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アルプの高地で


 エルハルトとアルノルトは羊を連れて今日はいつもより高地へと登っていた。

 今日の場所は夏の山小屋があるエンゲルベルク方面の山で、夏にはその山小屋に籠もるので、簡単な仕度をするつもりでもあった。

 山をかなり登ったあたりで広い平原が現れ、その手前には鏡のように水を湛えた池があった。

 春先は雪の残っていたこの場所も、すっかり雪が解けて羊の食べられる草がたっぷりと芽を吹いていた。

 そこに羊達を放し、エルハルトはアルノルトに羊の番を任せると、夏の山小屋へと向かった。

 山小屋には雨戸がしっかり閉められているので、エルハルトがドアを開けても中は殆ど真っ暗だった。

 しかし、中で何か物音がする。暗い小屋の中に何かがいた。


「誰だ! 出て来い!」


 エルハルトが慌てて手近な窓を開けると、歩いて来る小さな子供の姿があった。明るい所まで来ると、それはジェミだった。


「ジェミじゃないか!」


 ジェミは心から安心したように言った。


「良かったあ。知ってる人だあー」


「こんな所で何をしているんだ?」


「ここはエルハルトさんの山小屋?」


「共同だがそうだな、ウチで使う小屋だ」


「見て」


 ジェミが差す方を見ると、犬が蹲っていた。

 お腹がとても大きく、今にも子供が産まれそうなのが判った。


「子供が産まれるのか?」


「そうさ。急に生まれそうになってね。今日、ここを使わせてもらってもいい?」


「いいとも。まだ長く掛かるかも知れないしな」


「ありがとう。ここに来たのがエルハルトさんで良かった」


「すぐそこにアルノルトも来てるぞ」


「本当? 会いたいな」


「呼んで来てやろう」


 エルハルトは山小屋の準備を早々に切り上げ、山道を駆け降りてアルノルトを呼びに行った。


「アルノルト—!」


 エルハルトは遠くからアルノルトに声を掛けた。


「なーにー!」


「交代だ!」


 エルハルトは駆けて行き、アルノルトの近くまで来た。


「山小屋にジェミがいた。羊の番を交代して、お前が小屋を点検してくれ」


「えっ! 本当?」


 アルノルトは山小屋へと駆け込んだ。


「ジェミー?」


「やあ、アルノルト」


 小屋の中にはジェミが犬と一緒に佇んでいた。


「どうしたんだい、こんな所まで!」


「ここは山菜や薬草がいっぱい採れるからね。良く来るんだ」


「犬だ……」


「うん、マッシュだ。もうすぐ子供が産まれそうなんだ。さっきエルハルトさんにここで産ませてもらえるよう頼んだよ」


「今日はヴィルヘルムさんはいないの?」


「いないよ? 僕一人さ」


「えっ。ジェミが取り上げるの? 大丈夫かなあ」


「産むのはマッシュさ。僕はこうして背中を擦って見てるだけだよ」


「まあ、犬だから大丈夫かな? でも、かなり時間がかかるんじゃないかな。産んだ後、子犬もマッシュもきっとまだそんなに歩けないし」


「じゃあ産んだ後もしばらくここにいようかな」


「ここにいるのはいいけど、両親が心配するね」


「うん。そうなんだ……」


「まだ産まれるまでかかりそうだ。一旦ヴィルヘルムさんを呼びに帰ればいい。きっとお産にも助かるし」


「うん……」


「見てるだけでいいなら、僕が時々見てるさ。小屋の屋根を点検しながらね」


「いいのかい? じゃあそうしようかな」


「ああ、それがいい。ジェミの足ならそうはかからないだろうさ」


 ジェミは頷き、犬のマッシュを撫でながら言った。


「じゃあ僕、すぐ行って戻って来るよ。アルノルト、マッシュを宜しくね」


 ジェミはそう言って山を早足で下って行った。

 アルノルトはそれから山小屋の点検をした。点検と言うのは、冬を越した小屋は厚い雪に覆われて、屋根や壁が曲がって壊れている事が多いため、雪の溶けた頃にその場所を点検し、修理をするのだ。アルノルトは屋根に登り、点検して歩き回った。傾斜で足場が悪いのと、板が脆くなっている事もあるので、少し危険な作業だ。そして案の定、屋根が一カ所大きく壊れていた。他にも窓が折れて壊れている箇所もあった。今日は木材が無いので修理は後日になる。アルノルトは修理が必要な箇所を木を削って簡単に書き留めた。



 エルハルトは羊を少し高地へ移していた。今日は頗る天気も良く、途中で崩れる気配も無い。

 エルハルトはせっかくここまで来たならと、峠に立っているケルンまで行ってみる事にした。その向こうにはエンゲルベルク領の景色が見えるはずだ。

 羊を見える場所に纏め、エルハルトは一人急な坂を登って行き、峠の上に立った。

 峠の向こうに開けた景色は壮観だ。壁のように聳える山々挟まれ、遥か眼下の谷には美しい緑の平原が広がっている。

 そこから峠下にまで急峻なアルプが続き、すぐ下には丸くお盆をくり抜いたような平地が広がっていて、大小の池がある。その平地にも、また、遥か下の平原にも、石積みに丸木を立てて旗にしたモニュメントが幾つかあり、最後尾のその向こうからがエンゲルベルクの領内という事になっている。が、エンゲルベルク側は違う主張をしているそうだ。

 その石積みを越え、山道をゆっくりと登ってくる三人の修道服の人影があった。

 エンゲルベルクは修道院の自治領なので、それは珍しくない。しかし、そのうちの二人は修道女のようだ。

 エルハルトの目はいい。よく目を凝らすと、その生成りの色の修道服とシルエットには見覚えがあった。

 それは高貴なる聖女、クヌフウタだった。


「クヌフウタさん!」


 その声は谷に木霊し、遥か下にいたクヌフウタにも聞こえた。

 そしてエルハルトに気が付いて手を振った。エルハルトも手を振り返した。


「何してるんですか!」


「薬草を採ってるんです」


 クヌフウタのその声は小さく、エルハルトには僅かにしか聞こえなかったので、耳に手を当てた。


「薬草よ!」


 エルハルトはああ判ったと言うように、手を上げて頷いた。領を越えてると言おうとしたが、それは見逃すことにした。

 エルハルトは高台の岩に座り、一方で羊を見つつ、もう一方ではクヌフウタの登ってくる様子を見ていた。

 それからクヌフウタ達はかなりの時間を掛けて斜面を登り、峠のすぐ下の平地の池あたりまで登って来て薬草を採り始めた。

 エルハルトはそれを見届けてから大きな声で言った。


「こんな高くまで来て大変ですね!」


「エルハルトさん?」


 クヌフウタはそれがエルハルトだと気が付いて驚いて言った。ここなら十分に顔も分かり、声が届いた。


「はい! 薬草取れますか?」


「ええ! もうこんなに!」


 クヌフウタは既に採った薬草を手に持って振った。しかし、それは遠くてよく見えない。

 エルハルトはその薬草をよく見せてもらって、こちら側でも生えてるか探したくなったが、羊の番も疎かには出来ない。

 そしてふと、羊を振り返った。すると、下の方からアルノルトが山を登って来ていた。


「兄貴ーっ!」


「おお!」


「何故そんな高く? 僕のお昼!」


「ああ、悪い悪い!」


 昼食はエルハルトの袈裟に掛けた袋に入っていた。

 エルハルトが数歩歩いて峠から下りようとすると、アルノルトが指を差している。そっち行くという手振りだ。

 エルハルトは「登って来る気か」と呟いてアルノルトを待った。

 そこから峠までは結構な急斜面だが、アルノルトの足取りは軽い。カモシカが飛び跳ねるように駆け上がって来た。


「ふう到着! いい眺めだ!」


「カモシカみたいに登って来たな」


「あれ? 人がいる」


「あれは、クヌフウタさんだ」


「あ、本当! クヌフウタさーん!」


 アルノルトが手を振ると、クヌフウタは顔を上げて手を振り返した。そしてこちらへ歩いて来る。

 エルハルトが言った。


「薬草を採ってるそうだ。じゃまするんじゃない」


「そうなんだ。兄貴、ご飯頂戴」


 エルハルトは布袋から田舎パンを切り割ったホットドッグ風のサンドイッチを取り出して、アルノルトに渡した。

 するとすぐにアルノルトはそれに齧り付き、笑顔になった。


「登って来た後だから美味い!」


 釣られて笑いながら、エルハルトもサンドイッチを大きく頬張った。

 そうしていると、クヌフウタが峠の上まで歩いて来た。


「こんにちは。こんなに見晴らしがいい所でランチだなんて、いいですね」


「こんにちは!」


 アルノルトはそう言って最後のパンを食べ、手を払った。

 続いて、まだ食べている途中なのを急いで呑み込んだエルハルトが挨拶をして言った。


「こんにちは。どうしてこんなに高い所まで?」


「高い所だけに生える稀少な薬草があるのです」


 そう言ってクヌフウタは一輪の白い花を見せた。


「その花なら、あそこの花かな?」


 エルハルトはケルンの下に幾つも咲いていた白い花を差した。

 クヌフウタは星が宿るかのように目を輝かせた。


「まあ! こっちにはこんなに沢山!」


 クヌフウタがケルンに駆け寄って、白い花を一つ、根っこごと抜き取った。

 ケルンの周囲には同じ花が咲き乱れている。


「稀少な花なのにこんなに! これは腹痛草。腹痛によく効んですよ。花の色は高貴なる白、エーデルヴァイスとも称えられます」


 目を輝かせてクヌフウタはそう言って、愛しげに花片を撫でた。

 エルハルトは近くまで来て花を見て言った。


「綺麗な花ですね」


 エルハルトは近くの岩陰にもその花を見付け、手早く摘み始めた。


「あっ! ダメ! そんなに採ってしまっては!」


 クヌフウタはエルハルトを止めた。


「次に花が咲かなくなっては困ってしまいます。間からほんの少しづついただくんです」


「そうですね。じゃあこれ、どうぞ」


 頭を掻きながら、エルハルトは数本のエーデルヴァイスの花をクヌフウタに渡した。


「ありがとう」


 クヌフウタは笑顔で花を受け取って、腰に巻いた布袋に幾つも入っている瓶を一つ取り出し、その中にその花を短く切って入れた。

 その作業をしている横へ歩いて来たアルノルトは言った。


「ところでクヌフウタさんは、犬のお産には詳しいですか?」


「お産ですか? 少しは嗜みましたが、犬? ですか?」


「はい、犬です。向こうにもう産まれそうな犬がいるんです」


「犬はあまり判らないかもしれませんが、それは見て見たいですね」


 エルハルトが言った。


「近くの山小屋にいるんです。峠を少し越えますが、見に来ますか?」


「そうですねー」


 クヌフウタはすぐそこまで登って来ていた連れの修道女と修道士を振り返った。


「少し向こうまで行って来ていいですかー?」


 クヌフウタは少し大きめの声でそう言った。


「待って!」


 連れの修道士達は早足で峠まで登って来た。そして肩で息をしながら言った。


「何処まで行くと言うんです?」


「犬のお産があるそうで。どの辺りまでです?」


 クヌフウタに聞かれたアルノルトは言った。


「この草原を通り過ぎて、あの岩山の陰くらいの場所だよ」


 それは距離は少なくても峠からかなり下る事になる。

 修道士がその険しい高低差を見て言った。


「少し、無理では?」


「でも、犬のお産を見る機会なんて、そうはありませんから……」


「行きましょう! これはまたとない勉強ですから!」


 修道女の方が乗り気でそう言い、勢いで押し切ってしまった。

 エルハルトの先導で一行は峠を下った。


「こっちにも薬草が沢山!」


 クヌフウタは道の途中で薬草の花を見付けては目を輝かせて、時々それを採って歩いた。

 その道の途中の草原では、エルハルトが指笛で牧羊犬のベルに合図した。茂みにいてそれを聞いたベルはあちこちを走り回り、羊を集めて行く。

 修道女達はそれを興味深げに見ていた。


「あの犬じゃないよ? あれは牧羊犬で、賢いんだ。よく走るし」


 アルノルトはクヌフウタにそう告げると、「なんて賢い!」と驚いていた。

 羊達は周囲に集まって来て、そこからは羊に囲まれながら山小屋まで下りて来た。

 山小屋に入ると、暖炉前の敷き藁の上で茶色の大きな犬が悲しそうな声を上げていた。


「マッシュ、置いて行ってゴメンな。この犬だよ。マッシュっていうんだ」


 アルノルトがマッシュの横腹を擦ってやると、横に転んで大きなお腹を見せた。


「まあ、かわいい! それに大きなお腹!」


「かわいいわあ」


「そうかなあ」


 可愛いと言うにはマッシュは大きな犬だった。今で言うセントバーナード犬の体毛の茶色の原種なので、顔つきもメスとは思えない程不貞不貞しいおじさん顔だった。


「このお腹だと、すぐにでも産まれそうですね」


「判るの?」


「いいえ、何となく……」


 修道女はマッシュを撫で始め、クヌフウタも撫でようと近付くと、マッシュは警戒してそこを立とうとした。


「あまり近くに人が詰め寄るのも、良く無いようですね」


 クヌフウタはそう言って撫でるのを諦め、修道女もそれに習って一歩引いた。

 羊を纏め上げてから山小屋へ入ってきたエルハルトは、自分の半分残したサンドイッチを出してマッシュに食べさせた。マッシュはゆっくりとそれを食べ、エルハルトはしっぽを振るマッシュの首を優しく撫でている。


「一遍に懐いたね」


 アルノルトは食事を全部食べてしまっていたので、感心するばかりだ。


「今は子供の分の栄養も必要だからな。小屋の傷みはどうだ?」


「点検は済んだよ。この辺りの屋根と、そこの窓が壊れてた。雨漏り必至だね」


「オイゲーンさんに後で言っておこう」


 そしてエルハルトはクヌフウタ達を振り返った。


「ここは山小屋で、お迎え出来るものは何もありませんが、どうぞそこの椅子にでも座って、休憩がてらゆっくりして行って下さい。まだいつ産まれるか判りませんから」


 椅子と言っても丸太を切っただけのような椅子とテーブルがそこにあった。


「ありがとう。しばらくお邪魔します」


 修道女達はそう言ってその椅子に座った。

 アルノルトは外を指差して言った。


「水くらいならあるよ。川から引いた水だけど」


 アルノルトとエルハルトは小屋の裏手へ行き、水場の水桶に木管から注ぎ続ける水を、代わる代わるで直接飲んだ。アルノルトは登山で汗をかいた後だったので、思わず声が零れた。


「おいしいっ!」


 そして次にコップ洗いつつ水を汲み始めたが、小屋に置いてあるコップは二つしかなかった。

 そこへ、クヌフウタが出て来て、水の注がれたそのコップを取り、水を一口飲んだ。


「ん! なんておいしい……」


 クヌフウタは頬を押さえて目を瞬かせた。アルノルトは山の頂上を指差して言った。


「ここの水は山の天辺からの雪解け水だよ」


「天然のご馳走ですね」


 コップが二つしかないと聞いて、クヌフウタは自分の分の水をそこで山を眺めながら全部飲んでしまい、そのコップにもう一杯水を汲んで運んだ。もう一つのコップはアルノルトが運ぶ。小屋の中では疲れてぐったりした様子の修道士と修道女が座っていて、二人の前に水を置いた。その水を飲むと、二人はとたんに元気を取り戻した。


「生き返ったようだ!」


「おいしい水をありがとう!」


 それを見てクヌフウタは笑った。


「ここでは一杯の水で大いに人は元気になるようですね」


 エルハルトは皿に水を入れて、マッシュの所へ持って来た。牧羊犬のベルも餌だと思ったのかそれについて入って来た。マッシュを見て驚いて小さく鳴いたが、対面して尻尾を振り合っている。


「水も飲みたいだろう?」


 エルハルトが水を置くが、マッシュはあまり元気が無く、飲もうとしなかった。


「どうした? 飲まないのか?」


 するとベルの方が皿から水を飲み出す。

 早々に諦めたエルハルトは火打ち石を鉄片で打ち、暖炉に火を点けだした。

 暖炉と言っても料理も出来るように煙突あたりから吊るしが付いていて、囲炉裏にも近いようなものだ。

 そこに置いてある大きな薪に火を点けるには、藁で種火を取るところから始めるので少し時間がかかる。

 アルノルトはそれを見て、外へ出て言った。


「しばらく僕が外で羊を見てるよ。兄さんは中を見ててあげて」


「ああ」


 アルノルトは外へ羊を見に行った。と言っても小屋の前で座って見ているだけでいい。

 羊達が草を食んでいる眼下の盆地は乗り上げた大きな船のような形で、そこはあまり逃げ場も無いので、放牧にはもって来いの場所だった。

 草の多い夏の間はここに牛達も連れて来て、山小屋に泊まり込む事になる。

 山の斜面の下に広がる草原を見ていると、その遥か向こうから小さな人影がやって来るのが見えた。

 小さな子供と大男が手を振っている。


「ジェミと、あれはヴィルヘルムさんだ」


 アルノルトは手を振って坂を駆け下りて行った。


 暖炉に細い火が灯り、少し暖かくなると、マッシュはゆっくりと体を起こし、水を舐めて飲み始めた。


「飲んでる飲んでる。あなたも元気になってね」


 クヌフウタはそう言ってマッシュの様子をすぐ近くで見ていた。そして静かに手を伸ばしてマッシュを撫でた。

 マッシュは気持ち良さそうに撫でられるままになっている。そしてクヌフウタは大きく張ったお腹あたりを両手で擦ってあげた。それはやはり医者の手付きだ。


「元気な子を産んでね」


 エルハルトはそんなクヌフウタに聞いてみた。


「クヌフウタさんはローマの方に行く予定では無かったんですか?」


「ええ。エンゲルベルクは薬草が多く採れるでしょう? 薬草園を作り始めるとつい手が離せなくなってしまって……。今日もその一環でここに来たのです」


「薬草園ですか。それはいい仕事ですね。ウーリにもあるといいですね」


「ここにいる方は薬草園のチームです。少し前までイサベラさんもいて、手伝ってくれたんですよ。この後は無一文の旅ですから、薬草なら持って行って、何かと交換も出来るでしょう? 診療をする事も出来ますし」


「それは上手く考えましたね」


「薬草が沢山集まって来ると、何処でも生きて行ける自信が湧いてきました。ここへ来たお陰です。これもきっと神のお導きですね。感謝を」


 クヌフウタはそう言って小さく十字を切った。エルハルトはそれを少し羨ましく、そして眩しく思った。


「クヌフウタさんは、以前一緒だったイサベラさん? アニエスさんがどうしてるか聞いてませんか?」


「イサベラさんですか? 王家で保護したと言う通達が修道院にあったのですが、その後の連絡はありません。本人からの手紙もありませんので、手紙などの連絡は禁じられているようですね」


「そうですか……僕らの目の前で連れて行かれたので、皆で心配してるんです」


「そうでしたか……彼女はお后候補ですから、きっと丁重に扱われていますよ」


「お后? それって王の?」


「王子のです。イサベラさんはそれを自分で降りてしまって、ついには本国の事情で逃げ出してしまったのですけどね」


「そんな話、聞いてませんでした……」


「それは内密な事ですもの」


「内密なのに聞いてしまいましたよ?」


「秘密にしておいて下さいね。王家の秘密を漏らすと罪になりますから」


 クヌフウタは笑顔だが、しっかりと釘を刺して来る。エルハルトは声を最小に落として言った。


「どうしてクヌフウタさんがそんな秘密を?」


「そうですね。どうしてでしょう。弟と妹が候補だったからかしら? それとも私が昔候補だったから?」


「クヌフウタさんも?」


「相手は跡継ぎになる予定の王子でした。決まってからは勉強も大変でしたし、両家の仲は最悪で、戦争する程でしたし、実は他に小さい頃からの婚約者がいましたし、苦悩する日々でしたけどね」


「それは大変でしたね……でした?」


「……亡くなってしまったんです」


「そう言ってましたね……」


「でも、実は私、修道院に入って……それを建前に婚約を断ってたんです。叔母も昔、前の王からの求婚を修道院に入って断ったのだとか。不思議な巡り合わせです。私は小さい頃から叔母の修道院に行ってましたから、その方が馴染んでいたんです」


「じゃあ、そっちの方が良かったんですね」


「ええ。少し苦労はありましたが、神に仕える者としては周囲に恵まれてます」


「それなら良かった。でも、クヌフウタさんって凄い人ですね」


「家族や叔母が凄いだけで、私は、何も大した事はしてませんから。今は神に仕える事以外、何も出来ませんもの」


「いえ、そんなことがあっても平然と修道女をしてるのが凄いんです。しかもフランチェスコ派で」


「そうかしら?」


「お医者さんも出来ますしね」


「それは少しだけ自慢したいですね」


「修道女が自慢ってあまり見ないですが……」


「少しだけですよ?」


 クヌフウタはそう言って笑った。


 そうしていると、目深にフードを被り、クロスボウを担いだ大男を連れて、アルノルトが小屋へ入って来た。それを見て修道士がギョッとして驚いた。

 蓬髪の大男はフードを降ろした。それはヴィルヘルムだった。


「ヴィルヘルムさん!」


 エルハルトは立ち上がって笑顔になった。


「やあ。元気そうじゃないか」


 そう言ってヴィルヘルムはエルハルトと硬い握手をした。


「しばらくぶりです」


「うちの犬が世話になるな」


「マッシュ。具合はどうだい?」


 ジェミがマッシュの所へ来ると、とたんにマッシュは喜んでしっぽを振り、鼻を鳴らした。

 それでクヌフウタにも、飼い主が誰か判った。


「だいぶ痛そうにしてるので、陣痛だと思います。もうすぐ産まれるんじゃないかしら」


 クヌフウタの言葉にジェミはキョトンとしている。

 アルノルトが補って言った。


「陣痛って言うのは産まれる前の痛みなのさ。この人はお医者さんでもある。人間のだけど」


「へぇー。アルノルト、お医者さんを呼んでくれたの?」


「偶然峠で会ったのさ。みんなエンゲルベルクの修道院の人達だ」


「はじめまして。僕はこの犬の飼い主のジェミです」


 ジェミはしっかりと挨拶をした。


「私はこの辺りでは少し珍しい名前です。言えるかな? クヌフウタです」


「クンフータ?」


「惜しい。でもそれでもいい感じ。クヌフウタです」


「もうすぐ産まれるの?」


「もうすぐです。私も見ていていいかしら」


「うん。勿論だよ」


 そう言っていると、マッシュは排泄するようなポーズになった。


「あれ? マッシュ! ここではダメ!」


 ジェミはマッシュを揺すった。

 しかし、マッシュはひどく苦しそうな声を上げた。近くで見ていたクヌフウタは言った。


「あっ! 頭が少し出て来ました」


 下腹から羊膜にくるまれた子犬の頭が少し見えていた、マッシュはそれを何度も何度も舐めた。


「おお!」


「まだ膜に入ってる」


 エルハルトとアルノルト、そしてヴィルヘルムもやって来て、食い入るようにそれを見た。修道士達も横に来たので壁のように人に囲まれた。

 マッシュの苦しげに鳴く声と共に、少しずつ少しずつその体は出て来て、最後にはスルリと敷き藁の上に落ちた。

 クヌフウタが慌ててまだ膜のある子犬を取り上げようとするが、ヴィルヘルムはそれを止めた。


「犬に任せるんだ。人の匂いを付けない方がいい」


 マッシュは子犬を何度も舐めてその羊膜を食べ取ってしまい、臍の緒も噛み切って食べてしまった。すると子犬は産声を上げて鳴き始めた。そして目も開かないのに母犬の方へとヨタヨタと歩いて行く。


「鳴いた! 無事産まれたぞ!」


「お父さん、やった! マッシュ、やった!」


 ジェミ達親子は大喜びでハイタッチをした。他の一同も感慨深くそれを見ていた。


「神秘的ですわ……全て、犬が自分でやってしまうなんて……」


 クヌフウタは少し涙ぐんでいた。

 ヴィルヘルムが言った。


「まだ二匹目、三匹目が産まれてくるはずだ。まだまだ時間がかかるぞ」 


「次はどれくらい後?」


「すぐの時もあるし、一時間以上かかる時もある。四匹か五匹もいれば、夜遅くまでかかるだろうな」


 外はもう日が傾いて来ていた。エルハルトは言った。


「ここは使ってもらって構わないんですが、オレ達は用があって、羊もいるから、そろそろ帰らないといけないんです。ヴィルヘルムさん達は夜もずっとここに?」


「ああ。うちの犬の事だ。最後まで見守らないとな」


「何もありませんが、緊急非難用に藁と毛布はあそこにあるので使って下さい」


「ああ。十分だ」


 そう言ってヴィルヘルムはその藁を貰って、早速子犬の寝床を作り始めた。


「日があるうちに帰るなら、今のうちですよ」


 エルハルトがクヌフウタと修道士達にそう言った。

 修道士は「もう帰ろう」と言うので、修道女が言った。


「どうします? クヌフウタさん」


「私はここで夜を過ごします。お二人はもうお帰り下さい」


「夜を過ごすって、こんな所でですか?」


「医者の端くれとして、最後まで立ち合います。暖炉もありますし、修道院より暖かいんじゃないかしら?」


「では、男の人も居るようですし、私も残ります。女性一人でここに残せないではないですか」


 修道女はそう言ったので、修道士だけが帰る事になった。

 そう決まると登り道の多い修道士は、一人慌てて出発して行った。


「じゃあ、僕たちも帰ります。兄貴、明日もここへ来よう」


 アルノルトがそう言うと、エルハルトも言った。


「そう言おうと思ってた所だ。じゃあ、明日も来ます。頑張って下さい」


「じゃあ、ジェミも頑張ってね」


「うん! 見てるだけだけどね」


「クヌフウタさんも」


「ええ」


 エルハルトとアルノルトは手を振って山小屋をあとにした。

 そして羊を連れ、山道を下って家に帰って行った。



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