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闘牛


 参加者が全員集合した頃合いとなって、闘牛の抽選が始まった。牧夫達は抽選箱に並び、順に札を引いて、トーナメントの枠を取る。ブルクハルトも札を引いて、掲示板の札と見比べる。そして、当る牛を見定めると、村人の方に札を上げてガッツポーズをした。ビュルグレン村の人々は大喝采だ。ブルクハルトは調子付いて村人や家族や知り合いあちこちに向けて何度も札を振り上げるので、待ちきれなくなった役員が何かを叫び、その札は横から奪うようにもぎ取られ、掲示板に掛けられた。その横にはビュルグレンと記される。

「まあまあ良い順だ」

 エルハルトが頷くと、アルノルトは「よっし!」と父に拳を挙げて応えた。マリウスとカリーナも拍手を送った。カリーナの隣にはアフラがいて、その隣にはイサベラとユッテの姿があった。

「アニエスさんが一推しの牛はどの子?」

「やっぱりエンゲルベルクではあの大きな牛ね。ゼンメルって言うの」

「うそ! ホント! さっきの巨牛じゃない! イサベラさんの牛は強敵だわ」

「私の牛って言うわけじゃないのよ。でも時々お世話もしたから、じゃれついて来て可愛いのよ」

「大きくても可愛いものなのね。ユッテさんはどの牛を応援する?」

「私は、そうねえ……。あの子がいい! 鞄を背負って可愛いわ」

 それはアフラの鞄を背に乗せた牛だった。

「あれは私の鞄……。あの子は私の鞄を背負って来てくれたのよ」

「じゃあ、貴女の牛?」

「そうね。でもウチの牧場は村みんなのだから」

「でも貴女のお気に入りの牛ね?」

「ええ、そうよ。お顔が綺麗でしょこの子」

「そうね。可愛い顔してるわ。じゃあ一緒に応援しましょう?」

「うん! タロスって言うのよ」

「タロスね。タロスー!」

 そう言って二人は草を食む牛の方へ駆けていき、「頑張れー」と代わる代わるにその首を撫でた。

 そこへブルクハルトがやって来て言った。下働きのカルバンもいる。

「タロスの番は最初だぞ」

「もう闘うの?」

「ああ。その鞄は下ろしてやってくれ」

 アフラが鞄を下ろしていると、ユッテが「お父様?」と聞いて来た。

 アフラが頷くと、ユッテがスカートを摘まんで貴族式の礼をしかけたので、慌ててアフラは肩を揺らして止めた。

「ちょっと待って。父さん。この人お友達なの。よろしくー」

 ユッテはアフラに体を揺すられてフラフラしながら「よろしくー」と続けた。

「そうか。そうか。アフラを宜しくな」

「相手はどこの牛?」

「オイデスリートのとこのだ。まあ、勝ちは貰ったな」と、ブルクハルトはウィンクをする。

「あの牛?」

「あの白ブチの牛だ」

 見ればその牛の胴回りは一回り大きい。ユッテは心配そうに言った。

「太っちょな牛ね。勝てるかしら」

「しっかりお尻叩けば大丈夫よ。頑張ってタロス!」

 アフラはタロスのお尻を叩いてその場から送り出した。

 カルバンに手綱を引かれ、タロスは試合場の中央へと歩いて行く。相手の牛も同じようにその向かいに来て、牛同士は対峙した。牛と牛が互いに角を突き合わせると、人々の喝采の声が沸く。

「ハイア!」

 鞭が鳴ると綱が放たれ、闘牛が始まった。相手の牛は押し合いながら、大きな威嚇の声を上げる。一回り小さなタロスも始めはゆっくり押し合っているだけだったが、次第に闘争心に火が着いて目を剥いて頭をぶつかり合わせる。そうすると人々の声援も自然に大きくなっていった。

 次第に体格の差が出たのか、タロスは少しずつ押し下げられ始めた。

「いけータロスー! 下がるんじゃなーい! がんばれー!」

 アフラは柵に登って体を乗り出し、手を振り上げて声援を送る。隣でユッテがアフラの声に頷いているのは、そうだそうだと応援の気持ちを送っているのであろう。カリーナはアフラを見かねて言った。

「女の子が一番大声上げてたらはしたないわよ」

「タロ…ス… あ、ごめんなさぃ……」

 アフラのその勢いの萎んでいく様に、ユッテは声を上げて笑った。その向こうにいるイサベラは笑うのを堪えていたが、それは次第に堪えられなくなり、大きな笑い声になった。アフラは足を掛けていた柵から降り、頭を掻いている。

「なんだか楽しそうだな」

 アフラの向こう隣にいたアルノルトがその様子を見て声を掛ける。

 ユッテは急に不機嫌そうになって言った。

「笑うくらいの自由はあるでしょう?」

「もちろん。今は自由民なんだろ? 自由民らしく楽しんでくれればいい」

「そうさせていただきますわ」

「自由民らしく?」

「そ、そうさせて貰う…わ」

「是非そうしてくれ」

 そうしているうちにタロスは次第に押され始めていた。一歩また一歩と後ろに下がって行く。

「まずいな。下がりすぎると負けの判定になる」

 エルハルトがそう唸ると、アフラが再び柵に登り、叫び出した。

「下がっちゃダメー! タロス! ご飯抜きよー!」

 それが聞こえたのか、タロスは一度身を屈めた後、捨て身のように相手の首下にぶつかった。相手の牛は前足を浮かして少し後ろへ弾け飛んだ。そして二頭は少し距離を置いて睨み合う。

「行けー!」

「そうだ! もう一つ行けー!」

 アルノルトが思わず声を上げた。

 それが聞こえたのか、タロスは再び攻撃を始めた。少し下がっては猛烈にぶつかり、また下がってはぶつかる。そうしていると相手の体は正面からずれて、角が横面に刺さるように当った。とたんに巨牛は体を反らして逃げて行く。

 ブルクハルトが手を上げ、向かい側でオイデスリートが頭を覆った。

「勝負あった! 勝者ビュルグレン牧場!」

 審判の声にウーリの人々は大きな喚声を上げた。シュッペル家も大いに沸いた。

「よーし!」

 声と共に飛び出して行ったカルバンは、尚も向かって行こうとするタロスを押さえ、背を叩いて誉めてやる。

「でかしたタロス! どうどう」

 ブルクハルトも角を掴み、二人で自分の陣営に引き戻して行った。

 ユッテは状況が呑み込めず「勝った? 勝ったの?」と聞いている。アルノルトは言った。

「戦意を失くしたら負けだ。だからウチの勝ち!」

「やったわ! キャー!」

 ユッテはイサベラの手を掴んで跳ねたが、イサベラが小さく笑う表情は落ち着き過ぎて温度差がある。その間にアフラが「勝ったわー!」と、飛び込んで来たので、ユッテはアフラと手を取り合って跳ねた。

 ブルクハルトはタロスを引いて、シュッペル家の目の前にやって来た。

「でかしたぞタロス」

「タロス。よくやったね」

 アルノルトとアフラはタロスの鼻面と顎を思い切り撫でてやる。タロスはまだ興奮冷めやらぬようで、しきりに首を上下に振っている。

「ユッテさんも触る?」

 アフラがそう言って場所を空けると、ユッテは怖ず怖ずと手をのばして首を触った。

 イサベラも背伸びして優しく頭を撫でた。するとタロスは次第に落ち着きを取り戻し、大人しくなった。

 ブルクハルトがタロスを讃えるようにその背を叩いて言った。

「お嬢さんに誉められると牛も喜んでるようだ」

 そうしていると、周辺が騒がしくなって来た。アフラが指を差して言った。

「あっ。次はアニエスさんの牛よ。向こうに出てきたわ」

 今年集まった中でも一番の巨牛が姿を現すと、祭りの場に響めきが沸いた。今闘ったタロスより一回り、二回りも大きい。足回りや胴回りも太いので倍くらいの重量がありそうだった。

 エルハルトは溜め息を吐いて言った。

「これはデカイな。対する牛もかなり大きいのに、小さく見える」

 アルノルトはイサベラを頭の端で差して言った。

「牧場主はエンゲルベルク。お嬢さん方の関係者らしいよ」

「道理で栄養がいいわけだ。相手の牛は何処のだろう」

「相手の牛は聖ラザロ農場だ。修道院同士の戦いだね」

 ブルクハルトは言った。

「さっきのブリーンツ伯の所のか」

 ブリーンツ伯錫は貴族席の壇上にあって、髭をさすりながら渋い顔をしている。

「大きさだけなら決勝戦だな」

 両者が角を突き合わせ、鞭が鳴った。二頭の牛は膠着したまま動かないように見えた。しかし、聖ラザロ側の牛は必死に押している一方、エンゲルベルクの巨牛は全くビクともしない。

「イサベラさんはあの牛を応援しないの?」

「応援してるわ。私はね、心の中で『きっと勝つ』ってささやかに信じて思っているだけなの」

「そういう応援もあるのね」

 やがて、唐突に均衡は崩れた。巨牛はゆらりと前へ歩き出したのだ。押し返す牛はまるで力を持たないかのように後ろへ下がって行く。柵の近くまで押されて体勢が崩れると、審議役員が勝ち名乗りを上げた。

「勝負あった! 勝者、エンゲルベルク牧場!」

 巨牛は勝ち名乗りも聞こえないままに突進を続け、相手の牛はとうとう柵の端にぶつかって、丈夫な丸木の柵を折り倒した。圧倒的な幕切れにしばらく会場は押し黙った。

「フフッ。イサベラさんの牛……強過ぎるみたい」

 イサベラも微笑みを返す。

「そうみたいね」

「あんなの反則だわ」とユッテは溜め息を吐く。

「うん。同じ意見だよ」とアルノルトが相槌を打つと、ユッテは「でしょう? 反則よ」と握手をした。

「あら? 何も違反はしてなくってよ?」とイサベラは言い返してくる。

 アルノルトは首を振った。

「あの巨体は並大抵の牛じゃあ押し返せない。それがもう反則だろ?」

「でしたら、体の大きさに上限があると仰るのかしら?」

「確かにそんなルールは無い。少し言葉が怪しいぞ」

「え? じゃあ。反則ではないのではなくて……じゃなくて……じゃない?」

 アルノルトとユッテは思わず吹き出した。

「え? なんて?」

 イサベラは僅かに頬を赤くし俯いて、さらに小さな声で言った。

「ないんじゃないかしら……と」

「もう何がどうだか判らないよ? どっち?」

 アルノルトが腹を抱えて笑うと、いつしかアフラも苦笑いをして口元を隠している。

「もう意地悪!」

 イサベラが少しご機嫌斜めなのを余所目に、アルノルトとユッテは笑いが止まらなかった。イサベラは特に大きな声で笑っているユッテに言った。

「そんなに笑って、ユッテは大丈夫なのかしら?」

「あら。私は変わらないわ。そのままでいいのよ」

「そう言えばそうね。山の方の言葉なのに」

「実は田舎者だったのか」とアルノルトはほくそ笑んだ。

「失礼しちゃう。産まれのラインフェルデンは此処と近いし、それに普段敬語を使わないもの」

 アルノルトは急に言葉を荒らげて言った。

「ああ! これだからムカつくんだ!」

 ユッテはアルノルトの言葉に丸い目をさらに丸く見開いた。

「どうしてー?」

「だって同じ田舎産まれのくせにみんな下々の者だって見下してんだろ」

 ユッテの大きな目はますます大きくなった。

「そうじゃないわよ。そんなこと思ってないわ」

「この辺の人を見て汚ないとか思うんだろ?」

「それは時々……」

「ほらな」

「だって、それは事実そうだから」

「事実! 牛の世話すればそれは汚くなる。でもね。僕らは牛を育てる仕事に誇りを持っているよ。このお祭りもそれでこそ出来るんだから。汚いの避けてたら牛も育たないよ」

「ごめんなさい……だから今は……」

 ユッテは懇願するように言った。

「謝らなくていい! 事実と事実さ。僕らは汚れ仕事の牧者、君らは……」

「止めて」

 イサベラが割って入って来たので、アルノルトは矛を収めることにした。

「それ以上言っちゃダメよ。ね?」

「ああ、言わないさ。言ってもぼやきみたいなものだしな」

 その間ユッテは顔を下に向けていた。

「もう意地悪!」

 顔を真っ赤にしてそう叫んだユッテは向こうへ走って行ってしまった。

「ユッテ!」

 イサベラはアルノルトに責めるような冷たい目を向けてから、それを追って行った。

 アフラはその場に座り込んでベソを書いた。

「ぶち壊しだわー」

「俺が悪いの? いいこと言ったと思ったのに」

「せっかくのお祭りよ? わざわざご機嫌を損ねるようなこと言って!」

「ご機嫌までは伺えないなー」

 様子を見ていたエルハルトが言った。

「アルノルト。謝って連れ帰るんだ。あのまま特等席にでも座られたらバレる」

「判ったよ。次はご機嫌損ねないよう気をつけるよ」

 アルノルトはユッテの行った方向へと走った。アフラもその後を追いかけてくる。

「お前も行くのか」

「そりゃあアル兄だけじゃ安心出来ないもの」

 闘牛をしている横ではマーケットが開かれていて、大人達はもうビール片手に乾杯を繰り返し、ほろ酔いになっている。その中央では楽隊の音楽に合わせ踊る人達もいる。そんな中を抜けて、アルノルトとアフラはユッテの姿を探した。ユッテは端に積んで置いてある丸太の上に腰を掛けていた。傍に立っているイサベラと何か話をして、ユッテはもう屈託なく笑っている。アルノルトはユッテがどうして走り去ったのかまるで判らなくなった。笑っている人に謝る必要が無さそうな気さえする。ユッテはアルノルトに気が付き、あらかさまに顔を背けた。イサベラがそれを見て振り向くと瞬間に冷たい目になった。アルノルトはあまりの気まずさに言葉を選ぶ間もなく言った。

「お嬢さん。また一緒に見よう」

「あら、無理しなくてもいいのよ。ムカムカするんでしょう? こちらも嫌だもの」

 その早口な声はあらかさまに不機嫌だった。

「それは言葉が過ぎた。謝るよ。今日はお祭りだし、みんなで楽しくしていたいんだ」

「誤魔化しで謝らないで。事実と事実なんでしょ」

 ユッテは顔を背けたままだ。アルノルトはもう言葉に困り、アフラにお手上げのポーズをするのみだった。

「あきらめないで!」

 アフラはアルノルトの頬を指で突いて前を向かせた。

 ユッテが目をこちらに向けて聞いた。

「さっき何か言いかけたでしょう?」

「ああ、僕らは汚れの牧者、君らはお綺麗な……なんとも特別なファミリー。それは事実だってことさ。良いも悪いも無いよ。事実はどう言っても変わらないって事さ」

「……そうね。それには賛成だわ。みんな産まれた場所で在るべきように生きてるだけ。なるだけ背伸びしてね。産まれは逃れられないわ。逃れられないのに悪く言ってもどうにもならない。私もそうよ。私達に向けられる好奇の目からは逃れられない。いいえ。逃れるために高い塀に籠るのかもしれない。まるでその中にいつも閉じ込められ、監視されているかのようだわ。こんなに気苦労が多くても私だけ悪く思われるの?」

 ユッテは今にも泣きそうな悲壮な目をアルノルトに向けた。それを聞いてようやく悪いことをしたと思い至ったアルノルトだったが、今や謝る事も出来ず、言葉を探した。

「知らなかったよ。君にもそんな気苦労があるなんて。もう悪く思わないし、悪く言わないと誓うよ」

 アルノルトは謝る代わりにそう誓ってから、恭しい御者のようにユッテに手を差し出した。

「この前と逆ね。こう見えて気苦労ばかりなのよ。あ、でもね、最近はこうして時々お忍びでウーリに出て来るの。それからは少し気が楽になったのよ」

 そう聞いてアルノルトは大きく手を広げて微笑んだ。

「楽しもう。ウーリランドへようこそ!」

 アルノルトがもう一度手を出して小首を傾げると、クスッと笑ってユッテはその手を取り、座っていた丸太から立ち上がった。

 横でハラハラして見ているだけだったアフラが声を上げた。

「あっという間に仲直りしちゃった。兄さんってすごいわ」

 イサベラもそれに頷く。

「激しく同意だわ。スネを曲げると私でも大変なのに!」

「イサベラ、それは言い過ぎじゃない?」

 そう言ってユッテはアルノルトの支えで丸太から下りて地に足を付けると、もう晴れやかに笑っている。少し前の悲壮な顔が嘘みたいだ。

 アルノルトは天を仰いだ。

「誰も、このお天気は判らないな」

「お天気?」

 ユッテとイサベラは空を見て、顔を見合わせた。

「ちがうよ。君らのお天気加減さ。行こ行こ」

「まあ」

「なんだか失礼しちゃう」

 ユッテは少しむくれつつも、歩き出したアルノルトに従った。

 道すがら、民族舞踊をしている所を通ると、イサベラが「楽しそうな踊り!」と声を上げた。ユッテも「もっと近くで見たい」と言っている。アフラは「ちょっと見ていこうよ」とアルノルトに声を掛けた。アルノルトが「うん?」と振り向くと、後ろにはもう誰もいなかった。

 三人は既にダンスを見ている人の輪の中に割り込んでいた。

「近くで見ると綺麗」

 人を掻き分けて一番前に陣取ったイサベラとユッテはご満悦顔だ。色彩豊かな民族衣装を着た八人の男女がペアで輪になって踊っている姿はとてもエキゾチックで美しい。ノスタルジックでリズミカルな音楽は踊れと言わんばかりだ。アフラなどは音楽に合わせて体を動かし始めている。

「つい体が動いちゃう」

 アフラは見様見真似でそのダンスをなぞった。イサベラとユッテはそれを見て目を輝かせた。

「アフラは踊れるのね。可愛い」

 ユッテはすっかり晴れやかな笑顔になっていて、アフラはそれを見て嬉しくなった。

「フフッ」

 腕を組んで回るようにステップ・ステップ・ハイタッチ。そんなリズムでアフラはステップをして回り、ユッテとイサベラにハイタッチをする。イサベラは踊りを真似るような素振りで言った。

「見てすぐ踊れるなんてすごいわ。どうやるの?」

「簡単よ。この辺りでよくある踊りなの」

 いつの間にか追い付いて来たアルノルトが言った。

「簡単だよ。二人組んでやる踊りなんだ」

 そう言ってアルノルトはアフラと向き合ってから腕を組んでゆっくりステップをして見せる。

「男女二人組んで向き合って、腕を組んで回って、あとは適当に手を叩き合う。それだけさ」

 イサベラはその通りに「こう?」とユッテとやってみる。向き合うユッテも「こうね」と乗り気だ。

「そう。そして手を組んでくるっとターンして、ハンドクラップ、ハイタッチ、ハイタッチ」

「両手で? さっきは違ったけど」

「少しずつバリエーションがローテするんだ。でもある意味二人合えば何だっていい」

「こうね」

 ユッテとイサベラは見様見真似でターンしてハイタッチをした。

「そうそう。そうしたら隣とペアを交代して、始めから繰り返す。あとの手振りやバリエーションは回り見て真似れば大丈夫だ」

 イサベラはもう一度始めからやってみた。

「こうね?」

「これで出来てる?」

 そう聞くイサベラに、アフラは「うん、いいわ。かなり省略形だけど」と苦笑いした。

 そうして踊っていると、楽団の音楽が終わり、輪になって踊っていた踊り手達が手招きして呼んだ。

「そんなところで踊ってるならこっちおいで」

「一緒に踊ろう」

 声を掛けた二人は若い夫婦のようだ。

「えーっ。出来るかしら?」

 と、アフラは両手を頬に当てているが、足は数歩踏み出しており、もう行く気のようだ。

 アフラが振り返るとイサベラとユッテは困り顔だ。

「どうしましょう」

「まだ、ダメよ。ねえ」

 というのを聞かなかったのか、アルノルトはもう踊り手の所へ行って話をしている。

「まあ飛び入りは多少下手でも大丈夫だそうだよ」

 そう言ってアルノルトは二人を大きく手招きした。

 イサベラ、そしてユッテは顔を見合わせて、

「思い切って……」

「行ってみる?」と頷き合うと、踊りの一団へ歩いて行った。

 声を掛けた夫婦がこの四人を踊りの輪に招き入れると、音楽が再び始まった。踊りは始めこそ動きが合わなかったが、次第次第に合って行き、踊りの輪が綺麗に回るようになった。アフラの衣装は踊りにとても映え、二人の少女らの服装とダンス姿もとても華やかだったので、観客が次第次第に増えて行った。アルノルトが踊りにアレンジを効かせるので時々踊りは荒れたが、その自由奔放さは見ていて楽しく、観客は喝采を上げたものだった。

 音楽が終わって踊りが終わると大きな喝采が起こり、踊り手の帽子には沢山のコインが投げ込まれた。

 ユッテとイサベラは、放心したようにお互いを見た。

「なんとか出来てた?」

「もう夢中だったから判らないわ」

「良かった。上手だったわ」

 アフラは二人を讃え、互いの手を取り合った。

「初めてにしてはいい踊りじゃないか」

 踊り手達もやって来て少女三人に握手を求めた。

「ありがとうございます。私たち足手纏いでは御座いませんでしたでしょうか…ね?」

 イサベラは言葉尻を誤魔化しながら言った。

「とんでもない。賑やかになって、コインも増えて良かったよ。お礼をしたいくらいさ」

 踊り手の婦人の方が言った。

「ビスケットがあるから、持って行って」

 婦人はビスケットを一人一個持たせてくれた。

 観客を押し分けて、やって来た変な服装の少年達がいた。大人のコートを着たルーディックとルードルフだった。

「やあ! 皆さん」

「いい踊りだったねー」

 彼女達は彼らを見て、すぐ目を反らせ、互いの顔を見合わせた。

「僕らも加えて貰えませんか?」

「どうしたの?」

「ル…」

 ユッテが答えそうになったので皆で一様に口を押さえた。

「逃げろ!」

 アルノルトの声で、一同は一斉に走り出した。

「ちょっと、逃げないでくれよ。ボロのコートを着て来たんだ」

 ルーディックとルードルフは単色のコートを着ているが、内には高級服が見えるので庶民的な雰囲気はまるでない。二人が追い掛けて来たので、アルノルトは折り返して走って戻って来た。

「君らはもう有名人だ。そんなくらいの服じゃダメだよ。僕くらいでなきゃ」

 アルノルトは自身の白い牧童の服を摘まんで言った。

「仲間に入れてくれよ」

「今日は諦めてくれ。頼むよ」

 アルノルトは早足に歩き去って、再び走って行った。

 

 

 少し離れた所で三人のご令嬢が待っていた。目の上に掌を翳して遠目に何かを見ているようだ。

 そこには多くの人垣が出来ていて、その向こうに四つに組み合って戦っている男達が見えた。人々がそれを囲んで声援を送っているのだ。

 アフラがそれを指差して、追い付いてやって来たアルノルトに言った。

「あれは何?」

「ああ、あっちは人と人の闘牛だ。あの腰布を持って倒し合って、相手の背中を地面に着ければ勝ち。シュビンゲンって言うんだ」

「へえ。楽しそう!」

「あれはお兄さんではなくて?」

 アフラがイサベラの言う方向を見るとエルハルトが闘技場の脇に立っている。腰には麻袋に穴を開けた布を穿いている。

「あれ? エルハルト兄さんだ!」

「あっ! なんで兄貴も出場してるんだ?」

「応援しなきゃ!」

 アフラは走って行ったので、イサベラもそれに続いた。取り残されたユッテとアルノルトは顔を見合わせ、しばし沈黙した。遠くから振り向いたアフラが手招きしている。アルノルトが言った。

「走る?」

「走るの苦手なの。さっき走ったからしんどくて」

「じゃあ歩こう」

 二人が少し気まずそうに歩いていると、アフラとイサベラが先へ行って見えなくなってしまったので、ユッテは俄にスカートの裾を持ち上げて走り出した。

「お、走った走った」

 アルノルトは歩みをそのままにユッテを見守った。

「エルハルト兄さん!」

「おお、アフラか」

 エルハルトが腰を回して準備運動をしていると、アフラが駈けてきた。

「シュビンゲンに出るの?」

「ああ。誘われてな」

「出るなら言ってくれればいいのに。家族誰も見に来ないじゃない」

「飛び入り参加だから仕方ない」

 そこへイサベラが追い付いて来て肩で息をしている。遠くから走ってくるユッテも見えた。

「お嬢様をあんな走らせて大丈夫なのか?」

「いけない!」

 ユッテはようやくの事で追い付いて、イサベラの肩に撓垂れ掛かり荒い息をしている。

「大丈夫?」

「平気。こんなに走ったの久しぶりよ」

 アフラは申し訳なさそうに言った。

「走らせちゃってごめんなさい」

「いいの。ここでは自然と走りたくなるわ」

 ユッテは息を吐きながらも屈託なく笑った。

 それを見ていたエルハルトは準備運動をしながら言う。

「もうご機嫌は治ったかい?」

 ユッテは息を整えてつつ頷いた。

「そうね」

「それは良かった。せっかくのカーニバルだ。つまらない顔は放り出して、楽しむに限るさ」

「そうね。ありがとう」

 そのユッテの後ろから、まだ遠い所を歩くアルノルトが小さく手を上げて、こっちを指を差した。エルハルトもそれに大きな長い手を上げて返した。それから人差し指を立てて振った。二人の間ではそれでもう会話が成立しているようだ。

 そうしていると、エルハルトの名前が審判に呼ばれた。

「応援してる!」

 アフラの声にエルハルトは強く頷いてサークルに入った。

 エルハルトの相手はモーリッツだった。向かいで「負かしてやる!」と気勢を上げている。モーリッツはエルハルトと背丈はそう変わらないが骨太な体付きで、胴回りは倍くらいあるように見える。実際にシュビンゲンでは大人とやっても殆ど負ける事が無かった。

 審判が進み出て来て声を掛けた。

「両者腰布を持って」

 エルハルトはモーリッツと腰布を握り会い、四つに組んだ。

「用意! ファイト!」

 審判の声がかかると二人は持ち手を引き絞り、互いに持ち上げようとした。ここで持ち上がってしまえば投げられてしまうので、二人とも腰を落としながら再三持ち上げようとする。しかし二人とも全く動かない。動かずに顔だけが赤くなっていく。これでは二人して傍目には踏ん張っているだけのように見える。

 アフラが良く通る声で応援の声を上げた。

「頑張ってーエルハルト兄さん! でも踏ん張ると乙女の前でみっともないわよ。その格好はちょっとダメー」

 囲む人々に笑いが沸いた。

 エルハルトは真っ赤な顔でアフラを見、抗議するように顎で差した。

 その隙を見てモーリッツは持ち手を変えて、エルハルトを横に払った。エルハルトは思わず倒れそうになり、サークルの外まで飛び出した。

「キャー」と大きな声を上げたのはもちろんアフラと二人の令嬢だ。

 二人の持ち手が離れたためにこれは仕切り直しとなる。再び中心に戻って組み直す際、エルハルトはアフラの方をしきりに見て、何か言いたそうだ。アルノルトがアフラの隣に近付いて、その目が訴えている事を翻訳して見せた。

「応援になってない、むしろ逆だってさ」

「私のせい? これは失敗! 気合い入れて応援しないとね?」

 アフラは頭を掻いた。二人の令嬢は苦笑いしつつ頷いた。

 再び審判の声が掛かると、今度は猛然とモーリッツが押し始める。エルハルトは再び後退りしてサークルから出そうになるが、必死に堪えた。

「いけー! 反撃!」

 そう叫んだのはアフラだ。エルハルトはそれに応えるように思い切って前へ出た。するとモーリッツの巨体が持ち上がり、その足をバタつかせる。オオッと響めきが上がった。組み手は二人とも同じ位置なのだが、エルハルトの方が足が長いのだ。エルハルトはしばらくそのままだったが不意に体を返し、モーリッツをひねり込むように地面へ落とした。背中が地面に着いたらエルハルトの勝ちだ。しかしモーリッツはここで背中を反らし、頭から落ちて背中を守った。地面にはたっぷりとおがくずがあるが、凄い衝撃に目を白黒させている。エルハルトが体を乗せて押し付けると、モーリッツはその姿勢のまま耐えたが、それも束の間、昏倒してガックリと地面に肩を落とした。

「勝負あった! 勝者エルハルト・シュッペル!」

 審判の声に大きな喝采が沸く。アルノルトは「よし!」と両手でガッツポーズをし、イサベラとユッテは手に手を取って飛び跳ね、アフラは指笛を吹いてはやし立てた。

 エルハルトは勝ち名乗りを受けるや、モーリッツに歩み寄り、その顔を叩いたが反応が薄いので、上体を抱えて起き上がらせた。

「モーリッツ 大丈夫か!」

「負けか……。クソッ」

 モーリッツはさも悔しそうに地を叩いた。そうしていると観客から拍手が聞こえてきた。

「ナイスファイト!」

「最後よく首で粘った」

 そんな声には応えず、エルハルトはモーリッツと小さく会話した。

「頭から落ちて正気か」

「うるさい」

「立てるか?」

「まだダメだ」

 エルハルトはモーリッツの腕を肩に回した。モーリッツはエルハルトの肩を借りて立ち上がると、ふらついた足で歩き出し、退場して行った。人々はこの二人を拍手で送った。

 エルハルトはモーリッツを少し先の藁積みの上まで運んだ。近くで藁を噛んでいた牛は声を上げて場所を譲った。

「ここでしばらく寝てるといい」

「ああ、すまんな」

 そこへ弟のテオドールが駈けて来て——

「大丈夫? 兄さん痛い所無い?」と言って心配そうにしている。

 モーリッツは寝転んだまま頭に手を当て、「ああ」と頷くのみだった。

 エルハルトも少し心配そうに見ていたが、

「大鋸屑があったから怪我はしていないよ。少し休めばまあ大丈夫だろう。あとはテオに任すよ」

 そう言うとテオドールは静かに頷いた。

「うん」

 歩き出した所でエルハルトに駆け寄ってきたのはアフラと令嬢逹だった。

「やったね、エルハルト兄さん。かっこ良かった」

 アフラの声に令嬢達もしきりに頷いて黄色い声を上げた。

「そうか? 誰かの声援で負けそうになったけどな」

「声援は関係ないわ。いい戦いだったもの」

 自慢気なアフラにイサベラは頷いて言った。

「素晴らしい戦いでした。戦いの後の姿も素晴らしかったです」

 ユッテもしきりに頷いている。

「戦いの後の助け合う男の友情。それもまた堪りませんわ」

「キャー。本人を前にそれを言ってははしたないですわ」

 後からやって来たアルノルトは大きく咳払いだ。

「ゴホゴホン! 言葉に気を付けよう」

 ユッテは急にトーンダウンして言った。

「あら。あなたいたの」

「いるよ」

 このやりとりは傍目には勝者に女性ファンが詰めかけたように見え、周囲の注目を浴びていた。

 寝転んで顔を覆うモーリッツもまたこれを見て羨ましげな眼差しを向けている。

 エルハルトが苦しげに言った。

「まあ皆が見てる。ここは大人しく席へ帰ろう」

 一同は大人しく元居た闘牛の観覧席へと帰ることにした。



 闘牛の柵に登っていたマリウスが、兄妹達をいち早く見つけて、手を振った。

「あっ帰ってきた! こっちだよー!」

 ブルクハルトも手を上げて言った。

「エルハルト。どこへ行っていたんだ。急にいなくなって」

「ちょっと成り行きでシュビンゲンに出てたんだ」

「兄さん、あのモーリッツに圧勝だよ」

 ブルクハルトも息子が勝ったのは悪い気はしない。至って笑顔だ。

「おおそうか。勝ってきたか」

「うちの牛はどう?」

「ああ、もう負けちまったよ」

 アフラが飛び出して来て言った。

「ええ? タロスは?」

「シュタウファッハの牛に負けた」

「あーあ。残念。じゃあホルストは?」

「ホルストの奴ぁ戦わないで、ずっと草ばっかり喰ってやがった」

 エルハルトとアルノルトは顔を見合わせて笑った。

「ハハハ。まあ、ホルストらしいね」

「残るは四強の戦いだ。実質の決勝戦は次かもしれんな。オイデスリート対エンゲルベルクだ。去年の優勝牛は強いぞ」

 オイデスリートの引いているイアソンは優勝しただけはある巨躯で、筋肉の盛り上がりは脈打つようだ。対峙しているエンゲルベルクの巨牛は輪を掛けて大きく、丸々と波打つように太っている風体だ。

 アフラは牛を指差して言った。

「あっちはアニエスさんとこの牛ね。相手も強そうね」

「勝てるかしら?」

「きっと勝つわ。私、始めからあの子が一番強そうだと思っていたのよ」

 ユッテが手を叩いて言った。

「私達はイサベラの牛の応援に決まりね」

 両者の牛が角を組み、頭を合わせた。ゴツっとその音は今までになく重い。既に押し合いが始まり、牛達の意気も盛んだ。

「ファイト!」

 合図と同時に縄が放たれ、鞭が鳴った。

 エンゲルベルクの牛が少し前へ出た。既に力は拮抗しないようだ。

「エンゲルベルクの牛が強い!」

 エルハルトはそう唸った。アルノルトが気の無い返事をした。

「んーそうだね。反則並だもの」

 イサベラが小さな声で『反則じゃないわ』と言ったので、それを聞いたアフラはほくそ笑んだ。

 オイデスリートのイアソンは次第次第に押し込まれ、加速度が付くように後へと下がった。

 しかし、そこからのイアソンは流石だった。下がりながらも返し技とばかりに首を捻り、巨牛の力を横へ反らし、身を翻した。巨牛の勢いは止まらず、後の柵へそのまま激突した。柵になっていた丸太が崩れ落ちた。

「おお!」

 周囲の観客は跳び退き、大きな響めきが上がった。

 体を戻した巨牛は、出血して辛そうな声を上げた。あれだけの力でぶつかれば無理もない。

「怪我してる!」

 アフラが言うと、イサベラが立ち上がって牛飼いに言った。

「診てあげて!」

 イサベラの声でエンゲルベルクの牛飼いは畏まり、その怪我を素早く見に行った。

 牛の流血がなかなか収まらず、足も痛めているようだった。しばらく試合は止められ、審判らが集まって来て話し合っている。

「どうなるの? これはどうなるの?」

 アフラが服を引っ張るので、エルハルトは、推測して言う。

「試合はここまでにして審議になるんじゃないかな。審議は途中経過を見てどちらが優勢かを決めるんだ。多分押していたエンゲルベルク側の勝ちだろう」

「アニエスさんの牛が勝ちですって! エルハルト兄さんの多分は、大抵はその通りになるのよ!」

「そうなのね。ゼンメルの怪我も心配ね」

 巨牛はもう座り込んで動かないでいた。牛飼いは懸命に手当をしている。

 審判が頷き合い、一人中央に歩み出て言った。

「試合はここまでの審議となります! 審議の結果、勝者は……エンゲルベルク牧場!」

 審判の声に歓声が沸いた。

「やっぱり!」

「勝ったわ!」

「わぁー!」

 アフラとイサベラ、そしてユッテも大いに喜び、三人肩を抱き合い、鬨の声を上げた。

 それも束の間、イサベラはゼンメルが心配になった。

 牛のゼンメルは悲痛な声で啼き、もはや立ち上がろうとしない。次の試合の場所を空けるために、審判達が立たせようとするが、あまりの巨体のためびくともしない。

 イサベラは柵を乗り越え、横たわる牛を見に行った。アフラとユッテもそれを追った。

「ゼンメル?」

 駆け寄ったイサベラは牛の首を撫で、牛飼いに話しかけた。

「ゼンメルは、大丈夫でしょうか?」

「シスター。足の骨を折ったようです。一度立った後はこうしてもう立ち上がれないみたいで」

「そんな!」

「ここから山を越えて帰るのは無理です。この図体ですし……少し酷な話しですが、ここの慣例ではこんな時、解体して肉を振る舞ってしまうんだそうで」

「解体って!」

「私も勿論そうはしたくありません。でも、この人達が言うんです」

 まわりに集まっていたのは審判をしていた人々だったが、主には食肉ギルドの人々だった。

「解体するなら任せてくれ、ここにいる奴らならいつもやってて慣れてる。あっと言う間にやってしまうさ」

 長い髭の男が言った。

「毎年一頭は解体して皆に振る舞うのさ。怪我で帰れないような牛をな」

 イサベラは信じられない思いになった。

「ゼンメルを解体なんて……しないですよね?」

 牛飼いはしかし首を振った。

「こうなると誰もこの牛を動かせない。私は教会の牛を連れて来ただけだ。今日は貴女が教会の代表と聞きました。貴女が決める事です」

「私?……」

 長い髭の審判は顔を近づけて来て言った。

「お嬢さん、気持ちは判る。でも誰にとっても牛の肉はごちそうだ。ギルドで肉を買い取るから金にもなる。だからただハイと頷くだけでいい。後は我々の慣例に任せてくれ」

 イサベラは顔色を青くして、考えを巡らせてからゼンメルの体に抱き縋った。

「絶対ダメ! 答えはいいえです!」

「無理だ。この牛は立てばさらに骨がダメになる。もう帰れないだろう。それに早く動かさなきゃならん。ここを少し移動するだけでも人工で労賃がかかるというものだ」

「怪我はしばらくしたら治るものですよね? ここで治せばいいじゃない!」

「ここに? ここは緩衝地で誰かの牧場でもない。放っておけば、誰かが見つけて同じ事をするさ。一財産だからな」

「なら、ここに牛小屋を作ればいいんです!」

「それは無理だ。ここは誰の土地でもないって言ったろう。建物は建てられない。動けない牛はそうなる運命なのさ」

「おお神よ! 誰かこの牛を助けて!」

 そこへ一人の少年が現れて言った。

「無理じゃないよ」

 イサベラが振り返るとそこにいたのは、ラウフェンブルクの御曹司、ハルトマンだ。

 ハルトマン達のラウフェンブルク家とイサベラはかなり遠い親戚でもあり、関係が深かった。

「ここからほんの少し行けば、僕の家の領地だ。許可は出ると思うよ」

 つぶらな瞳で頷いて、ハルトマンは後を振り返って言った。

「領地内なら小屋を建てさせてあげてもいいよね? 父上?」

 後からは、ラウフェンブルク夫妻が微笑ましくやって来た。エーバーハルトが言った。

「ああ、あの尾根の向こう側なら我が領地だ。小屋を建てるくらい……如何かなアンナ女伯?」

 恭しく聞かれたアンナ夫人は上機嫌だ。女伯であるアンナの領地でもあるのだ。

「牛を守る姿勢は素晴らしいわ。私としてはよろしくてよ」

「まあ! ありがと…ぅ…」

 と、言ったイサベラの口をユッテが塞いだ。そして首を横に振っている。

 イサベラは今日の約束を思い出し、元居た方向を振り返った。

 エルハルトとアルノルトはこちらに向かって歩いて来ていた。

 イサベラは口に手を添えて大きく言った。

「エルハルトさん。話しをしてはいけませんか? 大事な話なんです」

「話し合いを求めるのはこちらの方です。お嬢さん。ここは協力し合おう」

「ではいいのね!」

「ああ。もちろん。皆んなで話し合うんだ。何の問題が?」

「ありがとう」

 イサベラはラウフェンブルク一家の前へ行き、口上を述べた。

「ラウフェンブルク伯様、アンナ様、それにハルトマン、ご厚意をありがとうございます。小屋を建てる場所、ありがたく拝借させて戴きます」

 イサベラが腰を低く礼を取って言うと、女伯アンナは優雅に微笑んだ。

「ええ。どうぞお使いになって。家族皆んな賛成のようですから」

 エルハルトが近付いて来て言った。

「牛を動かす人手なら、ウーリで出来るだけの事は手伝わせていただこう。これだけの牛を死なせるのは勿体ないよ」

「ありがとう!」

 イサベラが髭の審判に進み出て言った。

「先ずはここから運び出せればいいんですね? 審判長さん」

「まあそうだが……」

 エルハルトが唸って言った。

「うーん。この牛を運ぶのは大変だな。これは荷馬車を使おう。乗せるにはかなり人数がいる……。父さん!」

 呼ばれたブルクハルトは遠くから手を上げて返事をした。

「持ち上げる人を集めて欲しいんだ! アルノルト、荷馬車を頼む。アフラはロープだ」

 エルハルトは次々と家族に指示を飛ばした。

「運ぶ場所を決めよう。シスター」

「あの尾根の向こうに……」

「あっちはいろいろとまずいな……」

 尾根を超えた場所という事では山を登らなければならない。巨牛を引き上げて行くのは無理だろう。しかも、そこにはさっき追い立てた護衛達がいるかもしれない。エルハルトはそこから見える道を指差して言った。

「下道を回って行く方が無難だ。移動も山中は無理だから、下道沿いの方で良い場所を見つける事になるだろう」

「ならそうします。あの辺りの場所でも宜しいでしょうか、ラウフェンブルク伯様」

 アンナは至って笑顔で快諾した。

「領内ならどこなりとも。一時的な使用権を認めます。期限は牛の怪我が治るまで。宜しいですこと?」

「はい! エンゲルベルクを代表して感謝致します。このご恩、決して忘れません」

 イサベラはラウフェンブルク夫妻と握手を交わした。そして最後に、ハルトマンとも握手をして笑い合った。

 


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