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シャトドルフの庭園


 シャトドルフは隣村だが、そこからはラッペルスヴィルの領の扱いだった。農園を横断する石積みの塀の境を越え、程無くして一行の馬車は隣村のシャトドルフに到着した。ラッペルスヴィル別邸のアーチの前でクヌフウタは馬車を降りた。


「では、私はここで。アニエスさん。道中危険なようでしたらここへ戻っていらっしゃい。主のお導きのあらんことを」


「はい。クヌフウタさん」


「アルノルトさん。ご親切にお送り戴き、感謝致します」


 アルノルトは言った。


「また村に来て下さいね。異国のお話を聞かせて下さい」


「私もこの村では大変勉強させて戴きました。お父様にはご寄付もいただきましたし、お母様には励ましていただきました。お兄様にも。また寄らせていただきたいと思います。アニエスのナイト役をよろしくお願いしますね」


「はい。お任せ下さい」


 アルノルトは胸を一叩きしてから馬車を発した。

 シャトドルフからアルトドルフまではほぼ真っ直ぐの下り道、馬車ではあっという間に到着する。アルトドルフ広場には市が開かれ、とても活気が溢れている。その先にある辻馬車の発着所まで着くと、そこには大きな荷物を担いだ厳つい男達が行列を成していた。


「もうこの辺りで降ろして頂いても大丈夫です。辻馬車を見つけます」


「辻馬車には行列が出来ているよ。それにこの辺は君には少し危険なようだ。暗くなる前にもう少し先のウンテルヴァルデンまで行くよ」


「まあ! あなたには何て言ったらいいのか……」


「クヌフウタさんみたいに、素直にご親切感謝しますって言っておけばいいよ」


「お世話になります……けど、私のプランはもう全部スルーなの?」


「殆どノープランに見えるよ?」


「……一応あったわ! でも、この先はもう判らないわ。あなたにお任せします」


 馬車はアルトドルフの町を通り過ぎ、湖畔に差し掛かった。峡谷を満たす湖水はエメラルド色の澄んだ水を揺らしている。

 しばらく行くと展望が開け、夕日が湖に映え、キラキラとゆったりした波を湛えている。


「まあ! 綺麗だわ。一日の終わりにこんな風景を見ることが出来るなんて、宝物ね」


「あの日が隠れたら道が見えなくなる。ちょっと急ごう。しっかり捕まってて」


 アルノルトは夕日に見とれるイサベラに構わず馬車に鞭を入れて、馬の足を速め、次第に速度が上がっていく。

 山道に入ったため道も悪くなって馬車の揺れがひどくなっていく。急に向かいから馬車がやって来て、アルノルトは大きく道を避けた。路肩の大きな石に躓いたのか、馬車が大きく跳ねた。


「アァ!」


 イサベラは体のバランスを失って、荷馬車から振り落とされそうになった。手を出しても前方には何も掴むところが無く、前の空間へと落ちて行く。


「危ない!」とアルノルトは驚いて手綱を放し、倒れ行くイサベラに手を伸ばした。

 イサベラの目の前にはもの凄い速度で回転する車輪と流れてゆく地面があった。イサベラの体は御者台の下で宙に揺れ、アルノルトの腕に抱き付くようにして支えられていた。手綱を失った馬車はそのまま容赦ないスピードで走り続ける。

 イサベラはアルノルトの両腕にさらにしがみ付き、腕に小さな胸が押し付けられた。アルノルトは一方の手を持てるところを探って、手を動かした。


「ちょっと何処を……」


 イサベラは恥ずかしさに少し身じろぎをしたが、アルノルトは御者台の縁で足を踏ん張り、一緒に落ちないようにするので精一杯だ。


「馬鹿。じっとして。落ちそうなんだ!」


「戻して……」


「今、引っ張ってる」


「止めて……」


「危ないから! もっと登って来て!」


「あの……どこに掴まれば?」


「どこでもいい。僕の手とか、足とか!」


 イサベラは言われた通り、アルノルトの手を必死でよじ登り、次に足に捕まった。そこでアルノルトは一方の手で肘を捕まえ、体を起こし、イサベラは持ち上げられ、体を御者台の下段に横たえた。そしてすぐに馬車の縁を掴み、大きく息を吐いた。


「しっかり掴まってて!」


 アルノルトはイサベラにそう言葉を掛けて、意を決したように立ち上がり、走る馬の背に飛び乗った。そして馬の口元の手綱を引き、「どうどう。どう」と馬を止めた。

 アルノルトが馬を振り返ると、イサベラは御者台に座り直し、恐怖の余韻に震えていた。


「大丈夫だったかい?」


 アルノルトが馬から降りると、イサベラもそれに習って馬車から降り、肩で息をしながらその場に蹲った。


「怪我は無い?」


 頷きながら、イサベラは恥ずかしくてアルノルトを見ることが出来なかった。


「怖かった……馬車ってこんなに危ないものだったなんて」


「貴族用の馬車だと囲われて見えないから判らないんだろうね。毎年馬車で死ぬ人がいるんだ。注意して乗るのは当然の事だよ」


「あなたこそ馬に飛び乗ってしまったわ。怖くないの?」


「僕だって怖いさ。ちょっと命懸けだったもの」


 イサベラはアルノルトの手が震えているのを見て、自分がしたことを知った。アルノルトは命を懸けるような行為をして、この危機を救ってくれたのだ。ちょっとした不注意で命を落とすこともある。それがこの自然の中の暮らしだった。


「私また、悪い事を……」


「いや。僕が急に速く走り過ぎたせいだ。何かあったら顔向け出来なかったところだ。何ともなくて良かった」


 イサベラはさっきはアルノルトの腕に抱き付いていたことを思い出して顔を赤らめ、不意に背を向けて歩を進めた。アルノルトはその姿をご機嫌を損ねたのかと心配げに見ていた。不意にイサベラは控えめな口調で言った。


「私……ここから歩きます」


「無茶を言うんじゃない。お嬢様をこんなところで放り出せるか。ここまで来たらもう半分来たようなものだ。最後まで行くよ」


「じゃあ、ゆっくり行って。お願い。私も送ってもらったアルノルトさんに何かあったら、アフラさんやご家族に顔向けできないわ」


「わかったよ。そうすることにする。どうせもうじき道が暗くなる。それまでに距離を稼ごうと思ったんだけど、仕方ないね。じゃあ早く乗って」


 二人は馬車に乗り、再び夕日の沈みゆく湖の畔をゆっくりと走っていった。イサベラはずっと言葉もなく沈んでゆく夕日を眺めていた。夕日が地平線に消えた後も、空は紫色のグラデーションを視界一面に描いている。淡い月と星が見え始めていた。


「綺麗……」


 イサベラはそう呟いた頃には、もう木陰の下では道が見えない程に暗くなっていた。そうなると、馬車は歩いているくらいの速さしか出せなかった。

 山道の暗い森の入り口でアルノルトは馬車を止めた。そして荷台にあったランプを取り出した。


「ここから先はランプが要る。歩いていたらランプも無かったろう? まあ油が最後まで保つかは判らないんだけど」


 イサベラは森へ続く道の暗さを見て、アルノルトがいてくれて良かったと思った。一人歩み出した小さな旅に、アルノルトがいてくれて良かったと心からそう思った。


「感謝します……主の巡り合わせに」


「巡り合わせか……。お母さんもそんなことを言ってたな。僕の叔父さんが山奥に隠れ住んでいてね。偶然にその家を見つけた事があるんだ。叔父さんは暗闇でも道が見えていたな」


「山の人?」


「ああ。息子のジェミも見えるんだよ。信じられないけど、星の明かりでも見えるんだってさ」


「まあ。素敵なことね」


 そうして少し進むと、ランプの火が急に細くなり出した。


「えっ。もう油が無くなって来たか!」


「そうなの?」


「人事じゃないよ。真っ暗になると、ここからの山道は険し過ぎて無理だ。引き返すしかないか」


 イサベラは思い出して言った。


「じゃあ、やっぱりクヌフウタさんと一緒にラッペルスヴィル邸を頼ろうかしら?」


「それならまた引き返すけど、それで大丈夫かい?」


「ええ。無理はしない方がいいでしょう?」


 アルノルトは広い所へ出ると馬車を巡らせ、今来た道を戻った。日が山の向こうに落ちても、まだしばらくは明るさが残っていて、道は明るかった。


「火が消えた。でも今日は思ったより日が長くて良かった」



 アルトドルフの町中を抜けて、農園への真っ直ぐな道を行くと、ラッペルスヴィル邸は見えて来た。その入り口のアーチの前で馬車を止め、二人は馬車を止めた。その中は貴族の私領である為に人を拒む雰囲気が漂う。


「送ってくれてありがとう。ここでいいわ」


 馬車を降りるイサベラの面持ちはとても不安そうだ。

 アルノルトはランプを持って馬車を降りた。


「僕も行くよ。油を少し分けて貰おうかと。行こう」


 二人はアーチを潜った。花壇を両脇に石組みの平らな道が続いていた。空がまだ薄青い光を帯びているのでまだランプが無くても周囲が見えた。広い庭を歩き、教会風の高い塔のある石造りの大邸宅が見えて来るとイサベラは流石に威圧感で先を躊躇した。


「なんだか怖いわ」


 イサベラが小さな声でそう言って立ち止まったのでアルノルトは振り返り、


「お先にどうぞ」


「あなたが先に行って」


「まずは君の事なんだから、自分で言わなきゃ道は開かないよ」


「ええ……でも心の準備が……」


 そんなやり取りをしていると、庭近くの小屋から白い服の少年がやって来た。


「迷子かな。かわいいお客様だ」


 手には一輪のバラを持ち、クルリと回すその仕草は香りを嗅いでいるようだ。背格好はアルノルトとほぼ変わらないが、白い繊細な刺繍入りのチュニックを着ていて、痩せっぽっちな貴公子のような雰囲気を湛えている。


「私はただ、ノックするには扉が大き過ぎてどうしようかと」


「扉の横のベルを鳴らすといい」


「ありがとう。あなたはここの人?」


「そう……だね。一周してきたけどここは狭い領地だ」


 アルノルトは不審に思って言った。


「見かけない子だね。どこの子だい?」


「僕は誰でもなかったけど、小さな領主になったんだ」


「小さな領主? ここはラッペルスヴィル伯の農場でエリーゼ様の別邸だよ」


「ああ。彼女のものであり、同時に僕のものでもある」


 アルノルトにはその言っている意味がさっぱり分からなかった。しかし、イサベラはいつに無く弾んだ声で言った。


「あなたも? 私も小さな領主よ。亡くなったお父様から相続した小さな古城があるの」


「それは奇遇だね。普通の人かと思ったら凄い人だね」


「今は普通の人でいいの」


 イサベラは扉に辿り着き、横にあるベルを探したが見つからない様子だ。


「ベルはどちらかしら?」


「目の前にぶら下がっているよ。その飾り紐を引くんだ」


「飾り紐? これね」


 イサベラは二本ぶら下がっている飾り紐を両方引いたが動かなかった。青年を振り返ると笑って言った。


「どちらか片方だけでいいんだよ」


 イサベラが短い方の飾り紐を引くと、その上でベルが傾いて一度鳴った。ベルは天秤状になった釣瓶竿の真ん中に付いていて、天秤の両端に飾り紐が付いていたのだ。

 戸口には厳めしい顔をしたルイード・ブリューハントが出た。イサベラは一瞬で逃げ出したくなった。


「どなたかな」


「夜分に突然訪問致しまして、大変失礼を致します。クヌフウタ・ド・プシェミスルのご紹介により参りました。私は……」


 イサベラが恐る恐る大仰に挨拶する隣でアルノルトは飄々と言った。


「やあブリューハントさん。この人泊めてあげてよ」


「ああ、シュッペルさんのとこの。このお若いお嬢さんは知り合いか?」


「ああ。送って来たんだ。シスターのクヌフウタさんが先に来ているはずなんだ」


「ああ、あのシスターのお連れ様ですかな。エリーザベト様にお取り次ぎ致しましょう。お名前を」


「私はイサベラ・アニエス・ド・カペーと申します」


 イサベラはそう名前を告げる。ベルの音を聞いて玄関前の階段を降りていたエリーザベトは、イサベラの名を聞いて戸口に駆け付け、長いスカートを広げつつ腰を低くし、最敬礼した。


「これは! ブルグント公女様。このような所までようこそおいで戴きました。お話は先に来られたクヌフウタ様から伺っております」


「お久しゅう御座います、エリーザベト様。突然押し掛けましたご無礼をお許しください」


 礼を返すイサベラの言葉にもエリーザベトはまだ敬礼を崩さなかった。


「こちらこそこのような場所でご無礼を。貴女様が王城から脱し、ご無事で在られました事は誠に僥倖です。自由伯領の政変はさぞご心痛のことでしょう」


 アルノルトもブリューハントも、エリーザベトの最敬礼に呆気に取られ、互いに顔を見合わせた。イサベラは話が解ると見たのか、安堵したように言った。


「ご存知でしたか。お気遣い痛み入ります。自由伯領の状況を何か聞いていませんか?」


「まだポラントリュイで攻囲戦が続いているそうです。シャロン=アルレー伯が援軍を出したとか」


「シャロン=アルレー伯は義兄です。無事だと良いのですが」


 アルノルトが聞いた。


「ブルグントで戦争があったの?」


 イサベラは小さく頷いてから言った。


「先日、王軍にブルグント自由伯領国境にあるポラントリュイが包囲されて、周囲の都市はハプスブルク家に服属を迫られているの。ブルグント系諸国が連携して大戦となる恐れもあるの。私はそれで王城から逃げて来たのです」


「大変な事になってたんだ」


「もう日も落ちます。今日はどうぞ当家へ御逗留下さい。心ばかりの歓迎をさせて下さい」


 そこへ扉から覗いていた貴公子風の少年が入ってきて言った。


「大事な人ってこの子の事だったんだね」


「あ。あなた。失礼ですよ」


 エリーザベトはその貴公子の背を押し下げつつ、共に身を低くして言った。


「こちらはルーディック・フォン・ホーンベルク。お恥ずかしながらわが夫となる人です」


「まあ! こんなにお若くていらっしゃるのに……」


 これにはアルノルトも驚いた。


「僕と同じ位なのに……」


「ええ。こう見えても我が家の救い主ですのよ」


「よろしく」


 ルーディックが頭を掻いていると、ブリューハントはその後ろで天を仰いで見せた。


「何をしているんです? ブリューハントさん。ご馳走の準備を」


「畏まりました。只今。あと、シュッペルさんのご子息が来ておりますが」


「まあ、あなたはシュッペルさんの?」


「はい。アルノルトと言います」


「歓迎しますわ。ブルクハルトさんも来る予定です。あなたもご一緒に晩餐をいかがかしら」


「父が? 僕はそのお嬢さんを送って来ただけなんです。でもこのランプの油が切れてしまったから、ほんの少し油を分けて貰えませんか?」


「そう。もう騎士役を果たすなんてご立派。でも油断大敵というものです。騎士ならば常に油は切らさないように注意しないとね。ブリューハントさん。この子に油を」


「はい。こちらに」


 ブリューハントは言う前にもう油の瓶を用意していて、にこやかにアルノルトに渡した。厳めしい顔が取れると一気に場が和んだ。


「こんなにいらないよ。これに少しでいいんだ」


 ブリューハントの顔は途端に厳めしく凄んだ。


「少年よ。ここはおじさんの顔を立てて持って行くのが礼儀というものだ」


「そ、そうですね。ブリューハントさんの顔が立つというなら」


 アルノルトは油の瓶を受け取った。


「僕は家族が待っているのでこれで。お嬢様をよろしくお願いします。それに、油をありがとう」


 アルノルトはそう言って足早に去って行った。


「いい青年ですね。あなたと同じ年くらいかしら」


 エリーザベトが言うとルーディックは言った。


「うん。あの子と友達になりたいよ。もちろんこちらのブルグント公女様ともね」


「まあ! 礼儀を知らない人ね! 場合によっては臣下に叙任をいただきたい程の方なのですよ。そうだわ! なかなか無い機会ですから是非そうして下さい。それならば許可します。でも、始めにくれぐれも言っておきますが、浮気は許しませんことよ」


 エリーザベトとルーディックに夫婦喧嘩が起こる寸前だったので、イサベラはアルノルトを見送ることにして扉を出た。


 日暮れ後の空はまだ薄青く白んで、道や足元はまだ仄青く見えていた。

 アルノルトが庭先でランプに油を注いで火を点けていると、イサベラが追いかけてやって来た。


「あれ? 晩餐はいいのかい?」


「今日はありがとう」


「いや。こっちも目当てがあったからさ」


「目当て?」


「アフラじゃあ無いが、お姫様のお城を見てみたかった」


「まさかそれを目的に?」


「いや、目的は君だ」


「私?」


「ちゃんとどういう人なのかをこの目で確かめたかったのさ」


「それで? どう見えて?」


「お姫様にしては向こう見ずだな」


「まあ。失礼しました」


 イサベラは少しむくれたが、アルノルトが大笑いしたのでどうでも良くなった。


「私、アフラさんに春祭りに誘われたわ」


「良かったじゃ無いか。歓迎するよ」


「私、また来ていいの?」


「ああ。いいよ。アニエスさんでならね」


「じゃあまたお世話を掛けると思うわ。アフラさんとも約束したし」


「君ってエリーゼ様より偉いのかい?」


「偉くなんてないわ」


「この辺では一番偉いエリーゼ様にあんな敬礼させておいて?」


「それは多分、昔の由来伝統を重んじているのよ」


「由来伝統?」


「ブルグントは古い伝統で繋がっている……見えない国なの」


「見えない国? 伝統? 僕にはさっぱり判らないや」


 後ろから声がした。


「伝統を軽んじてはいけませんわ」


 そう言ってやって来たのはエリーザベトと、そしてクヌフウタだった。


「お二人はとても仲がよろしいようですね。お邪魔だったかしら?」


「エリーザベト様。そんなことは……」


 イサベラは顔に火が点いたように真っ赤になって掌で顔を覆った。

 クヌフウタはそんなイサベラを見て笑った。


「やっぱり戻って来ましたね、アニエス」


「クヌフウタさん! 途中で暗くなって戻って来てしまいました。修道院で騒ぎにならなければいいのですが」


「ここに来れたのも天の導きです。きっと大丈夫。事情は来る時に話して来ていますから」


「そうだと良いのですが」


 クヌフウタの後にはアッティングハウゼンと、見慣れない初老の貴婦人も続いてやって来た。


「ルーディックの母、アーデルです。宜しくお見知りおきを」


 その貴婦人はゆったりとスカートを広げて挨拶をした。それはイサベラへ向けたものだ。

 その後ろには立派な身なりの紳士もいて、優雅な礼をしている。


「フリードリヒと申します。年は離れていますが、ルーディックの兄です」


 貴人の面々に囲まれ、アルノルトは少し緊張して「こんばんは」と挨拶した。


「アルノルトではないか。お供とは偉いな」


 アッティングハウゼンが相好を崩してそう言うと、


「こんばんは。可愛いお客様だこと」とアーデルも微笑んだ。

 エリーザベトはアルノルトの背に手を当て、歩きながら話しを続けた。


「この国の伝統についてお話しする必要がありそうですね。一緒に少しお庭を歩きましょうか。バラが咲き始めているのよ」


 エリーザベトは二人を庭へ連れ出した。邸宅の向かいにある広いバラ園には他品種のバラが咲いていた。

 アッティングハウゼンとアーデル、そしてフリードリヒもそのバラを眺めては足を止め、談笑している。


「幾つか綺麗に咲いているでしょう。まだ殆どは蕾の頃です。ここのバラはお爺様の代から世代を掛けて品種改良しているものなんですよ」


「綺麗」


 イサベラが歩み寄ったバラの近くにはいつの間にかルーディックがいて、バラを剪定していた。


「バラは咲き過ぎると撓んで痛むんだ。こうして取ってあげないとね」


 ルーディックは剪定したバラを一輪、イサベラに渡した。そして持っていたもう一本をエリーザベトに渡した。


「美しい人にはバラがよく似合う。ね」


 ルーディックはイサベラと、最後はエリーザベトを向いて言ったが、美しい人とはどちらを指しているかは微妙だ。


「ありがとう」とエリーザベトは自分の事として胸に収め、話を始める事にした。


「さて、伝統の話でしたね。この辺りは昔、ツェーリング家の領でした。アルプスの一帯を領としたツェーリング家はドイツよりもブルグントの流れを汲む家で、ブルグント総督の地位を持ちました。キーブルク家や私達ラッペルスヴィル家はその遺臣の家系に当たるので、元々はブルグントの臣下なのです」


 アルノルトは驚きを覚えつつ言った。


「ブルグントって意外に大きいんですね」


「そうよ。昔は中部フランク王国というもっと大きな国があったのです。その王国はカール大帝からの皇帝の位を継承して、一時はイタリアからネーデルランドまで中欧を縦断して世界の中心として栄えたのですよ」


 ルーディックは謡うように言った。


「昔々のお話だよ。カール大帝がフランク王国を建てた後、王国は三人の王子逹に分領されました。東フランク、西フランク、そして中部フランクという三つの国。カール皇帝の冠を戴いたのは中部フランク王国のロタール王。でもそれはほんの一代のことでした、中部フランクはその王子逹にさらに三つに分領されました。その後王子達は王位を巡って争い合い、中部フランク王国は東フランクと西フランク、イタリアに分割されてしまったのでした。ただ一つ残ったのはブルグントという小さな国でした」


「その通り。ブルグントは僅かに残った中部フランクの領邦なのです。時代を経てドイツ、フランスに分領されていても、ブルグントを元とする国の姿はそのままなのです。そのために今もブルグント自由伯領をはじめとするブルグント系諸国は同盟を結んでいます。フランス領側のブルグント公国にはフランス王家のカペー家が婿入りして今の王家がありますが、領民の連帯は同じです」


「素晴らしいお話です。このお話、国のお兄様はご存知かしら?」


 イサベラの漏らした言葉にエリーザベトはさも嬉しそうな顔をした。


「今を時めくブルグント公ならば当然ご存知でしょう。ブルグントは国が分割されてしまっても、遺臣達はその伝統を受け継いだ公爵から叙任を受け、その下に連携しています。国境は見えないけれど、そうして今も中部フランクは一つの国の連帯を保っているのです」


 アルノルトは嘆息を漏らした。


「はぁ。見えない国って本当だ! それが伝統なんですね」


 エリーザベトは勢い良く言った。


「その通り! 真に国を形作るのは国境よりも伝統です。領主が継承するのは領土や権利よりもまず、先人の伝えて来た風習、そして美風、つまりは伝統なのです。それを高めつつ継承を続けることで、目を閉じて心に浮かぶような心の国となるのです。伝統の大切さ、判りましたね?」


「はい。とても良く。ブルグントは伝統の国なんですね?」


 そう言って首を傾げるアルノルトにイサベラが寂しそうに言った。


「ええ。でもね、ブルグント公国は正統が何度か絶えてしまっているし、私達はフランス領側で育ってフランスの風習になって来ているわ。ドイツ領側の自由伯は今やハプスブルク王家との戦になってしまったし、今にもバラバラになって消えてしまいそう」


「自由伯ってなんだい?」


「自由伯はね。ブルグントでありながら帝国自由都市としてドイツ旧王家の領下にあって、ほぼ自治領に近いの」


「へえ、じゃあウーリのように自治の国なんだ」


「そうね。でも色々と違うわ。ちゃんと領主がいるし、自治は一部の権利者に占有されてる。それにドイツ王家との婚姻で王家直轄ともなって、ドイツへの献納義務があるわ。青空会議で決めるウーリの自治にはとても及ばないわ」


「へえ。でもその国とは仲間になれそうだよ」


 エリーザベトは顔に光輝を見せた。


「自治の国は仲良くなれる。これはいい話しです。次の時代がやって来たら、その時は違う国同士でも、仲良く出来る事でしょう。あなた達のようにね」


「エリーザベト様……」


 イサベラは少し顔を赤らめ、一人歩を早めた。

 逆にアルノルトは少し歩を落とし、考え込んだ。


「でも、もし、もしだよ。伝統をみんな知らなくなってしまって、良くない物に取り替わってしまったらどうなるんだろう」


「その時はこうなります」


 エリーザベトは着ていた外套でアルノルトの持っていたランプごと覆った。もう既に空は暗く、辺りは闇に包まれた。


「世界は暗黒になる。暗闇では自分の心しか見えず、他人に疑心暗鬼で生きることに意義を感じられません。でも、そんなことにはならないと信じます。暗闇の中であなたはすぐ光を探すでしょう?」


 エリーザベトはランプを覆う外套をゆっくりと開いた。


「伝統は光です。誰も光のある場所に戻りたいですもの。それは原点の場所に戻ればいいだけです」


「その場所が判らない時は?」


「暗黒の時代を迎えるでしょう。今、ブルグント自由伯領はハプスブルク王家に服属しようとしています。伝統が壊されれば暗黒が待っています」


「伝統の事を知らない僕は、暗闇の中にいるのかな?」


 考え込んだようなアルノルトに、エリーザベトは不意に微笑んだ。


「あなたの村は伝統そのものなのよ。自治や共同牧場も伝統によって築かれたもの。高地まで放牧地を開拓したり、共同牧場でおいしいチーズを作ったり、暖かい毛皮を編み込んだ服を作るでしょう? ウーリの伝統は原点のもの、世の光です。まだ闇が多いこの世界の中で尊い宝物ですわ」


「僕らは教わった通りに家畜を育てて、そして助け合って土地の開拓をしているだけさ」


「それは最も古くて理想的な伝統ではなくて?」


 アルノルトはその言葉に目が開かれるような気がした。いつも接している村の風習にそんな価値があるとは思わなかったのだ。


「私もそう思います」


 白亜の柱のフォリーに辿り着き、振り返ってそう言ったのはイサベラだった。


「だから私はウーリの事をもっと知りたいと思うのです。これからは諍いばかりしている帝国やフランスより、ウーリの自治を世に広げるべきです。そうなれば世界が良くなると思いますわ」


 エリーザベトは腰を低くしてイサベラに最敬礼の姿勢を取った。


「ウーリの守護権を持つ私共にとりまして、それは僥倖です。全く同意致します。遠くない未来、それを実現して行く時が来るでしょう。その時は臣下にお加え戴きますよう。お心にお留め下さい」


 アーデルはルーディックの背を押した。


「さあ、ルーディックも」


 ルーディックもイサベラに歩み寄り、片膝を折り、胸に手を置いて言った。


「ブルグント公女様、その政道にこの僕もお加え下さい。貴女の騎士となりましょう。小さき領主ではありますが僕はここを守る事から始めます」


 イサベラはその口上に気押されて、少し困った顔をアルノルトに向けた。

 近くまで歩いて来て、アルノルトは右手を挙げて言った。


「ウーリの事は自治の民である僕が守るよ。僕はここしか知らない。けど、ウーリは最高だと思う」


 イサベラはアルノルトに向き直って言った。


「それは誓いと受け取って良いですか?」


「誓う。天の神にかけて。僕には誓うくらいしか出来ないけど」


 アルノルトは跪いて両手を広げ、空を仰ぐ。そしてそのまま自身を十字にして伏して地を仰ぐ。それはウーリに古来伝わる礼拝の所作だ。

 エリーザベトが感心したように言った。


「これは古式の誓い……」


 ルーディックも負けじと短剣を頭上に捧げて言った。


「僕も誓います。叙任の儀に習い、我が剣を捧げます」


 イサベラは思いがけない出来事に少し感動した。


「まあ。素敵!」


 エリーザベトが言った。


「仮初めの儀で良いのです、ルーディックに騎士の叙任を頂けますか?」


 小さく頷いたイサベラはルーディックの短剣を受け取った。

 エリーザベトが次を促すように言った。


「剣を抜いて肩に擬し、お言葉を」


 イサベラは短剣を抜き、ルーディックの肩に刀身を当てるや、剣を高く掲げて揚々と言った。


「共に伝統を守る者として、この地を守る者として、天に誓う儀によって、ここに仮初めの盟を結びましょう」


 静かに月明かりに語りかけるようなイサベラの声は胸を打つ美しさだった。ルーディック、そしてアルノルトも、その姿を見上げ、しばし心を奪われた。


「剣を今再び御下賜下さい」


 エリーザベトの言葉にイサベラは短剣を鞘に収めて差し出し、それをルーディックは恭しく受け取った。


「ありがたき幸せ。これで僕は君の剣となろう」


 ルーディックとアルノルトが並んで立ち上がると、改めてお互いを見た。エリーザベトは笑顔になって言った。


「あなた逹は仲良くなれそうですね」


 ルーディックがアルノルトに手を差し出して言った。


「共に叙任を受けた仲だね」


「とんでも無い。叙任だなんて」


 アルノルトに握手は拒否されたが、二人は至って笑顔だった。


「家族がパンを持って帰るのを待ってるんだった。僕はもう帰るよ」


「そうか。しばらくはここに滞在してるんだ。またいつでも遊びに来てくれ。何なら明日にでも」


「これでも働き手でね。忙しいんだ。では、皆さん良い晩餐を」


 アルノルトはそう言って手を振って駈け出し、一度振り返った。

 すると高貴な面々が皆、優雅に手を振って見送っていた。

 アルノルトはひどく場違いな思いがして、その場を急ぎ足で立ち去ろうとした。

 そこへアーチを潜って来たのはブルクハルトだった。


「やや。アルノルトか。こんな所にいるとは。馬車を待ってたら遅くなってしまったじゃないか」


「ごめんよ。いろいろあってね。シスター達はここ送ったんだ」


「そうか。馬車は置いて歩いて帰るんだ。勝手に使った罰だ」


「はーい」


 ブルクハルトはエリーザベトの所へ行って貴族風の挨拶を始めた。

 アルノルトはランプを馬車の御者台に置き、買い物袋を抱え、野道を歩いて帰った。

 その道は月明かりに照らされ、今日はしっかりと見えた。ヴィルヘルムやジェミに少し近付いた気がした。



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