
「次の決勝戦はどうなるの?」
「不戦敗はもう決定だな。これから始まる一戦で優勝が決まってしまう」
「せっかく勝ったのに勿体ないわ」
「そうだな。戦えれば多分この牛が優勝してただろう」
「アニエスさん、聞いた? 本当は優勝ですって」
「そう……この子が誇らしいわ。でも、少し切ない気持ちになるわね」
一行は行列を成して蛇行する細い山道を進み、尾根を回り込み、少し行った所の道端に少し広い平地を見つけた。
「ここなら少し広く使えそうだ。ここに下ろそう」
エルハルトは細い丸太を二つ、荷馬車の木枠の左右に堅く結び付けた。そしてそれを数人がかりでテコの原理で持ち上げ、荷馬車を傾けて行く、周囲の人は牛に繋がれたロープを握り、牛は声を上げながらロープに吊られるように静かに地面に滑り落ちた。
「ふーっ。これで移動は完了だ。皆さんありがとう! 戻ってくれ」
そう言うブルクハルトの隣に来てイサベラも礼を言った。
「ご助力を有り難う御座います!」
村人達が道を戻って行く中、声を掛けてくる者があった。
「小屋を建てるんだろう。どうする?」
オイゲーンがエルハルトとイサベラを見比べて言った。エルハルトはイサベラを手で差すと、イサベラが大きく頷いて答えた。
「はい! テントでも良いので囲ってあげたいのです」
「骨折となると二月は風雨に晒されるんだ。頑丈な方がいい。まあ考えがある。さっきの丸太を持って来よう。並べて立てて結び合わせるだけでも小屋になる」
「やはり小屋作りの名人は、オイゲーンさんですね」
エルハルトが誉めそやすと、オイゲーンは満更でも無さそうに笑った。
「任せとけ。屋根には葉っぱの付いた木の枝を重ね合わせるんだ。君らでその枝を集めていてくれ。出来るだけ平らなものをな」
「はい! ご親切、感謝致します」
年に見合わない丁寧なお礼をするイサベラに、微笑んで頷いたオイゲーンはモーリッツを連れて荷馬車を引いて行き、丸太を取りに行った。
「じゃあ行くよマリウス。平べったくなってる枝を探すんだ」
アルノルトはマリウスを連れて枝を集めに出た。
「あれがいい」
高い所に良い枝を見つけると、アルノルトはマリウスを肩に乗せて枝を取った。
「虫がいるよ。ちょっと静かにね」
「こら! 人の上で虫取りするんじゃない。マリウス!」
「ああ! 逃げちゃった」
「危ないから! 早く枝を取るんだ。平らなのをな」
こうして二人はいい枝を沢山取る事が出来た。
その間にエルハルトはイサベラと次の算段を話した。
「敷き藁がいる。それに、食べるための藁も。向こうに少しはあったけど、牛は結構食べるんだ。すぐに足りなくなるだろう」
「それはこちらでエンゲルベルクへ言って手配してもらいます」
「牛が動けないとなると毎日手で食べさせてやるか、目の前に置いてやらないといけない。エンゲルベルクの牧場主がそうした牛の世話をどう判断するかは判らない。数日分をウチから届ける事は出来るけど」
「そんなお世話をおかけしては……。いざとなれば、私が毎日通います」
「言ったね? 君に牛の世話が出来るかな? じゃあ始めの三日間だけはこちらが通おう。あとはそちらで頼む事としよう。シスターもその間に来れば牛の世話を学べるしな。こっちはアフラが行けるし」
「私が通うの?」
「お寝坊さんには打ってつけの仕事だろ?」
イサベラはアフラの肩に触れて笑いかけた。
「お願いね。アフラ」
「うん!」
「あとは牛の怪我を診てやらなきゃいけない。そちらの牛飼いさんは獣医も出来る方?」
エンゲルベルクの牛飼いが言った。
「いいえ。ただの牛飼いで」
ブルクハルトが言った。
「会場に獣医がいるはずだ。探して来よう」
そうしてブルクハルトとエルハルト、そしてイサベラは獣医を呼びに出て行った。
残ったユッテ、そしてアフラは、枝を拾って歩いた。手に届く枝を探すが、なかなか平らな枝を見つける事が出来ず、曲がった枝しか取れなかった。
しばらくすると、オイゲーンはモーリッツとテオドールを含む四人ばかりの男達を引き連れて丸太を運んで来た。
まずは不揃いな丸太の長さを鋸で切り揃えた。二本の鋸を使って、モーリッツとテオドールが競争するように切ったので、時間は意外にかからなかった。
切り揃えられた丸太はオイゲーンが受け取り、荷馬車の欄干の上に丸太を並べ、次々とロープで結んで繋ぎ合わせた。そして筏状になったそれらを牛の周囲に運んだ。さらにその四隅に細い丸木を杭として地面に打ち込んで、そこに丸太を立てて端々をロープで縛り付けた。
そうしているうちにブルクハルトが聖ラザロ修道院から獣医を連れて帰って来て、牛の手当も始まった。
「これは……骨折してるね。牛の骨折は大変だよ。体重でさらにひどく折れて淘汰になる事も多いんだ」
やって来た若い獣医は骨折した前足に堅く布を巻き付け、その上に添え木を付けてさらに包帯で何重にも巻いて行く。足を着けて立たせないように体から吊るすようなロープも結わえ付けた。
そのうちに牛の周囲では丸太の壁が立てられて、囲われて行った。
「これで壁が出来た。いいだろう」
丸太の壁が周囲を巡らせて立てられると、オイゲーンが自慢げに言った。
エルハルトがそれを見て言った。
「おお! 流石はオイゲーンさん」
壁の中から出て来たブルクハルトも言った。
「これは立派に小屋だ!」
そう時間も掛からずに出来た丸太小屋の出現に、一同は驚くばかりだ。
「隙間から向こうが見えるよー」
マリウスがその壁に寄り掛かると、その壁がぐらぐらと揺れる。
「こら! まだロープで軽く結わいてるだけだから寄り掛かるんじゃ無い!」
オイゲーンが怒ったので、走って壁の裏へ逃げたマリウスは、その後から言った。
「こっち側の壁は無いよ?」
「丸太が足りなかった。まあ入り口だな」
「ちょっと寒そうだね」
「まあここは布を張るさ。あとは屋根だ」
屋根はさっき集めて来た木の枝を幾重にも重ね合わせて紐で編み込んで行き、板状にしてから丸太の壁の上に渡せ掛けた。そしてこれもロープで結んで止めて行く。あとは壁の強さを出す為に横木を数カ所渡し、布で入り口を塞いだ。
汗だくになって木を切るテオドールにアルノルトが声をかけた。
「今日はがんばるねえ」
「兄貴はさっき首を痛めてるんだ。無理させられないからね」
テオドールは木を切り終えると、転がってる丸木の切れ端を五本程持って来た。
「これ何かに使えないかな」
「こうして見ようか?」
アルノルトはその木を立てて見た。それぞれ長さが違うので、真ん中を高くして、弓状に並べて見た。
「いいね。オブジェみたいだ。表札になりそうだね」
近くをイサベラが通ったのでアルノルトは呼び止めて言った。
「お嬢さん。これどうだい? 名前でも書くかい?」
イサベラは眉間に皺を寄せて、「何ですかこれ?」と見ていたが、何か思い付いて笑った。
「いいわ。これを立て札にしましょう」
アルノルトはその丸木のオブジェを小屋の横に移し、倒れないように地面に埋め込み、土を盛り、踏み固めた。
アフラはそれを見て、その土を盛った所に周囲から集めて来た花を植え、お花畑にした。これはユッテも手伝った。
アルノルトは短い丸木をオノで縦に薄く割って板きれを作った。
イサベラはその板きれに文字を書いて看板を作り、それを丸木のオブジェに取り付けた。板きれにはこんな文章が書かれていた。
怪我をした牛、ゼンメルの小屋。餌を与える人に祝福のあらんことを。
エンゲルベルク牧場
入り口の布を捲り、小屋の中に入ったマリウスは、真ん中で寝そべる牛を避け、片隅に座り込んで屋根を見上げた。
「空が見えるよ」
「どれどれ」
アフラが小屋の入り口から天井を伺うと、不揃いな枝の隙間から日の光が見えていた。木の上で囀る鳥の影が動くのまで見える。
「隙間だらけね。あれは私の集めた枝かしら。雨漏りしそうね」
アルノルトも小屋に入って来て言った。
「快適そうじゃないか」
「僕、しばらくここで住みたいよ」
「牛小屋にか?」
「小屋の屋根は僕も作ったんだもの。雨に耐えられなかったらまた作り直すんだ」
アルノルトは笑って言った。
「マリウスは職人向きだな」
「どうして判るの?」
「判るさ」
「どうして?」
イサベラは出来上がった小屋を見て大喜びだった。外を一周、二周と回ってから、声のする中へ入って来た。
「あ、本当。屋根は少し隙間だらけね。居心地はどうかしら?」
聞かれたマリウスは何故か上から目線で言った。
「雨漏りしそうなのは減点だけど、まあまあだね」
それを聞いていたオイゲーンは、屋根には頗る自信が無くなって来た。
「どうだい。俄作りで至らぬ点は勘弁して欲しいが、これならまあ嵐や大雨が来ない限りは保つだろう」
イサベラは丁重にお礼を言った。
「とても立派な小屋を立てていただき、望外の幸せでございます。心よりお礼申し上げます」
オイゲーンはあまり聞いたことの無い程の丁重さに目を白黒させた。
「こんなに小さいのに良く出来た子だよ。モーリッツお前も見習うがいい」
「オレが礼儀正しいと気味が悪いだろうよ」
モーリッツは首を擦りながら去って行った。呆れて溜息を吐いたオイゲーンとテオ、その連れもそれを追って去って行った。
「そろそろ戻らないとウチの牛達が悪さをしそうだ」
ブルクハルトがそう言うと、エルハルトが言った。
「オレ達も戻ってもっと藁を集めて来よう」
「そうだね」
出て行こうとするエルハルトとアルノルトに、アフラは牛に藁を食べさせているマリウスを見て言った。
「私達はしばらく残るわ。ねえイサベラさん」
「ええ。しばらく牛に藁をあげています」
イサベラはそう言って手で藁を持って牛に食べさせた。
「私もやるわ」
ユッテも名乗りを挙げ、この四人は残って牛のゼンメルに藁を食べさせてやるのだった。
シュッペル一同が会場に戻った頃にはもう闘牛も終わり、牛祭りは散会しつつあった。
残っている人々はマーケットに行って酒や食事、買い物に高じていた。
アルノルトはエルハルトに言った。
「どこの牛が優勝したのかな?」
「それどころじゃなかったな」
エルハルトは藁を探しに駆けて行き、代わりにブルクハルトが答えた。
「うちはもう負けてたから関係ないな」
「ああ、お父さん!」
入り口付近で受付の手伝いをしていたカリーナが声を掛けて来た。今はそこで牛肉の串焼きを振る舞っていた。
「審判団が探してましたよ」
アルノルトはカリーナに聞いた。
「優勝したのはどこ?」
「シュウィーツ農場の牛が優勝よ。不戦勝だから盛り上がらなかったわ」
後にいたブルクハルトが悔しがった。
「あやつ、調子の良い事を言って、まんまと優勝を手に入れおった」
近くで酒を売っていたモランがブルクハルトに言った。
「ビュルグレン農場さん。賞品が出たようですよ」
「ウチに?」
「ええ。優勝牛と戦った牛にもちょっとした敢闘賞が出たようです。向こうの掲示板で見て来て下さい」
「じゃあタロスが!」
「やったあ!」
ブルクハルトとアルノルトは掲示板へと走った。
そこには入賞した牛の名前が貼ってあり、一番隅っこに特別敢闘賞としてタロスの名前があった。
「タロス! でかした!」
「うん! やってくれたよ。エンゲルベルクのゼンメルもしっかり銅賞になってるね」
そこへオイデスリートがやって来た。
「ブルクハルトさん。滑り込み入賞でしたな。賞品は貰いましたかな?」
「いやあ敢闘賞でも嬉しいですよ。オイデスリートさんは四等賞。こちらはさぞ残念でしょうな」
「これはどうも。仰る通りで。さあ、審判団はもうあちらで食事してますよ」
オイデスリートに連れられて審判団の所へ行くと、そこではもうバーベキューをしていて、牛肉を焼いた香ばしい匂いが垂れ込めていた。
焼き串を片手に肉を頬張りながら、髭の審判長が言った。
「あなたはアーマンでは……」
「ビュルグレン農場だ。敢闘賞の賞品を貰いに来た」
ブルクハルトがそう言って入って行くと、審判長は手下の若い男に「渡して」と言ってバーベキューに戻って行く。
近くのテーブルには賞品らしき物が幾つか残っていた。
すぐにその男から顕彰の楯と副賞の袋が手渡された。袋の中身は五キロ程の牛肉の塊だった。
ブルクハルトは一瞬喜んだ反面、牛の肉の出所が気になり、憮然とした表情でそこを早足で歩き去った。オイデスリートとアルノルトはそれを必死で追った。丘を登ったあたりで不意にブルクハルトは立ち止まり、あたりの匂いを嗅ぎながら立ち上る煙を見た。
「ブルクハルトさん。どうかしました?」
「この牛は競技で怪我した牛だろう」
「ええ。他でも怪我した牛が出ましてな」
「不謹慎だ! ここまで来ても匂ってる!」
「美味しそうな匂い。僕は肉好きだよ?」
「ここには今日戦った牛が沢山いる。その目の前で彼らの英雄を一頭解体して、焼いて、匂いをさせて食ってしまうなんて人のする事か。いや、これは我々もしている事だな」
ブルクハルトは最後は少し意気消沈してしまった。
「考えてみればそうですね」
オイデスリートもある意味で同業者なので神妙だ。アルノルトはバーベキューの煙を見ている牛たちを見て、少し切なくなった。
「今日はこの匂い、嫌だと思うよ」
「ウーリから多額の協賛金をギルドに入れてる。何も肉を賞品にすることは無いんだ。あのギルドも独立と結束があればいいという物では無いな。心が無くてはな。今日はもう引き上げるとしよう」
ブルクハルトは運営の手伝いをしていたカリーナを連れて帰ろうと、入り口の受付に行こうとした。
「ブルクハルト! オイデスリートさんも!」
向かう方向からシュタウファッハがエリーザベトとルーディックを引き連れてやって来た。
「優勝おめでとう」
オイデスリートは握手を求め、シュタウファッハと手を握り合った。
「おめでとう」
ブルクハルトは言葉と裏腹に憮然とした表情で言ったものだ。
「ご挨拶だな。まあ今回は貰い物の優勝だ。最終戦も相手が怪我をして審議勝ちだったからな」
「その牛が焼かれているというわけか」
「そういう事だ。下手したらウチの牛かも知れなかったがな」
「今年は怪我が多くて後味の悪い幕切れだな。もう帰るのか?」
「ああ。少し遠いからな」
ブルクハルトはエリーザベトにも軽く礼をしつつ言った。
「エリーゼ様もご一緒ですかな?」
「ええ。船は一緒ですので」
「闘牛は如何でした? この通り粗野な祭りですが、お楽しみ頂けましたかな?」
「ええ! 大変楽しく観戦させて頂きました。もっと前から見に来るんでしたわ。怪我した牛の様子は如何でした?」
「向こうに丸太小屋を作って、そこでしばらく安静です。牛の骨折は治りにくいですからな。経過を見ない事には……」
「公女様が心配ですわね」
「公女様?」
アルノルトは急に大きな声でルーディックに話し掛けた。
「やあ! ルーディック! 向こうの小屋を見に来ないかい? いいのが出来たんだ! な?」
「ああ! それは願っても無い! いいかな?」
「行くならこれを。あなたの渡すべき方に」
エリーザベトはそう言って、数枚の封筒を渡した。
「戻る時は下の船着き場に来て下さいね」
エリーザベトはルーディックを複雑な笑顔で送り出した。
「これ」
歩きながらルーディックはアルノルトにその封筒を一枚渡した。
「何だいこれ」
「招待状さ。後で開けてみて。ルードルフやハルトマンも連れて行こう。ちょっと呼んでくるよ」
ルーディックはそう言って早足で道の端に止めてある馬車へと向かった。そこではラウフェンブルク一家が帰り支度をしていて、何かを待っていた。
「では、彼女達を呼んで来て下さいね」
そんなアンナ女伯の声が聞こえた。おそらくイサベラとユッテを待っているのだろう。
アルノルトはあまり馬車には近付かないようにして、下道の先へとゆっくり歩いて行った。
「先に行かないでくれよ」
ルーディックはルードルフとハルトマンを連れてアルノルトを追って来た。アルノルトは振り向こうともしない。
「その貴族風の服であまり寄らないでくれ。村八分にされたらどうするんだ」
「君はラントアーマンの息子だろう? なら身分は地方貴族のはずだ」
「我が村では牧場主くらいの役割だよ。議長役や判事役もするけど、青空会議での裁判は誰でも発言権があるからね」
「古代のアテネみたいだ。君の村は改めて凄いよ」
「この緩衝地も本来はウーリの土地だけど、土地の争いがあって、みんなで所有者を決めない緩衝地にしようと決めたんだ。だから誰も家や小屋を建てられないんだよ」
「そうなのか。それでハルトマンが場所の提供を申し出たというわけだね。君もやるなあ」
讃辞を向けられたハルトマンは手を大きく広げて言った。
「当然だよ。あの史上最強のイアソンに勝った牛だよ? もう英雄だよ! ねー」
顔を向けられたルードルフも頷く。
「ああ、最強が塗り替えられたと言っていい。あの牛を解体だなんて非道い奴らだ」
「そんなに強かったのか! 確かに太い木の柵を弾き飛ばしていたな」
アルノルトは急に歩を落とし、顔を少しだけハルトマンに向けて呟くように言った。
「牛の骨折は立つだけで非道くなってしまう。なかなか治らないんだ」
「治るといいね」
「そうだね」
アルノルトはようやく振り向いて、不安げに微笑んだ。
「治りますよ!」
そう言いつつ三人は陽光の傾きつつある湖畔の道を歩いて行った。
青く透き通る湖の向こうには、広くシュウィーツが見渡せた。
そんな高台の森の隅に、丸太小屋はあった。
ルードルフは丸木小屋を見るや否や言った。
「これはダメだよ!」
アルノルトは少なからず当惑した。
「どうしてだい? いい出来だと思ったんだが」
「領内に入るのはもう少し先だよ?」
「まさか!」
ルーディックが頭を掻いた。
「これは……ウーリの側に小屋が出来てしまったと……」
「え! そうなのか!」
そう叫んで出て来たのは、小屋の中で藁を敷いていたエルハルトだった。
「あの木の向こうからが領内なんだ」
ルードルフが指を差すのを見て、エルハルトはその場所へ行ってみた。
確かにその場所には領界を示す立て札があったのだが、木が腐って倒れていた。
「これかあ!」
後から来たアルノルトがそれを見て言った。
「本当だ。これから小屋を動かすのは無理だよ。兄貴どうする?」
「特例にするには青空会議が必要か……でもここは村が違うし、あのギルドもいる……」
エルハルトは考えた。しかし考えても打開策は出て来ない。アルノルトが助け船を出した。
「まあ、村のみんなでやったから兄貴一人のせいにはならないさ」
「いや、これはオレのせいさ。ここを決めたのは誰でも無い、オレだからな」
そこへイサベラとアフラが小屋から出て来た。すぐさまルーディックが駆け寄って説明をした。
「これは姫。ご機嫌麗しゅう」
「何か問題があったんですか?」
「どうやら小屋の建てた場所がまだウーリ側だったようですよ」
「まあ、大変!」
イサベラはエルハルトの方へ駈けて行って不安そうに言った。
「どうしましょう?」
アフラもそれに続いてやって来て言う。
「決まり通りなら、すぐ撤去になっちゃう?」
他の皆も国境の木の下に集まって来た。
エルハルトは立て札を手に弄しつつ、悩みに悩んで声すら発しない。
ルードルフは言った。
「ウーリの方で許可を貰えばいいだけさ」
「こちら側はあのギルドがいる。ゲマインデのやっかいな所は、村というよりたくさんいるギルドの利益が第一になって、誰かの小さな善意、ましてや牛一頭のためになんてほぼ動かないという事さ。善良な領主の国に劣るのはこの点だな。この牛を守る事は、決断をしたシスター、土地を貸してくれたラウフェンブルク家、そして実際に動かして小屋を作ったウーリ、三者が揃わなければ出来なかったんだ。今日は君のご両親のラウフェンブルク夫妻、そして君達に会えて良かったと思う。ここはやはり賢明なるラウフェンブルク家にお預けしたい所だ」
エルハルトの言葉にルードルフは誇らしげに笑って礼を取った。
「光栄です」
ハルトマンも少し遅れてそれに習った。
エルハルトは何か思いついたように言った。
「では、一つ大胆な策を取ろう。今、一応各国の有力諸氏が集まってる訳だな。これからする事を立会人としてよく覚えておいてくれ」
エルハルトはそう言って折れた木の立て札をハルトマンへ手渡した。
「宣戦布告する。これから戦争だ。攻めて来てくれ」
ハルトマンは「戦争ごっこ?」と首を傾げるより無かった。エルハルトは続けた。
「これを持って領土侵犯をしてくれ。良いところで立て札を立てるんだ」
ルーディックがいち早く察した。
「戦争面目で、領土を広げてくれという意味だね」
ルードルフが楽しそうに頷いた。
「なるほど、その手があった! 行こう! ハルトマン。君が領主代表だ」
「あ! はい!」
「念のため歩数を数えよう」
「一歩、二歩、三歩…」
ハルトマンとルードルフは並んで歩数を数えながら大股で歩を進めた。
小屋から歩いて来たマリウスは「何の遊び?」と言ってそれを見守った。
ハルトマンは小屋を越した所で立て札を突き立てた。地面が固かったため立て札はすぐに倒れ、すかさずルーディックが横から手で持ち直した。
「五十歩! ここまでだ!」
「うむ。圧倒的なる完敗だ! ウーリは講和を申し入れる。領土回復は後日講和を開くまで。それまで現状維持を認める事とする。如何か!」
エルハルトがウィンクをしてそう言うと、ハルトマンが大仰に頷いた。
「エヘン。宜しい!」
アルノルトがようやく理解した。
「えっ。まさか! 領土回復は後日って、これでもう解決なの?」
「領界を細かく覚えている人が騒がなければ……だがな?」
「大丈夫! ここは目印が木しかないから。見てる人はいないよ」
アフラが声を上げて喜んだ。
「解決ね! やったーっ!」
イサベラが礼を言いにやって来た。
「エルハルトさん。感謝致します。心より」
「いやいや、これはオレのミスさ。気にしないでくれ」
イサベラはふとルーディックに向かって言った。
「ルーディックさん。ずっとご挨拶出来ず申し訳ありません。ご機嫌宜しくて?」
「姫! ご機嫌麗しゅう!」
ルーディックが畏まって礼を取り、立て札から手を離すと、それはまたすぐ倒れた。
するとマリウスがその立て札を取り、にんまり笑うと、エルハルトの方へ歩いて来た。
「わ! ちょっと! それは返して!」
ハルトマンがマリウスを追い掛けると、マリウスは立て札を抱えて逃げ出した。
「立て札で遊んじゃあダメなんだよ〜」
追いかけっこが始まり、ハルトマンがマリウスを捕まえて立て札の引っ張り合いが始まると、エルハルトは怒って言った。
「こらマリウス! 遊びじゃ無い! 返すんだ!」
怒られたマリウスが半泣きでハルトマンに立て札を返すと、ハルトマンはそれを奪うように取り上げ、元の場所に持って行った。そして地面を掘ってそれを土にしっかり立てた。
イサベラとユッテは小屋へ戻り、再び牛へ藁をあげていたが、そこへルーディックがやって来て言った。
「お姫様方。こちらをお取り下さい」
ルーディックは藁の上に跪き、恭しく封筒二枚を差し出した。
「これは?」
「我が結婚披露会の招待状です」
「まあ! あなたの結婚? おめでとう」
ユッテが招待状を二つとも取って、内一枚をイサベラへ渡すと、イサベラが言った。
「是非出席させていただくわ」
「何よりの幸いです」
胸に手を当てたルーディックの後からルードルフが入って来て言った。
「ユッテ、イサベラ姫。そろそろお戻りになるよう、アンナから言付かってます」
「そうですか。そろそろ帰らなければ」
イサベラが返事をすると、ユッテが答えた。
「ちょっと待って。イサベラはどっちへ帰る? 護衛がいないからどっちでも自由よ」
「そうね!」
イサベラは目を輝かせてから何か思い付いて言った。
「牛飼いさんと一緒に歩いてエンゲルベルクへ帰るわ。ゼンメルの事を相談しなければ」
「そう。じゃあ、私も行く」
「残念ながら修道院には人数分しか毛布がないの。それに、ユッテは帰らないと騒ぎになるわ」
「騒がしておけばいいのよ」
「ダメ。私やエンゲルベルクのせいになったらどうするの?」
「判ったわ。じゃあ城へは帰るけど、馬車で送らせて。それくらいはいいでしょう?」
「ええ。慣れない山道だから助かるわ」
イサベラは、牛の傍らに藁の山を作り、「ゼンメル。頑張って」と牛を労ってから、小屋を後にした。
そして子供達は元の牧場へ戻り、そこから徒歩、あるいは馬車や船に乗って帰途に着くのだった。




