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来訪者

 

 薄青い空が渓谷の高原を薄明るく照らし始めていた。

 エルハルトとアルノルトは羊を連れて、いつもより早くに家を出た。今日は氷河のある高山まで行って、氷を取ってくる予定だった。羊達の首には大小の籠がぶら下がっていた。エルハルトが氷を運ぶために付けたものだった。中には獅子の紋が入った籠もあった。

 しばらく登って尾根に出たところでアルプスの眺望が広がっている。エルハルトは山に対峙して、天気を見た。


「兄さん。今日の天気はどうだい?」


「今日は途中から雨になるかも知れないな」


「それはダメだよ。いくら兄貴でもダメだ」


「山の天気じゃあしょうがないだろう」


「昨日村の氷を使ってしまったから、氷を取らずに帰るわけにはいかないよ。朝にはアフラの熱もぶり返していたしね」


「判ってる。少し下れば夏の山小屋があるだろう。雨が降ったら今日はそこに雨宿りしよう。泊まってもいいくらいの仕度もあるしな」


「それはいいけど、薬を届けてくれるエドフィーユさんの道も悪くなる。そしたら薬も遅くなるよ。今日ばかりは兄さんの天気も外れることを願うよ」


「少し急ごう。降る前に出来るだけ進んでおくんだ」


 二人は足を早めて、山を登った。

 急き立てられた羊達は、もっと落ち着いて草を食べさせろとばかりに頻りに啼いては二人に抗議した。

 遠くの峰の向こうからは、次第に厚い雲が流れて来ていた。


 ブルクハルトは昨日の心労で太陽が高く上がっても寝込んでいた。カリーナもまた連日の疲れが出たのか、朝の用事が済むとアフラのベッドの傍の腰掛けでうつらうつらしている。そこへマリウスが木桶を持って言った。


「僕、また川の水を汲んでくるよ」


「私も行くわ。その方が早いでしょう」


「お母さんはちゃんと部屋で休んでいてよ。看病は僕一人でも大丈夫だから」


「マリウスは偉くなったわ。じゃあ頼んだわね」


 マリウスは家から坂を少し下ったところのある川で水を汲んだ。バケツに半分の水を入れ、両手に持ってバランスを取る。昨日苦労して編み出した持ち方だった。

 水を汲んで家に戻ると、それを大樽に入れた。そして木桶にその水を汲み、アフラの部屋へ冷たい水を届けに行った。


「お姉ちゃんに冷たい水だよ」


 部屋の中ではカリーナはアフラの隣でベッドに凭れかけて眠っていた。マリウスは起こさないようにそっと入ってその水におしぼりを浸し、アフラの額に当てて囁いた。

(どうだ。おねえちゃん。冷たいだろう)

 アフラの額に氷嚢を乗せ、マリウスは再び水を取りに行った。川から水を汲む時、今度は水をさっきより増やしてみた。力を振り絞ってようやく持ち上がるも、こぼさないように坂を登って運ぶのは大変だった。バケツの水を揺らさないように顔を真っ赤にして坂を上がって行くと、途中でその場にしゃがみ込んでしまった。少し休憩してからふと林の中を見ると、木の陰から顔を出している緑の服の狩人がいた。その背丈はアフラくらいだろうか。小さな狩人はどうやら家の方を覗いているようだった。少し離れたところには馬車が隠して止めてあり、御者が所帯無げにうろうろしていた。

 マリウスはその狩人の足下へ座ったまま膝で歩いて行って言った。


「何してんの?」


 驚いて振り向いた狩人の視界には、マリウスのことが目に入らず。狩人はキョロキョロしている。少し草陰に入ると狩人の緑の服は木々の緑に溶け込んで見え難くなる。


「お兄ちゃん、怪しい人だ」


 狩人は再び驚いて振り向き、ようやく足下で座り込んでいたマリウスを見付けた。


「お兄ちゃんじゃない。怪しい者でもない。私は狩人だ」


 良く見ると狩人の年は若く、その声はまだ子供のようだ。


「じゃあ何してんの?」


「狩人は狩りをする。そういうものだろう」


「僕の家で狩りをしたらお父さんに怒られるよ」


「お主、この家の子供であったか」


 狩人は急に改まって、マリウスの前に立て膝を付いた。


「ひとつ訪ねたい。この家に病気で臥せっている人はいるか」


「いるよ。お父さんもお母さんも今は疲れて寝てるんだ」


「そうか。でもその……重くて寝ている娘がいるだろう?」


「重い……これ重いんだ。持って」


 マリウスは狩人に持っていた二つのバケツを渡した。持ってみると華奢な狩人はその重さに蹌踉めいた。


「重い!」


「重いでしょう?」


「この重いではない! 病気が重い子がいるだろう?」


「持ってきたら教えてあげる」


 マリウスはそう言って、一人歩き出した。

 狩人は狼狽しつつ、バケツを持ったまま追いかけた。

 従者はそれを見て、慌てて追いかけてくる。


「何処へ行かれるんですか?」


「良い。ここで待っててくれ」


 狩人は蹌踉めき、水を零しながらマリウスを追った。


「こぼしちゃダメだよ。狩人さん」


「しかしこう重くてはね」


 這々の体で家の前まで着いた狩人のバケツを覗き込むと、水は半分くらいしかない。


「こんなんじゃ全然足りないよ。もう一回行かなきゃ」


 マリウスは無邪気な天使の笑みを浮かべた。


「私は下働きはせぬ。行かぬぞ」


「なら僕も教えない」


 そう言ってそっぽを向いて、マリウスはバケツの水を大樽へと注ぎ込んだ。


「取引というわけか」


「そうだよ」


「いいだろう。だが長居は出来ぬ。先に聞かせてくれ」


「お兄ちゃんは貴族?」


「私は……狩人だと言っただろう」


「下働きしないで、馬車に乗って、狩りをするのは貴族くらいだ」


「ふむ。なかなか目の付け所がいい。だが貴族と言うには少し違うな」


「本当?」


「わたしは病人が心配なだけだ。医者を連れてくることも出来る。だから教えて欲しい。ここに病気の娘がいるんだな?」


「狩人さんはお医者さん?」


「医者ではないが……まあ、名医を知っている」


「じゃあ世界で一番のお医者さんを連れて来てくれる?」


「容易いことだ」


「お姉ちゃんは普通のお医者さんには判らない病気だっておばあちゃんが言ってた。ちゃんと判るお医者さんを呼んで来てよ」


「そうなのか。わかった。お姉ちゃんか。その子のところに誰かお見舞いに来たかい?」


「何回も馬車が来たよ」


「そうか。私もお見舞いをしたいのだがいいか?」


「お姉ちゃんの知り合い?」


「まあそうだな」


「じゃあ、その水を運んでくれたらいいよ」


 マリウスは狩人を二階のアフラの部屋まで案内した。木桶に先程の川の水を入れ、運ぶのは狩人だ。部屋に入るとそこにはアフラは寝息を立てて眠っている。最近は窓からの風を当てるために布団も掛けていなかった。狩人は床に置いた木桶を抱えつつ、しばらくアフラの寝顔をただ見ていた。


「まるで眠り姫だな」


「お姉ちゃんは高熱でずっと寝てる。もしかしたらこのままずっと眠ったままになるかもしれない。そういう病なんだって」


 マリウスは言ってから思わず涙を零した。そしてアフラの額からおしぼりを取って狩人に渡した。


「せっかくだから、おしぼりをその水に漬けて替えてあげてよ」


 狩人は持っていた桶を脇机に置いて、冷たい水に布巾を浸し、絞ってからアフラの額に置いた。

 手に触れたアフラの額の温度は驚くほどに高い。見たことも無いような高熱だった。

 狩人は帽子を取り、しばし瞑目して跪いた。


「あんなに跳ねっ返りだったのにな……」


 そう言って狩人は踵を返した。マリウスは慌てて見送りに出る。


「ありがとう坊や」


 狩人は馬車のある林の中へ歩いて行った。馬車からは御者と鋭い目をした貴族が出てきて狩人を迎えた。


「ねえ! もう一回水を汲みに行くって言ったのは!」


 狩人は笑って手で会釈を返すだけで振り向きもせず、繁みの中へ入って行った。

 その姿を追いかけてマリウスは叫んだ。


「お医者さん呼んできてくれるっていうのはー?」


 そこへブルクハルトが庭に出て来てマリウスに声を掛けた。


「大きな声上げてどうしたんだ?」


 マリウスは馬車を指差した。

 狩人は馬車の中へ入り、御者に言って馬車を発した。

 狩人は馬車の窓から一度顔を出し、去って行った。


「あれは誰だ?」


「ウソツキの狩人だよ」


 ブルクハルトは不審げに馬車を見送った。

 


「おかあさーん!」


 家に駆け込んで来たマリウスはカリーナを呼んだ。

 居間で寝ていたカリーナはその声に目を覚まして言った。


「あらいけない。マリウス。どうしたの?」


 マリウスは部屋に駆け込んできて言った。


「お母さん。変な人が来たよ」


 カリーナは目を擦りながら立ち上がった。


「お客様? じゃあ行かなきゃね」


「もう馬車に乗って行っちゃったよ。水を一回しか運んでくれなかったの」


「水汲みを手伝ってくれたのね。それは良かったじゃない。近所の人かしら」


「狩人だって。全身緑で変ちくりんでウソツキなんだ」


「そんなこと言っちゃ駄目よ。手伝ってくれた人を悪く言うものじゃないわ」


 ブルクハルトが続いて部屋へ入ってきた。


「アフラの具合はどうだ」


「あらあなた。今日はお休みかしら」


「ああ。そうだな。教会の騒ぎも一段落したし、少しはアフラを見ていられそうだ」


 そう言ってブルクハルトはアフラの部屋へ行き、アフラを見た。アフラの様子は昨日より顔色が悪くなっていた。


「さっきはマリウスの声で起こされたよ。しかし、あれは誰なんだ……」


「誰だろう?」


 マリウスも首を捻った。


「あなたも会ったの?」


「遠目に見ただけだが、どうやら貴族のようだった」


「貴族じゃないって言ってたけど、あれは絶対貴族だよ」


「何を話していたんだ?」


「それが変なんだ。病気のお姉ちゃんはいるかって言うの」


「それは確かに変だな……」


「世界一のお医者様を連れてきてくれるって言ったんだ。ウソツキだから本当かどうか判らないけど……」


「もし本当なら親切な人もいるものね」


 カリーナはそう言って、アフラの氷嚢を取って氷を詰めた。


「今は藁でも縋りたい気持ちよ。世界一のお医者様が来てくれたらアフラも治るかも知れないわ」


 カリーナは思い当たる何かに想いを託すように胸で手を合わせた。

 ブルクハルトはアフラの額に手を当てながら言った。


「そうだな。前にも親切なシスターの医者がいたしな」


 これにはカリーナは黙って肯くより無かった。

 マリウスもアフラの額に手を当てて言った。


「お姉ちゃんの熱、また熱くなってきたね」


「そうね。今日もアフラを扇いであげなきゃ」


 カリーナはシーツを両手で広げてアフラを扇ぎ始めた。


「どうしてシーツでお姉ちゃんを扇ぐの?」


「こうすると涼しいでしょ。熱が下がるのよ」


 マリウスは昏々と眠るアフラに言った。


「涼しい? お姉ちゃん?」


 マリウスはアフラの口元に耳を傾けて言った。


「うんうん。涼しいって言ってるよ」


 ブルクハルトとカリーナは思わず微笑んだ。


「マリウスったら」


「僕もやる!」


「じゃあこっちを持って」


 カリーナはマリウスにシーツの端を持たせた。


「上げて」とカリーナがシーツを持ち上げると、マリウスも「上げてー」と遅れて続く。それを見てカリーナは「下げて」とシーツを下げ、マリウスが「下げてー」とそれに習う。シーツは空気を孕んで大きく膨らんで周囲に涼やかな風が起こった。


「わあ。いい風」


「いい風でしょう?」


「お姉ちゃん涼しい?」


 マリウスの扇ぐタイミングはなかなか合わなかったが、カリーナが加減してアフラへ向かう風は程良いくらいに送られた。

 しばらく扇いでいると、マリウスはすぐに疲れてしまった。


「もう疲れたよ。あとどれくらい扇いでたらお姉ちゃんは治るの?」


「そうねえ。目が覚めるまでね」


「ええ! そんなこと言ったら昨日からお姉ちゃん目が覚めてないよ?」


 それを聞いて愕然としたのはブルクハルトだった。


「そうなのか!」


「そうだよ。僕がどれだけ話しかけても、何にも返事が無いんだ。ねえどうして?」


「どうしてかな? きっと起きたくない夢でも見てるのかな?」


「風邪なら寝ていれば治るのに……こんなに寝てて少しも良くならないんだよ。どうしてなの?」


 カリーナは言葉も見付からず、涙をこらえて「そうね」と呟くだけだった。

 ブルクハルトはそれを見かねて立ち上がった。


「アフラ! 起きてくれ! アフラ!」


 ブルクハルトはアフラの体を揺すった。

 しかし、アフラは一向に反応を示さなかった。


「何てこった……こんなことって……」


 ブルクハルトは愕然としてアフラを抱きしめた。


「俺は一体何をしていたんだ……村を守ると言っても自分の娘一人守れないのか!」


「あなた……」


「儂はどうすればいい……どうすればいいというのだ」


「じきに山からの薬が届くわよ。ヴィルからの薬が……今はそれを待つしかないわ。それを信じましょう」


「ああ。こんな時でも儂等は天から恵まれてるなあ。いち早く病気を診てくれるサビーネ母さんがいてくれて、そして山にはヴィルがいる」


「ええ。そうね」


「僕もね」とマリウスが胸を叩いた。ブルクハルトはアフラを右手で抱え直すと、マリウスを左手に抱いて頬を付けた。


「ああ。そうだな。マリウスも、母さんもいる。エルハルトやアルノルトもな」


 三人はそう言って頷き合った。



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