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ウーリの一日


 それから数日が過ぎて、シュッペル家の共同牧場では羊毛の刈り取りが始まっていた。それは家族総出の大仕事だった。マリウスはもちろん、下働きのカルビン、ペーテル、周囲の村人も手伝って行われた。病気明けのアフラは少し高い岩の上に座って、羊を見張る役をしていた。


「アル兄! ミルヒとシルフが道に出ちゃう! あっち!」


 アルノルトも刈り取りの順に羊を連れて行く仕事をしていたが、病気明けのアフラを走らせるわけにはいかない。アルノルトはアフラの指す方を見定めて走った。子羊のミルヒは柵の下を易々と潜り、道へ出て走って行った。そして物置小屋で見えないところでしきりに啼いていた。

 アルノルトが子羊逹を追いかけて道に出ると、そこには歩いて来る二人の修道女がいた。ミルヒはその人に向かって啼いていたのだった。一人の修道女はやって来た子羊にニコリと笑って、屈んでその頭を撫でた。


「この子はあの子かしら? 名前は確か——ミルヒ。そうミルヒね」


 そう言った声はイサベラだった。もう一人の修道女はクヌフウタだ。


「イサベラお嬢さん……」


 イサベラとクヌフウタはアルノルトに気が付き、小さく目礼する。


「ご機嫌よう。こちらはクヌフウタさん。ボヘミアでは有名なシスターなのよ」


「クヌフウタ・プシェミスルです。お見知りおきを」


 クヌフウタは嫋やかに礼を取った。その修道服は少し目の粗い亜麻糸で編まれているようで、染色をしない生成色をしている。ベルトには結び目を三つ作ったロープが巻かれている。古代からあるであろうような修道服だ。


「アルノルトです。前に教会で講話をしてた方?」


「ええ。あなたとは目が合いましたね。熱心に頷いていた」


「良いお話だったから、つい……」


 クヌフウタが微笑むと、まるで聖なる陽光に包まれるようだ。それに威圧されたアルノルトは元来た道を数歩帰り、家族の様子を見た。はたしてアフラとカリーナがこちらを伺っている。声を落として、アルノルトはイサベラに言った。


「約束が違う。前に言ったろ? 王家の人が来たら……」


「馬車では来なかったわ。途中から歩いて来たんですもの」


「そうじゃない。ウチが王家と関係があるなんて村人達が知ったら、どれだけ非難を受けるか。前にも見ただろう」


「改めて自己紹介します。私の名前はイサベラ・アニエス・ド・カペー。ブルグントの傍系一族です。来て困るのは、ハプスブルク家の人でしょう?」


「ハプスブルクじゃないって言うんだね?」


「ええ。修道院に入った今は洗礼名でアニエスと呼ばれるわ。今はこの通り一介の修道女です。何か問題があって?」


「……何しに来たんだ?」


「クヌフウタさんと一緒にアフラさんの回復をお祈りしに来ただけです」


「そんなに何度も来て、アフラを拐かすつもりじゃないだろうな」


「私は天に誓ったわ。誓いの通り、誰も連れ去ったりしません。それに、クヌフウタさんはお医者様でもあるのよ」


「と言うとまさか、前に来てくれたシスターのお医者様は……」


 クヌフウタは胸に手を置いて微笑んだ。


「私です。診察をさせていただけるかしら?」


「とてもありがたいのですが、そんなに何度も診て貰う理由がありません」


 首を振るアルノルトに、クヌフウタは昂然と言った。


「理由ならあります。私は医療に関わる者として患者さんに責任があります。妹さんのご病気に、私はしっかりした診断を出来ませんでした。病状をもう一度診察させて戴きたいのです」


「それは治ったのでもういいんです。それより、そうまでするのは何故なのかを聞いておきたいんだ」


「……始めは、アニエスの意志でしたね」


 クヌフウタはイサベラに話しを譲った。イサベラは溜息のように少し笑った。


「ええ。これは私の意志です。理由はそれでいけない?」


「意志? 意志じゃ判らないよ」


 イサベラは目に意思を灯したような顔をした。


「意志を持って行動する時、本当に生きてると感じられるわ。私はいつもお人形のようにお飾りで、自分の意志を持つことすら出来なかった。そんな私にようやく一つの意志が生まれたの。あの日、私はあなた達を見て、あなたの言葉に触れて、この村をかけがえの無いものだと知ったのよ。私の理想通りなの。この村も、あなた達兄妹も……そんなアフラさんと友達になれた。大切にしたいと思ったの。この村にこのままでいて欲しい。アフラさんにも元通り元気になって欲しい。私に出来る事は小さな事しかないけれど、心からそう思ったの。そう祈ったのよ」


 イサベラはミルヒを撫でながら、そして手を合わせながら言った。その心を聞いてしまった今、アルノルトの胸には暖かい火が灯っているように感じた。


「アフラは……元気になったよ。お陰様でね」


「まあ。良かったこと!」


「アフラに会って行くかい? すぐそこにいるんだ」


「いいのですか?」


「君逹はシスターなんだろ。なら来るなとは言えないよ。それに何度も来てくれたことだしね」


 イサベラとクヌフウタが互いの顔に光輝を見せた。


「ありがとう」


「ただ、今日はアニエスの方の名前でいてくれるかい? 家族はイサベラの名はハプスブルクの人だと思っているんだ。アフラには後で言っておくから。いいね」


「はい。もちろん」


 アルノルトは修道女二人を連れて牧場へと上って行った。イサベラは上品にも白い日傘を差している。それを遠目に見たブルクハルトは「誰だあれは?」と指を指した。アルノルトはその視線を避けるように羊の群れを大回りして、アフラのところまで歩いた。


「アフラ。お客様だ」


 イサベラは満開を迎えた花のように微笑んだ。


「こんにちは。お加減はいかがかしら」


「イサベラさん……」


「シッ」


 アルノルトは静かに口に人差し指を当てた。

 駆け寄って来たアフラの顔を見て、イサベラは言った。


「お手紙ありがとう。とても元気そう……良かった」


「ごめんなさい。私……お手紙書くなんて初めてで……下手だったでしょう?」


「いいえ。お手紙ありがとう。重い病だと聞いていたから心配してたのよ。元気そうな顔を見れて良かった」


「私はもうこんなに元気になったの」


 小さく小回りに走ってみせるアフラに、イサベラは微笑んで頷いた。


「うん。良かった」


 少し離れた所にいたカリーナが、修道女二人の姿を見て歩み寄ってきた。


「アルノルト。この人は?……」


「えーと。アニエスさんとクヌフウタさん。異国のシスターだよ」


 カリーナはクヌフウタの顔を見て、急に畏まった。


「ああ! あなたは前に来て下さったシスター先生ではありませんか!」


 クヌフウタはカリーナを認めて頭を垂れた。 


「はい。クヌフウタです。その後アフラさんが重い病だったと聞き、心を痛めておりました。満足な診断が出来ず、心よりお詫び申し上げます」


「そんな! 感謝よりありませんとも。病気の進行はあなたの言う通りでした。仰った通りに看病をしたのです。眠り病という特殊な病でしたから、薬は他から取り寄せましたが、お陰様ですっかり良くなって」


「再診察をと思ったのですが、もう必要無いくらいお元気な様子で。とても安心しました」


「まあ。わざわざお越し頂いてありがとうございます」


 カリーナはクヌフウタに何度もお礼を言った。

 イサベラもカリーナに挨拶に来た。


「はじめてお目にかかります。私はエンゲルベルク修道院の修道女……アニエスです」


「イサベラさん? どうして今日はアニエス……うっ」


 そう口にするアフラの言葉はアルノルトの裏拳で止められた。アルノルトは再び人差し指を口に当てた。アフラはそれで状況を呑み込んだようだった。

 そしてそれはカリーナにも判った。


「アフラの病気はお陰様でかなり良くなりました。どなた様かは存じ上げませんが、いいお医者様を何度も呼んでいただきました。それが誰であるか今判りました。お礼を申します」


 カリーナはイサベラの手を握り、深々と頭を下げた。イサベラは慌てて言った。


「そんな。お礼なんて……いいのです」


「いいえ。アフラはここにいる皆、村の人、山の人、お医者様、貴女様に助けられました。皆の努力で天に祈りが通じたのだと思います。とても危ないところを助けられたのですから」


 遠くから教会の鐘の音が聞こえて来た。正午を示す鐘だ。

 クヌフウタは修道女らしく教会の方へ向かって十字を切って祈った。


「これも神の思し召し、父なる神に感謝致しましょう」


 その祈りにイサベラも十字を切り、カリーナもそれに習った。アルノルトは手を広げてから手を合わせて、アフラにウィンクすると、アフラも慌ててそれに習った。はじめに手を広げるのは、この辺りの流儀だ。

 仕事をほったらかして何をしているのかと歩いて来たブルクハルトは、修道女と共に皆が祈っているのを見て帽子を脱いで胸に抱え、瞑目するような格好になった。その隣でマリウスはキョロキョロしていた。

 クヌフウタはそんな人々の姿を見て、祈りの言葉を唱える。


「天に坐す我らが父よ。アフラさんに病の健やかなる回復を。ここに集える皆に神の祝福を。アーメン」


「アーメン」と、イサベラ、そしてアフラが追従する。


 クヌフウタが祈りを終えると、カリーナが再びお礼を言った。


「ありがとう御座います。これでアフラもきっと元気になることでしょう。良かったわねアフラ」


「うん。ありがとうございます」


 アフラは満面の笑みだった。そして、アフラはイサベラの手を取った。


「ちょうど羊毛の刈り取りをしている所なの。見て行ってね」


「ええ。出来ればお手伝いさせて頂けるかしら?」


 イサベラは笑ってそう返すので、アフラはイサベラの手を引いた。


「ええ。大歓迎! 行こう。イサベラさん」


 ついそう言ってしまい、アルノルトが足を鳴らした。

 アフラは少し舌を出した。

 行く途中で羊番をしていたマリウスが言って来た。


「僕、イサベラ様知ってるよ。様を付けなきゃいけないんだよ」


「しっ! 誰に聞いたの?」


「えーと。馬車に乗ってきた人。前に僕、伝言したよ。鐘がゴラリンゴラリンと今鳴ったよ」


 イサベラはマリウスを見て言った。


「かわいいわ。弟さん?」


「うん弟。マリウスって言うの」


「賢い子ね」


「シスターはイサベラ様?」


「ええそう……でも今はアニエスよ。イサベラは少し忘れておいて欲しいの」


「変なのー」


 イサベラは自分でも変だと思い、苦笑いするよりなかった。

 羊小屋まで歩いてくると、そこには小さく囲った柵があり、そこでエルハルトが羊の毛を刈り取っていた。

 柵の回りには家族連れで数人の見学者が囲んでおり、アフラとイサベラはその隙間に入って中を覗き込んだ。柵の中では羊はお尻を降ろしてエルハルトに後ろから抱えられるような格好で、大人しく毛を刈られている。

 アフラは柵に足を掛けて昇り、それを解説する。


「こうやってね、夏の暑くなる前に羊の毛を刈るの。毛は糸にして毛織物になるのよ」


「かわいい。毛を刈られちゃうのに大人しくしてるのね」


「大人しいのは上手だからなのよ。私がやったら暴れてダメなの」


 エルハルトが二人を見て声を掛けた。


「見学かい?」


「うん。見ててもいい?」


「羊を嚇かさないように静かにしてくれれば大丈夫さ」


 イサベラが柵から顔を出して言う。 


「静かにしてますので是非見学させて下さい」


「どうぞシスター。見学は歓迎です」


 エルハルトは小さく礼を返しつつ、一人で羊を押さえながら、手際よく羊に鋏を入れていく。


「上手ね。向こうは二人でやっているのに」


 隣の柵では二人がかりで、ぺーテルが羊を押さえ、カルバンが鋏を入れていた。


「お尻の方は手が届かないから二人でやるのさ。一人でやるにはかなり慣れがいるよ」


 少し遅れてカリーナやクヌフウタが歩いて来た。柵の少し後ろから二人は羊を見て語り合っている。

 さらに後から羊を連れてやって来たアルノルトが言った。


「じゃあ、僕もやるかな」


「おっ。大丈夫か? 俺はこの通り手を出せないぜ」


「まあ、見てて」


 アルノルトは連れてきた羊を地べたに座らせようとするが、羊もなかなか座るものではない。アルノルトが羊の両足を握って倒そうとすると、羊は体を跳ね上がらせて暴れ、倒れた羊はアルノルトの上に転がった。


「うわー」


 悲鳴にも似た声を上げるアルノルトを、イサベラは心配顔で見ていたが、エルハルトとアフラは大声で笑っている。


「アル兄! 大丈夫?」


「羊は柔らかいから大丈夫だけど。いてて」


 羊の下敷きになるアルノルトへ、エルハルトが言った。


「羊のへそを上にしておくんだ。そうしたら動けない」


 そこから立ち上がったアルノルトは羊を仰向けにしてバンザイさせる。すると羊はもう動けなくなって一声啼くと、観念したように静かになった。


「最初が一番大変なんだ」


 アルノルトはそう言って一息を吐いてから、羊を寝かせたままUの字型の大きな毛切り鋏を入れて行った。その手付きは誰よりも丁寧だったが、羊は時々身じろぎをし、ついには大きく体を揺すったので、アルノルトは鋏を取り落としてしまった。

 アフラが鋏を拾って言った。


「じゃあ次、私が切ってもいい?」


「手伝ってくれるのは嬉しいが、鋏入れるのも難しいんだぞ。毛の根本で切って、羊の方を切っちゃあいけない。出来るか?」


「出来るわ」


「じゃあ背中の方から切ってみてくれ」


 アフラは羊の毛を掻き分けてみたが、綿のように固まった羊の毛の弾力で根本まで掴めず、小さく摘んで毛に鋏を入れ、短い毛をパラパラと手から落とした。


「もっと根本から! 毛が長くないと後で毛糸にするのに困るんだ」


「判ってる。ちょっと試しただけよ」


 アフラは今度は大きく毛を掴んで、鋏を入れた。


「羊の毛ってゴワゴワして膨らむのね」とイサベラも羊に触りながらその作業を見ていた。


「そうなの。毛が綿みたいで根元が見えないの」


 そう言いながらアフラの切った毛は、それでも毛の中間くらいの長さだった。


「まだもっと根本だよ。見えないくらいのところを切って行くんだ。まあアフラにはまだ無理かもな」


「いいもん。じゃあ、これを……」


 アフラは羊の毛を両手で掻き分けて、強く引っ張った。


「イサベラさ……」と言ったところでアルノルトがアフラの足を踏んだ。目で言うなと言っている。


「イタタ。いえ。アニエスさん。鋏でここを切ってみて。これならよく見えるでしょう?」


「私が切ってもいいの?」


 アルノルトは目で肯いて言った。


「ああ。お手伝いは誰でも歓迎なのがウチの流儀さ」


 とたんにイサベラは目を輝かせて腕を捲り、頭に被ったベールを外した。そして大きな毛切り鋏を取った。


「こうして毛を押さえてるから根本から切ってね」


 アフラの導くまま、イサベラは丁寧に鋏を入れ始めた。しっかりと根本の際で鋏を入れ、まずは一度切られた毛を取り上げて、イサベラは丸い目で首を傾けた。


「これでいい?」


「そうそう。アル兄より上手だわ」


 アルノルトは少しムッとして、片手で頭を掻いた。

 すると拘束の緩んだ羊が首を丸めてイサベラを振り返り、睨むようにして大きな声で啼いた。

 すぐ近くで大きな羊の目に見つめられ、イサベラは驚いて動きを止め、そのまましばし見つめ合った。


「このオッポは見た目より大人しいから大丈夫だよ。まあこいつも好きで毛を切られるわけじゃないって抗議してるんだな」


 イサベラは羊の目を気にしながらそっと鋏を入れた。すると一段と大きな声で一声啼いた。

 その明らかな抗議の声に、イサベラは少し驚いて手元が狂った。


「あっ」


 そのとたん、羊は身をよじって大暴れをした。


「皮をやったな! どうどう」


 アルノルトは暴れる羊を押さえ切れず、羊は飛び上がって地団駄を踏んだ。アルノルトは散々踏みつけられた。羊の毛が辺りに舞った。


「うわー! 押さえてくれ!」


 そう言われたアフラとイサベラは、羊を押さえようとしたが、ロデオのような跳躍をする羊の体当たりで倒れてしまった。

 エルハルトが作業を止めて立ち上がったが、その頃にはオッポは綿帽子のような毛を振りまきながら柵の出口へトテトテと走っていく。


「止めてくれマリウス! 頼んだぞ」


 ちょうど柵の辺りで番をしていたマリウスは羊の突進にたじろぎながら言った。


「わかった! ウォー」


 マリウスは持っていた篭を持ち上げて羊を嚇かしたが、羊は軽くそれを避けて、柵から走り出た。


「逃がしちゃダメー」とアフラが柵に上って叫ぶ。


「ごめーん」


 羊が牧場へ出て走り回るのを、マリウスは必死に追いかけた。ブルクハルトとカリーナがさらに加わって羊を追いかけていた。

 それを見ていたイサベラは思わず楽しくなり、笑いを堪えるのが大変だった。


「大丈夫かい?」と顔中羊の毛まみれになったアルノルトが声を掛けると、もう笑いが堪えられなかった。


「クッフフフ。アッハハハハ。もう可笑しくてダメ……」


 アルノルトは抗議の声を上げた。


「元は誰かさんのせいじゃないか……」


「フフッ。ゴメンなさい。でも、白いおヒゲみたいよ」


 エルハルトがアルノルトを見て笑った。


「確かに聖ニコラウスみたいだな」


「聖ニコラウスさんだ!」


 アフラもその顔を覗き込んで笑った。下働きのペーテルとカルバンも笑い出すと、アルノルトも天を仰いで笑うより無かった。

 イサベラはその後、毛を刈ることは流石に控えたが、カリーナの案内で羊毛集めの手伝いをした。クヌフウタと一緒に刈った羊毛を篭に集めると、それを持って洗い場に運んだ。

 それは思ったより遠い場所だった。牧場の続く丘を下り、川から水路を引いた水場まで歩き、その袂にある子牛一頭入れそうなくらいの大きな木桶に羊毛を入れた。


「これを足で踏んで洗うんですよ」


 カリーナは羊毛でいっぱいの木桶に水と洗剤を入れた。そこへ遅れてアフラがやって来て、瞬く間に裸足になって膝ほどの高さの縁を飛び越え、羊毛の上を歩くように足で何度も踏んで見せた。が、時に足を滑らせている。


「大丈夫かいアフラ?」


 心配そうにカリーナが聞いた。それは体調を気遣っての事だ。


「大丈夫。歩いてるだけじゃないのよ。隅の方まで満遍なく洗うの。イサベラさんもやってみる?」


「ええ!」


 イサベラは靴を脱ぎ、アフラの手を取ってその中へ入った。そしてスカートの裾を纏めて片手で持ち上げ、アフラと逆向きになって手を繋ぎ、歩を合わせて羊毛を踏んで旋回する。

 少し汚れが落ちた所で桶の横の栓を外し、さらに羊の毛を踏むことで羊毛は濁った水を吐いて、次第に綺麗になっていく。


「そうそう上手上手」


「流れてくー。楽しいわ!」


 イサベラはもう修道女の顔では無く、一人の少女の顔で思いっきり笑った。


「ふふ。でも私逹くらいだとまだ体重が軽くて、濯ぐ時に水捌けが悪いの」


「では! クヌフウタさんも来て下さい!」


 イサベラに呼ばれてクヌフウタは靴を脱ぎ、イサベラの差し伸べる手を取ってその後ろに並んだ。


「重さが丁度良いようですわ。いっぱい流れて行きますもの」


「それは私が重いって事かしら?」


「そりゃあ私達よりずっと長身ですもの……ねえ」


「じゃあこれに乗っかって一気に濯ぎますよ」


 アフラは足の動きを早めて行った。

 桶に水を足しながらカリーナは当惑顔だ。


「あら、シスター先生にも手伝って貰うなんて。悪いですわ」


「いいえ。せっかくこんな牧場に来たのですから、是非お手伝いさせて下さい」


 小さく歩みながら、次第にアフラが軽くステップジャンプを加えたので、二人もそれに習った。


「ウンタッタ・ウンタッタ」


 アフラはステップしながら何か三拍子のダンス曲を口ずさんでさえいる。

 三人が輪になって桶の上を小さくステップしながら周旋する姿は、俄作りの輪舞のようだ。

 狭い桶の上に三人がそうしていると、時々隣の人の足を踏んだ。

 足を踏みそうになって避けたイサベラが転びそうになってアフラにしがみついた。


「キャーッ」


 クヌフウタは倒れそうになったイサベラを支えようとしたが、その足に躓いた。

 そして三人とも桶に転び、服を水浸しにしてしまった。その時ばかりは思い切り笑った。


「アァ。一張羅なのに……」


 クヌフウタとイサベラは顔を見合わせて肩を落とした。

 裕福な修道院なら別だが、物資の少ない修道院で修道服は一着しか持ち合わせが無かった。エンゲルベルク修道院は当然後者だ。


「濡れちゃったものはどの道一緒ね。こうなったら……」


 アフラは尻餅を付いたまま桶に背を預け、足で羊毛を縁に押し付けた。

 すると素晴らしく水が吐き出されて行く。


「こうね?」


 イサベラも同じく横に並んで足で羊毛を押し拉いた。

 修道女にも令嬢にもあるまじき姿だ。

 クヌフウタは足の踏み場も無くなり、濡れた服を気にしながら桶から降りた。


「どこかで洗わなくては……」


「お着替えして行きますか? 家にありますよ」


「お借り出来ますか? お願い出来ましたらアニエスの分も」


「ええ。私やアフラの服で宜しければどうぞ」


 羊毛の洗濯が一段落し、その洗った羊毛を家の軒先に運んで戻ると、カリーナは二人を客間へと案内し、クヌフウタとイサベラは質素な村娘の服に着替えた。

 白いベールを外したクヌフウタは、明るい色のブロンドが目を惹き、白い粗服を着ても東欧のプリンセスという雰囲気がし、この上なく優美だった。尤も彼女は幼少までは本当にプリンセスだったのだ。

 イサベラも金髪の巻き毛で上流階級の雰囲気は隠せない。二人の服はアフラの伝統衣裳にも似た濃いオリーブ色の長いスカートに、コルセと呼ばれる黒のベストの姿だ。


「クヌフウタさん! とても似合ってます!」


「そうかしら? 貴女もとても素敵よ」


「クヌフウタさん程では」


 イサベラとクヌフウタは着替えながらお互いに褒め合った。

 自室で着替えて来たアフラは、着替え終わって出て来た二人を見て、服は自分達のものなのに、言葉に出来ないような気品の差を感じた。


「キレイ……」


 クヌフウタの端正な顔立ちはこの上無い程整っていたし、イサベラは背筋が通っていて踊り子のような長い四肢をしている。同じ服を着ても、自分達とは決定的に何かが違った雰囲気を湛えている。

 後から続いてやって来たカリーナも目を丸くして言った。


「まあ、お二人ともとてもお似合いね。ついでに服を洗って、乾くまでここでご休憩されたら如何かしら?」


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


 クヌフウタはカリーナに頷きつつ、アフラへ歩み寄って来た。


「少し、診察をしましょうか」


 アフラは少し戸惑いつつ、「はい」と返した。


「体に辛いところは無い?」


「はい。もうありません。少し疲れやすくて、時々フラっと蹌踉けるくらいです」


 クヌフウタはアフラの額を触ったり、脈を取ったり、目の裏を見たりして、手早く診察をした。


「もう熱も無いし、大丈夫のようですね。しばらくは体を暖かくして、しっかり栄養を取る事です。体力を回復させるには、少し歩いた方がいいわね」


「良かった! 少し前に呼んで頂いたお医者様にも同じように言われたわ」と、アフラは手を合わせつつ言った。


「お医者様?」


「イサベラさんが呼んでくれたんじゃ?」


 イサベラは首を振った。


「私は呼んで無いわ」


 カリーナが言った。


「何でもオーストリーからいらしたと仰っていたわ」


「オーストリー!」


 そう聞いて、イサベラとクヌフウタは顔を見合わせた。それを聞けば誰が呼んだか自ずと想像が着いたのだ。

 しかしその可能性は信じ難いものでもあり、その名前は言う事が出来なかった。


「お心当たりが?」


「いえ……」


 次には羊の番をしなければならなかったアフラは、イサベラの手を引いて言った。


「イサベラさん、一緒に来て」


「ええ」


 イサベラはアフラに手を引かれて一面緑の牧場を歩いて行く。牧場には所々に白い羊の群れがいて、イサベラを避けるように移動していく。空には似たような形の羊雲が浮かんでいる。山を開いた牧場は傾斜地が多く、アフラは小さな丘になっているところへ歩いて行くようだ。

 その丘には白や黄色の花が咲いてる草場があった。


「綺麗!」


 イサベラが手を叩いて喜ぶので、アフラは満面の笑みを浮かべた。


「でしょう? ここでお花摘みしましょ」


 そう言うやアフラは坂を駆け下りて、花の香りを嗅ぎ、その花を一輪摘んでイサベラへ渡した。


「いい香りがするわ」


 イサベラもそう言って何度も花の香りを楽しんだ。

 アフラはそうしている内に近くの花を何本も摘んで、手に花束を抱えてイサベラの方へ向けて掲げて見せた。


「もうそんなに取って? せっかくのお花畑が無くなってしまうわ」


「いいの。これも立派なお仕事なの」


「お仕事?」


「この花はね、春のお祭りで使うの」


「お祭り?」


「そう。春のお祭りでは春の乙女達がね、祝福の花片を播いてパレードするの」


「それは素敵ね」


「こうして花片だけを集めてね」


 アフラは白い花片を手に集め、「エイッ」とイサベラの頭上へと放った。

 頭上から降り注ぐ白い花を、イサベラは両手を翳して受けた。不意の春の祝福にイサベラの胸は熱くなった。


「綺麗!」


「じゃあ今度は……エーイ!」


 アフラはもう一度花片を集め、空へ投げた。今度は思いっきり上の方へ。

 白と黄色の花の散華は風に煽られて草原に舞い落ちる。


「綺麗でしょう? お祭りではもっと沢山の花を播くのよ」


「綺麗……しか言えないわ。本当に天から降る祝福のよう」


「でも良かった。もうこんなに元気になったからお祭りに出られそう。病気だったから行くのを反対されてたの。せっかく春の乙女になれたのに」


「春の乙女って?」


「春の乙女はね、春の精霊なの。頭に花の冠を被ってね、ほら、あの時に着てた民族衣装を着るのよ」


「アフラさんの春の乙女姿はきっと素敵だわ」


「そんなあ。ところでアフラさんじゃなくてアフラでいいのよ。年だって一つ下だし、お友達なら気を遣っているみたいで変だもの」


「そうね。じゃあアフラ?」


「なあに?」


 イサベラは思わず笑った。

 アフラもくすぐったそうに笑っている。


「ふふ。呼び慣れないわ」


「イサベラさんったら」


「私もイサベラでいいのよ」


「それは……私が困っちゃうわ」


「いいから呼んで。お友達の印だもの」


「イサベラ……」


「うん。いい感じ」


 アフラは大きく首を振った。


「ダメダメ。呼び捨てなんて! それに今はアニエスさんって呼ばないといけないって、アル兄さんが」


「アニエスは洗礼名なの。天使って言う意味よ」


「素敵。じゃあ私はしばらくアニエスさんって呼ぶわ。今はシスターさんだし。兄さんにまた足を踏まれるもの」


「それもそうね」


「アニエスさん。きっとお祭り見に来てね」


「きっと私、見に行くわ」


「うん」


 二人は頷き合い、再び花を摘み始めた。

 それはとても心楽しい村の仕事だった。



牧場って、行くと予想外なくらい楽しい気分になります。

羊を見てるだけで幸せな気持ちになります。

そんな楽しいウーリの一日でした。

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