雲の向こうの主
急いだ甲斐もあってか、予定より早く山の頂きにも近い高地のアルプへ着いたエルハルトとアルノルトは、早速山に残る氷河の氷を籠へ詰めた。
羊の首に結わえた紐にその籠をぶら下げると、羊は重さを嫌って首を振ったり籠を地面に擦りつけたりして抵抗した。
その仕草が角を振って挑戦する仕草にも見えたのか、羊の中でも大きなオッポとネロは角で押し合って小競り合いを始めた。ネロは性格が一番猛々しい羊のボスだ。
「アルノルト。上のあの二匹を抑えてくれ。大将が乱れると群れが荒れる。あのケルンの方は崖だからあっちへは絶対に行かすな」
坂を駆け上り、オッポを抑えながら、アルノルトが言った。
「どうどう。やっぱり重いのが嫌みたいだよ兄さん」
「まあ時期に慣れるさ」
その言葉通り、しばらくすると羊達も慣れて大人しくなり、草を食み始めた。再び氷を籠に詰めていると風が次第に強くなって来た。向かいの山には霞が立ち、細い雲が尾を引いている。
「雨が来そうだ。これで切り上げよう」
「まだ全部入ってないよ」
「一嵐来る。山小屋へ避難するんだ。上の方へ行った羊をこっちに連れて来てくれ」
そう言ってエルハルトは牧羊犬のベルに「集合!」と声を掛けた。ベルは彼方此方を走ってエルハルトの方へ羊を追い始めた。しかし高い所にいたネロは群れとは逆のさらに高い方へと走っていく。
アルノルトはネロを追って急坂を登りながら空を見た。その空は雲も少なく、まだ青空が見えているので嵐なんてまだだろうと思えた。
しかし、しばらくすると雷の音が響いて来た。そして幕を引くように雲が空を覆うと小さな雨粒が降り出した。
坂の下にいるエルハルトにアルノルトが叫ぶような声で言った。
「雨だ。兄さんは本当に山の声が判るんだ」
「お前も時期に判るさ。ネロを頼む」
山の上で羊のネロは一点をじっと見つめていた。
その先の崖にはカモシカがいた。カモシカは崖を跳ねながら降りて来る。草原に着地したカモシカはネロを威嚇するように首を振った。ネロはそのカモシカの仕草を見て追いかけ始めた。カモシカはケルンのある峰の方へ逃げ、ネロもそれを追いかけて行く。
「ネロ。そっちはダメだ!」
アルノルトはネロを追って走るが、残雪もあり、斜面は急なので足が追い付かない。
カモシカは翔け上がるように峯の崖を登り、頂きに立った。ネロは峰の手前でカモシカを追うのを諦めたようだ。ネロはカモシカを見たままビクとも動こうとしない。カモシカはこちらには目もくれず空をじっと見ている。
アルノルトがその方向の空を見ると生きて動くかのような雲を見た。その雲の中に稲光が走った。山は生きている。そんな兄の言葉が心を過った。
雷鳴が鳴り響く。カモシカはその音で峯を逆へと駆け下りて行った。
ネロが踵を返した所でアルノルトは追い付いて首を掴んだ。
もう少し登るとケルンがある。その向こうの崖からは雲がもっと見えそうだった。
アルノルトはケルンに向かって歩いて行った。
そのうちに雨は次第に強くなって、大粒の塊が頬を叩いた。
「何をするつもりだ? 早く行くぞ!」
強風に煽られ、アルノルトにはもう兄の声が聞こえず、足早に山を登って行く。
エルハルトは羊達を見るために追うことも出来ず、先に行くわけにもいかず、蹈鞴を踏んだ。
ケルンに着いたアルノルトは断崖の上に立ち、迫る雲を見上げた。空を見上げると、雲の渦が幾筋の流線を描いて迫ってくる。それは命を持つ帯のようにアルノルトへ向かってきて、目の前で渦を巻いた。
この雲の中に命を持った何かがいる。
「山の主なのか?」
アルノルトにはそう思えた。
すると言葉が降って来た。
——我に名は無くこの天空を翔る者
その言葉は何かの声であるのか、自分でいきなり考え付いたのか、良く判らなかった。
それは風の中にいる私のような何かの声だろう。この時は私では無かったが。
アルノルトはケルンの上に積もった雪を手で払いのけて、そこに石を一つ積んだ。
「雨を止ませてくれ! 雨で雪を溶かさないでくれ! 病気の妹に持って行くんだ!」
アルノルトはその雲の上に叫んだ。声に呼応するように雲間には無数の稲妻が走り、直後轟音が鳴り響いた。辺りは真っ白に光って頬に熱さえ覚えた。
アルノルトはさらに石を積み、そして雲に向かって塊を投げた。
それは手に握り込んでいた雪の塊だった。
その瞬間、雷鳴と共に突風が吹いた。アルノルトはその風に立っていられなかった。強風に薙ぎ倒されるように坂を駈け、勢いで羊の近くまで駆け降りて手を付いた。羊が声を上げて啼く。
アルノルトは羊の首を抱き抱えながら、尚も荒れ狂う空に叫んだ。
「僕は決して山を荒らす者ではない! 羊を守り、山と共に生きる者だ!」
すると雨は雹に変わって激しく身を打った。
エルハルトが近くでアルノルトを呼ぶ声がした。
それでもまだアルノルトは雲の渦の向こうに目を奪われていた。雲は目の前で大きく渦を巻き、見たこともない大きな何かを描いていく。それは巨大な龍にも見えた。
「天空の主なら聞いてくれ。雨を止めてくれ!」
尚も稲妻が轟音と共に光った。雷が森に落ちた。その場所に大きな木が見えた。
——判ったから早くここを下りるといい
再び声のようなものが聞こえた。
それは私の心のつぶやきだった。
アルノルトにエルハルトがようやく追い付いて来た。
「アルノルト! この場所は危ない! 早く山を下りるんだ!」
エルハルトの声にアルノルトはようやく我に戻り、兄を振り返った。
「あれを見て」
見上げると雲はもう形を失い、暗雲が空を渦巻くのみだった。
再び立ち上がった二人を、強風と雹が痛いほどに叩きつけた。
「急げ。山小屋へ避難するぞ」
二人はネロのお尻を叩きながら支え合うように急な坂を下りて行った。
再び羊の群れに合流して歩き出した頃、雹が止み、見上げれば強風に煽られた雲が飛ぶように散っていく。
空から次第に光が零れてきたかと思うと、やがて雲の切れ間から晴れ間が見えた。気が付くと、雲は羊の群れのように切れて、山に小さな影を落とすだけになっていた。
「これは……天気が変わりやすい山でも、こんな事は初めてだ。一体どうしたんだ!」
エルハルトは空を見上げながら、アルノルトの肩を叩いた。
「雲の向うの主がやったんだ」
「お前、叫びながら何か投げただろう」
「雪を主に返したんだよ」
「アブラハムが子のイサクの代わりに羊を捧げたような風景だった……」
「僕が捧げたのは、雪だ……。まさか僕自身かも?」
「お前は天気を読まなくてもいいようだ」
アルノルトは兄に不服を訴えるように言った。
「どうして?」
エルハルトはアルノルトの背を叩いて笑うのみだった。
そして、二人は少し山を降った大きな岩陰にある夏の山小屋へ辿り着いた。
羊や牛達が春に低地のアルプの草を食べ尽くした後、夏になると牛飼い達は高地のアルプに移動して、この夏の山小屋で暮らす。そして秋はまた麓に降りて、その間に豊かに育った草を刈り取って冬に備えるのだ。季節はまだ春だったので、この辺りはまだ雪が解けたばかりだ。
小屋の中は雪を防ぐ為しっかりと閉められた雨戸が閉まっているため真っ暗だ。
エルハルトとアルノルトは積もった埃を払いながらいくつかの雨戸を開け、羊達とさらに自分達の寝床を藁で作り、そこで一晩を過ごした。
夜が明けるとエルハルトとアルノルトの兄弟は羊にたっぷりと草を食べさせてから、羊達に氷の入った籠を一頭一頭取り付けて行った。そして準備を終えると、羊を追いつつ山道を下った。
その間の天気は不安定で、小雨が降ったり止んだりを繰り返して、服は常に湿っていたが、大降りにはならなかった。
そうして村へ着いたのは日が傾き始めた頃だった。
エルハルトとアルノルトは村の牧舎へ着くと、早速羊の首に付いている籠を集めた。アルノルトはその籠を開けて言った。
「兄さん。もう溶けて半分くらいになってるよ」
「まあこれだけあればしばらくは足りるさ」
エルハルトは氷を皮の袋へ詰めて、半分地下に埋めてある氷室の中に入れた。氷を籠から取り出すアルノルトは、氷の冷たさとまだ湿っている服の冷たさに震えた。
「ただいま」
二人が家の中に入って行くと、カリーナが迎えた。
「おかえり。大変だったわね」
アルノルトはカリーナに言った。
「氷を沢山取ってきたよ」
「そう。助かるわ。服が濡れてるじゃない。山で雨にあったの?」
「うん。ずっと雨だった。けど、少しで止んだんだ。大丈夫だよ」
「すぐ着替えた方がいいわ。最近はエルハルトが付いててもよく降られるようね」
エルハルトは静かに言った。
「これからは雨のことはアルノルトに言った方がいい」
カリーナは訊いてみた。
「アルノルトがお天気を当てたの?」
「いや。それ以上さ」
カリーナは首を傾げてアルノルトを見た。
アルノルトも小首を傾げてみせた。そして手拭いで頭を拭きながら母に訊いた。
「それよりアフラの様子はどう?」
「うん……昨日より熱は無いようだけど、変わりなく寝てるわ……」
「昨日から眠ったままなの?」
「ええ……」
「そんな……薬はまだ?」
「まだよ……早く二人とも着替えてらっしゃい。風邪引くといけないから」
「うん」
二人は着替えるために部屋へ行き、着替え終わると隣にあるアフラの部屋へ行った。
エルハルトとアルノルトは、部屋の入り口からアフラの部屋を覗いた。そこではサビーネとマリウスが看病をしていた。
「どう? アフラの様子は?」
「なかなかこの熱は下がらないねえ」
サビーネは溜め息を吐いて扇いでいた布を置いた。
「フーッ。まだまだ冷やし方が足りないようだよ」
「また氷を取って来たから、氷風呂をすればいいよ」
「そうかい。二人ともありがとう」
マリウスが横から言った。
「ボクも水汲んできたよ」
「そうだね。マリウスもありがとうね。おかげでまた氷風呂に入れてやれるよ。じゃあ早速準備するとしようか。氷と水をお風呂場へ運んでおくれ」
「こっちこっち」とマリウスにエルハルトは引張られて行き、水の入った桶のある方へ連れて行った。アルノルトもそれに付いて行き、水を運ぶのを手伝った。
三人で大きな桶を運ぶと、風呂桶の水はあっという間にいっぱいになった。
「兄弟三人もいると、重労働も早いもんさね」とサビーネは笑った。
「あとは氷だね」とアルノルトが山から取ってきた氷雪を貯氷庫から持ってきた。
サビーネはそれを見て言った。
「これはたっぷり取ってきたねえ。時間たっぷり入れそうだねえ。少し砕いてそこの桶に入れといておくれ」
そこへブルクハルトが村の仕事から帰って来た。
「ただいま。サビーネ母さん来てくれたのかい?」
「おかえりブルクハルト。丁度いい、お前も手伝っておくれ」
「アフラのお風呂かい?」
「お風呂と言っても冷たい氷のお風呂ね」
「噂の氷風呂か!」
「こういうことは全員で一致協力してやると祈る以上に願いが通じるものさ。さあ、お前にも手伝って貰うことがある。アフラを風呂場に運んでくれ」
ブルクハルトは軽々とアフラを腕に抱え、サビーネの先導に従って階下へ降りて風呂場へと入って行った。
カリーナもタオルや着替えを持って後ろから付いていく。
サビーネとカリーナはアフラをゆっくりと氷風呂に浸からせた。
アフラの体が十分に冷えるまで、ゆっくりと時間をかけたので、夕食は忘れ置かれる事となった。
それでもアフラが氷風呂から出て来たら次こそは熱が下がるのではないかと男達は期待半ばに待っていた。
そうして、お風呂場から出てきたアフラの熱は、果たして完全に下がったとも思える程に冷たくなっていた。しかし唇がもう紫色になっている。
「冷やし過ぎじゃないだろうか」
ブルクハルトはアフラを運びながらそう言ったがサビーネは頷いた。
「またすぐ熱は上がるだろうさ」
サビーネはアフラを二階に寝かせ、しばらく静かな寝息を見守った。
「まあ、これならしばらくは大丈夫だろう」
ベッドの上に顎を付けて見ていたマリウスは安堵して言った。
「よかった。よかった。でもお姉ちゃんお腹空いてるよね。ボクもこんなに空いてるくらいだもの」
「そうだね。じゃあ摺り下しリンゴを食べさせてあげようか」
アルノルトが「林檎と下ろし金を持ってくるよ」と言いながら、もう階段を降りて行く。
「アルノルトにも助かるねえ。いい兄妹だわ。誰に似たのかしら」
後ろで見ていたブルクハルトとカリーナが顔を見合わせて笑った。
「ま、アルノルトは誰よりも妹思いだな」
そう言ったエルハルトのお腹が鳴った。
「あら私ったら。まだご飯の支度をしていなかったわ」
カリーナは慌ててアルノルトを追って出て行った。
「食器並べるくらいは手伝うよ」とエルハルトもそれを追うように出ていった。
カリーナは台所で林檎を手にうろうろしているアルノルトを見付け声をかけた。
「下ろし金ならここよ。その棚の奥」
「ああ。あったよ」
「その林檎を貸して」
カリーナはその林檎を素早い包丁さばきで4つに切って、皮を剥いていった。林檎を受け取るとアルノルトはそれを下ろし金で全速力を上げて下ろし、小鉢に流し入れた。
「そんなに慌てることないのよ。下ろし金で怪我しちゃうわよ」
苦笑いするカリーナにアルノルトが言う。
「大丈夫だよ。ほらあと二つ」
「ハイハイ」
アルノルトがアフラの部屋へ戻る頃には指を嘗めていた。
「林檎摺下ろしてきたよ」
サビーネは恭しく受け取りながら「ありがとうよアルノルト。おや手をどうしたんだい」
「なんでもないよ」
サビーネは目で判ってると言わんばかりに「そうかそうか」と頷いた。そしてサビーネは摺下ろした林檎をスプーンで掬った。そしてアフラの口を開けてやって、口の中へと流し込んだ。
「僕もやる」とマリウスがせがんだ。
「マリウスもやるかい?」
「うん!」
「でもまだこの一口分を呑み込んでからだよ。そうしたらもう一口呑ませておくれ」
そう言ってサビーネがマリウスにスプーンを渡した。
マリウスはアフラの口を睨んで、呑み込むのを待った。しかしアフラはなかなか呑み込まなかった。
「呑み込まないねえ」
「じゃあこうして喉を摩ってやるといいよ」
マリウスがアフラの喉元をしばらく摩ってやると、アフラはごくりと呑み込む動作をした。
「呑み込んだ! お姉ちゃん呑み込んだよ」
サビーネが頷きながら言う。
「そうかいそうかい。じゃあもうもう一口だ」
「うん!」
マリウスはスプーンで摺った林檎を一さじ掬い、アフラの口元へ持って行った。
「はい。おねえちゃん。あーん」
アフラは口を閉じたままなので、マリウスはアフラの鼻をつまんだ。するとアフラは苦しそうにした。
ブルクハルトは慌てて言った。
「何をするんだマリウス」
アフラは口を開けて息を始め、そこにマリウスはさじをねじこんだ。
アルノルトが窘めるように言った。
「マリウス。お前、アフラに食べさせる時、今までこうやってたのか」
「そうだよ。こうしないとなかなか口を開けてくれないの。ボク考えたんだ。お兄ちゃんもやってみる?」
頭を抱えるようなそぶりをしたアルノルトは、とりあえず首を振った。
「呆れた。オレは兄貴と食卓を手伝うとするか」
アルノルトはそう言って部屋を後にした。
「おねえちゃん。もう一口食べる? 早く呑み込まないと食べれないよ」
マリウスはまた喉元を摩ってやり、アフラが呑み込むのを目を凝らして待った。
「ブルクハルトもやっておくといいよ」
「ああ。そうだな。今日は珍しく家にいるからな」
マリウスは木のさじを渡して誇らしく言った。
「はいお父さん。鼻をつまむんだよ」
「それよりこうだな」
そう言ってブルクハルトはアフラの体を起こし、上を向かせてから下あごを押し下げた。
「マリウス、アフラの口を押さえておいてくれるか」
「うん。こう?」
「ちゃんと口が開くだろう?」
「ホントだ。さっきはちっとも開かなかったのに」
そうしてブルクハルトは一さじ林檎を掬い、少しずつアフラに食べさせてやるのだった。




