花飾りの聖女
家の手伝いをしていたアフラは、母のカリーナに買い物を頼まれた。
それはビュルグレン村の中では買えないものがあったので、村の越境禁止を一時許してもらい、アルトドルフ広場の青空市場までやって来た。
買い物を済ませ、買い物籠にたくさんのものを詰めて歩く帰り道、少しだけ遠回りをして、山がよく見える川沿いの道を辿った。今日は兄達が峠からクヌフウタを連れて帰って来る。もしかしたら、ここから見えるかもしれないと思う一心だった。
村へ入る分かれ道に来ても、アフラは立ち止まってしばらく山を見ていた。峠への山道を目で辿っていくと、木々の間から道を下って来る馬と羊の列が見えた。馬上にいるクヌフウタと、背の高いエルハルトの姿だけは遠目にも判った。
「ヤッホー!」
アフラは大きな声で叫んだ。
羊を先導していたエルハルトはそれに気が付いて、前を行くアルノルトへ声を掛けた。
「あれはアフラだ」
「本当だ!」
アルノルトはアフラへ応答の叫びを発した。
「ヨオッホホー!」
「ヤッホー!」
アフラは再び叫んで大きく手を振る。
「あれはアフラか? どうしてここに?」
アフラがいる場所はその道を曲がればビュルグレン村に入るという場所、ブルクハルトはまあ許容範囲だろうと笑った。
背を向けて馬に乗るクヌフウタにはアフラの姿は見えにくかったが、首を捻って粒ほどに小さなその姿を捉えると、長い腕を振ってそれに応えた。
アフラからは遠目にもそのクヌフウタの花の冠を被る姿は見え、とても優美だった。そして今や回復して元気そうに見えた。
「クヌフウタさんが、元気に村に下りてくる! ワーイ! ワーイ!」
その姿にアフラは両手を上げて大喜びした。
アフラの声は通るので、周囲にまる聞こえだった。
「なんというバカでかい声を……。近所迷惑だな……」
その付近から山の麓にかけては家が多くある。この声はそこにも聞こえてるはずだ。
アフラは尚も叫んだ。
「そこへ行ってもいいー?」
ブルクハルトはダメだと手でバッテンを作った。
アフラはそれがあまり見えず、さらに言った。
「行ってもいーいー?」
ブルクハルトはさらに大きく手を上げてバッテンを作った。
「行ってもいーいー? ったら、いーいー!」
アフラはそれが見えなかったことにして、さらに大きな声でそう叫ぶ。
「ダメだー!」
ブルクハルトは叫んで返したが、アフラはさらに言った。
「行ってもいーいー! ったらいーいったらいーい!」
その騒がしさは、近所の家から何の騒ぎかと人が出て来る程だった。
ブルクハルトはそのあまりの見苦しさに根負けした。
「ああ、いい! もう叫ぶな!」
アフラはそれは聞こえて「やった!」と叫ぶや、窓を開けて驚く周囲の人々に「おさわがせしました」と頭を下げ、山道へと駆けて行った。
アッティングハウゼン城の横を抜け、山道を上って行くと、すぐにブルクハルトが引き、クヌフウタを乗せた馬と鉢合わせた。
「アフラ! どうしてここにいる!」
「買い物のお手伝いしてたのよ? 今、来ていいって言ったし……」
「声がでか過ぎて近所迷惑だから、仕方なくだな……」
と、ブルクハルトが言うのもアフラは素通りし、クヌフウタの横に来て飛び跳ねた。
「クヌフウタさんいらっしゃい! 花飾りがステキ! 綺麗!」
「これはセネカに貰ったのよ。アフラは元気でいいわね。それに足が速いわ。あんなに小さく見えていたのに」
「近道を走って来たもの。クヌフウタさんも元気そうで良かった」
「ええ、皆さんのお陰です。それときっとエドフィーユさんのおかげね。特製スープを作ってくれて、おまじないをしてくれたの」
「え! おまじない? じゃあこの花も?」
「ええ。そうね。セネカのお花も悪いものから護ってくれるそうよ。一つあげる」
そう言ってクヌフウタは花の腕輪を一つアフラに渡した。
「わあ。ありがとう!」
アフラは自分の腕にそれを巻き、手を上げてそれを馬を引くアルノルトに見せた。
「見て見て兄さん。腕輪。似合う?」
「ああ、良かったな。ちゃんとクヌフウタさんの弟子に見えるぞ」
後ろの馬車に乗るアッティングハウゼンがその言葉に驚いて言った。
「アフラは聖女様の弟子なのか!」
「ええ! しばらくエンゲルベルクで薬草の事やいろいろ教わったんです」
「それは驚いた。もうウーリに教え子が育っていたか!」
「何度も命を救ってもらったし、クヌフウタさんは命の恩人なんです!」
「ほう。医療の腕も噂以上なようだ」
「それはもう! いろんなお医者様にかかりましたけど、一番信頼出来ますから」
クヌフウタはほのかな苦笑いで言った。
「アフラ、あまり持ち上げないで下さい。聖女認定されてしまいそうですから……」
「そういえばさっきアッティングハウゼンさん、聖女様って……」
アルノルトが言った。
「アフラがそう言って回ったから、誤解させてるみたいだぞ」
「私? アインジーデルン修道院でそう言われたと言っただけよ?」
「噂はどんどん膨らむんだ。本人の知らないところで話を膨らませ過ぎだ」
「でも、本当の事だもの」
アッティングハウゼンは笑った。
「嘘でないなら結構じゃないか。どの聖者も始めは少数の人から認められつつ広がって行くもんだ。うちの家内のベルタなどは会わないうちからもう聖女様と信じ込んでおったがの。そうだ、この先、少しうちの城へ寄ってくれ。家内に言っておかんとな」
「判ったよ」
山道はアッティングハウゼン城の近くへ通じている。アルノルトは馬の速度を上げ、列を先行してアッティングハウゼンを山際に建つ古城まで送った。
「着いたよ」
「ありがとう。少しここで待っていてくれ」
アッティングハウゼンは一旦城へ入り、愛妻のベルタを連れて来た。
「少し手伝って。男手がいるの」
ベルタはアルノルトを台所に連れて行き、大きな寸胴の鍋を示した。
「これを持って行きたいの。聖女様の歓迎のお料理。皆の分の料理は大変だったのよ。熱いから気を付けて」
アルノルトはアッティングハウゼンと二人でまだ熱いその鍋を持ち上げ、おそるおそる馬車まで持って行った。そして毛布を押し分けて、馬車の隙間に乗せ込んだ。
「ちょうどいい馬車ね。ここに載せて持って行ってね」
ベルタは馬車に大きな鍋の他にもさらに幾つかの料理を載せた。
「これは、ちょっとしたパーティーだね。でもアッティングハウゼンさんの乗る場所が無くなっちゃったよ」
「まあ、ベルタも行くし、自分の馬車を出すさ。盛大に歓迎会をしなくてはな」
アッティングハウゼンは自前の小さな二人乗りの馬車を出して来て、それを何故か赤い馬車の後ろに結んで繋げた。
「あれ? これで行くんですか?」
「まあこれでいいじゃろう。馬を出していると置いて行かれる」
後方の馬車にアッティングハウゼンとベルタが乗り、二両連結となった馬車を注意しつつ、アルノルトは静かに馬を出した。
進むには問題無いようだが、大きくUターンするのはかなり難しかった。
建物を周回して道に戻ると、そこは長い羊の列の真ん中だった。
「いい匂いがする」
羊の傍を歩くヘロンがスープの匂いに寄って来た。
「ちょっと割り込ませてね」
アルノルトはそう言って、羊の列の中に馬車を入れた。ヘロンはその間、羊を止めてくれた。
そして一行は長い行列となってビュルグレン村まで歩いた。
先頭の馬はブルクハルトが引き、その馬に乗る花飾りを着けたクヌフウタはすれ違う人々の目を惹いた。
人々は何の隊列かと驚きつつ道を譲り、人の多い広場では沿道に人集りが出来た。
少し後方のアルノルトの馬車も山盛りの花を積み、その後ろには連結された馬車があり、そこにアッティングハウゼン夫妻もいたので、それは何か特別な祭りの行列のように見えた。
「綺麗ね。何のお祭りかしら?」
「夏至の祭りだったら明日だけど……」
村人達はそう言って行列を沿道で囲み、それを見ていた。
周辺には小さな子供達もいて、そこにはソフィアとポリーの姿もあった。
行列にアフラがいるのを見付け、ポリーが言った。
「あ! アフラ」
「アフラだ!」
「春の乙女の行列?」
「これは何のお祭り?」
口々に子供達に聞かれ、アフラは言った。
「これはねえ、異国から来たシスターをお迎えしているの」
「異国のシスター? 花飾りが綺麗ね」
「花飾りをしてるのは春の乙女の交代? もう春が終わるから?」
「そうね。春の乙女はもうお役御免ね。初夏は何になるのかしら? 五月は確かマリア様?」
アフラがそう答えると、子供達はやはりお祭りと思ったようで、連れ立って行列に加わった。
子供達が行列に加わると、その親を始め、その行列に追随して来る人が続出した。
サビーネも出て来てアルノルトに聞いた。
「これは何の騒ぎだい?」
「ああ、お婆ちゃん。クヌフウタさんが来ただけで何故かもう大騒ぎだ」
後ろの馬車に乗るベルタが言った。
「聖女様の歓迎会をするのよ。ご一緒にどうぞ」
隣でアッティングハウゼンも頷いた。
「ああ、サビーネも来るといい」
「では、喜んで。あの人は……前に来ていたシスターだね!」
サビーネは家に一旦帰り、幾つかの果物を持って列に加わった。そして周囲を歩くお婆ちゃん仲間にもパーティー用の食べ物があれば持って来てと言っている。
アルノルトは広場の隅にモランを見付け、馬上から手を振って言った。
「モラン! いい商売だよ! 大パーティーになりそうだから家まで来て!」
「おお! そうみたいだな。こうしてはいられない」
モランは早々に店を畳み、幌馬車に売り物を積んで、ロバでそれを牽いてその列に加わった。
そうして次第に長くなった人の列は、村総出でシュッペル家に押し掛ける形となった。
何も知らず家から出て来たカリーナは目を回すほどに驚いた。
「一体どうしたんですか、この人集りは……」
その隣ではマリウスも「すごい人……」と驚いている。
「カリーナや。こんなに人が随いて来てしまった。これからクヌフウタさんの歓迎会をするんだが、こんなに家には入れないな……」
「まあまあ。じゃあ、テラスを使ってもらいましょうか」
広めのテラスにはテーブルと丸太の椅子があるが、ほんの六人分しかない。しかし立食形式にすれば牧場も広くあって何とかなりそうだ。
アフラはカリーナに駆け寄って、買い物篭を渡した。
「これ、頼まれてた買い物ね」
「アフラったら、なかなか帰って来ないと思ったら……。間に合わないわ……」
カリーナは今から料理しなければならないので呆れ顔だ。
そして、クヌフウタはブルクハルトとエルハルトの丁重な介助で馬の輿から下りた。
アフラはそこへ駆け寄った。
「クヌフウタさん、ウーリへようこそ! ペルシタさんも!」
アフラは小さく礼を取り、飛び跳ねて拍手をした。すると村人達も釣られて拍手をして賓客を迎えた。
「ありがとう」
クヌフウタは首に掛けていた花の輪を取って、アフラの首に掛けた。
その仕草も何か儀式的で、村人からのさらなる拍手が沸いた。
クヌフウタは村人を振り返り、礼を取って言った。
「ウーリの皆さん、ご歓迎をありがとうございます。私はクヌフウタと申します。遠い異国の地、ボヘミアから参りました」
「遠い所からようこそ!」
村人の拍手はなかなか鳴り止まなかった。
ブルクハルトは玄関の一段高いところに立って言った。
「では皆の者、せっかく集まってくれた事だ。これからシスタークヌフウタの歓迎会をしたいと思う。これからになるが、向こうのテラスの方でパーティーの用意をしよう」
「おお!」
集まった人々は歓喜の声を上げ、さらに大きな拍手をした。
アルノルトはブルクハルトの隣に立って言った。
「飲み物はモランに店ごと持って来てもらったんだ。けど、売り物だから、有料だよ?」
すると、馬車の上からアッティングハウゼンから声が掛かった。
「それは儂が出そう。歓迎の宴じゃ。皆、大いに飲んでくれ! ベルタの料理もあるぞ」
「おお!」
「さすがはアッティングハウゼンさんだ!」
「有り難えことだ!」
村人はさらに大きな拍手をアッティングハウゼンに送った。
クヌフウタとペルシタはブルクハルトの案内で、一度客間に通されて休憩を取った。
そこからシュッペル家の一同は大忙しだった。
アルノルトはクヌフウタの荷物を運び、その後には馬で運んで来た鍋をエルハルトと一緒に台所に運んだ。
その隣にはベルタがいて、もう一度鍋を温め直した。
アフラとマリウスは、何故かソフィアの指揮により、テラスにテーブルを調え、テーブルクロスを掛け、その上に器を並べた。
そこに持ち寄りの食べ物をサビーネ達お婆さんグループが並べてくれた。
その一角にはモランがワインやビールを持って来て、ワインバーコーナーを広げ始めた。
台所ではカリーナが料理の仕上げを急ぎ、出来た端からエルハルトは食卓へと持って行く。
「いい匂いだ」
村人達は匂いに釣られてテラスに集まり、そこで早々にモランからワインを貰うと、もう勝手にパーティーが始まってしまった。
テラスだけでは到底入りきらず、人々は庭や道にまで溢れ出ていた。
テラスから入ってすぐの居間では、ブルクハルトによって縦に長くテーブルが寄せられ、その頭端には早々とアッティングハウゼンが座り、好々爺の笑みを見せている。そのテーブルにテーブルクロスを掛けたエルハルトとアルノルトは、準備が出来次第、料理を並べた。
まだ食事が整わないが、状況を見てアッティングハウゼンが言った。
「外ではもう始まっておる。料理は後にして、取り敢えず乾杯をしようじゃないか。一度集まってくれ」
一度全員が居間に集まり、客間にいたクヌフウタもそこへ入って来ると、窓が解放されて続くテラスにいる村人も、少し静かになってその様子を伺っていた。
「では、聖女様、本日は遙々ウーリに下りて来ていただき、誠にありがとうございます」
「いえ……そんな……聖女は持ち上げ過ぎで、今は一介のシスターですから……」
「いえいえ、シスターながらに遠邦の姫君とのことですし、最高の賓客ですから、聖女と言うに十分です。この家の子も病を診て貰って、命を助けられたようですし」
「私も診て貰った」
「私もお腹痛治った」
そんな声がテラスにいた子供達から聞こえた。いつか診察していた時の子供がそこにいた。
アッティングハウゼンが驚いた顔になって言った。
「もう既にそんなに恩寵をいただいていたか。このように大恩ある聖女様をここにお迎えする事が出来て、とても嬉しい。我ら一同、心から歓迎を致します。皆の者、今日は盛大に歓迎の祝いをしてくれ。乾杯じゃ!」
「乾杯!」
人々はグラスを上げ、そして隣とグラスを合わせた。
牛飼いのペーテルとカルバンや、羊を戻し終えたアンドレアスとヘロンも居間に来ていて、グラスを合わせている。
クヌフウタはワインは飲まず、ペルシタが作った黄金色の水を持って来ていて、グラスに取っていた。
「それは、何ですかな?」とブルクハルトがクヌフウタに聞いた。
「ハーブ水を作ってみたのです。よろしければ皆さんもどうぞ」
そしてペルシタは大きな瓶に入ったそれを、周囲に配って歩いた。
あまりワインを飲まないマリウスやアフラは、率先してそれをもらった。
「これ、美味しい」
アフラはそれを飲んでほっぺに手を当てた。
「きれいだ」とマリウスもグラスを見上げている。
ハーブ水は光に透かすと見たことも無い黄金色で、とても綺麗だった。
そのマリウスの掲げるグラスを取り上げ、アルノルトも少し飲んでみた。
「おいしい。これは子供達にはいいね」
「僕より先に飲んだー!」
マリウスはむくれてグラスを取り返し、すぐ一口飲んで「ほんとだ!」と叫んだ。
ペルシタは微笑んだ。
「良かった。そう思って多めに作ったんです」
「外の子達にもあげていいですか?」
「もちろん」
ペルシタは瓶を持って、アルノルトとテラスへ出た。
それを見たクヌフウタとエルハルト、そしてアフラも後からそれを追った。
ペルシタはクヌフウタと並んでそこにいたポリーやソフィア、子供達数人にハーブ水を配った。
「私達で作ったハーブ水ですよ」
「おいしそう!」
ハーブ水はやはり子供達には人気だった。
時々クヌフウタは握手を求められるが、手を怪我しているのでそれは断らざるを得なかった。
アルノルトはモランのいる近くへ来て言った。
「ローマに一緒に行くシスターって、この人達だよ」
「この人がそうなのか……飛び切りの美人じゃないか!」
モランは顔を紅潮させ、帽子を取って立ち上がった。
その後に来たエルハルトはクヌフウタ達にモランを紹介した。
「クヌフウタさん。紹介しましょう。この人がローマへ連れて行ってくれる行商人のモランさんです」
「この方が……。道中よろしくお願いします」
モランは手を差し出して言った。
「こちらこそ。この私、このモランが! 全てを賭けてローマへとお送り致しましょう」
「気概のある方ですのね」
しかし、クヌフウタは手を怪我しているので握り返すことはせず、代わりにペルシタがその手を握った。
「私、ペルシタと申します。何事も私をお通しになって」
「ペルシタさん……おお…よろしくお願いします」
モランの意気は一気に沈んだ。
クヌフウタはそれに人懐っこい笑みを見せつつ言った。
「聞けばシチリアのお生まれだとか。お里はサレルノにはお近いのです?」
「近いですよ。ほぼ隣町ですね」
「何ということでしょう! 私、サレルノへも行きたいと願っていたのです。そこへ連れて行っていただくことも出来るのでしょうか?」
「お安い御用ですとも」
「おお神様……」
クヌフウタのその感激振りに、モランはもう一度逆の手を差し出すが、「お世話になります」と、その手は再びペルシタが握った。
そんな握手の前に、大瓶はアルノルトに託されていた。
アルノルトはモランのワインバーコーナーに立って言った。
「これはこちらの聖女様の作ったハーブ水だ。体にもいいよ。欲しい人はここから自分で取ってね」
大瓶をテーブルに置くと、大人も子供もそこへ殺到し、たちまち人の列が出来て、取り合うようにそれをグラスに注いだ。
「聖女の水なら御利益ありそう!」
「俺にもくれ!」
「喧嘩しないようにね」
幾人か注いだ所でハーブ水はあっと言う間に底を突いてしまった。
「もう無い?」
「もっと無いの?」
と村人は近くのモランに要求して来るが、それはモランには判らない。
「アルノルト、もうこの水は無いのかい?」
近くにいたアルノルトは空の大瓶を振って言った。
「ペルシタさん、まだ有ります?」
「じゃあ、また作って来ましょう」と、ペルシタは大瓶を持ってハーブ水を作りに行った。
そこへアフラも一緒について行き、水の汲み場を案内しつつ、ペルシタが作るのを見ていた。
「ハーブを混ぜて、こうしてお水に浸けておくのね」
「そうです。水だとしばらく時間が掛かりますけどね」
「蜂蜜も入れます? ありますよ?」
「そうね。入れてみようかしら?」
二人はまだ薄いままのハーブ水に蜂蜜を入れ、そのまま部屋へと持って行った。そして台所付近のテーブルにそれを置いた。
「これはまだです。しっかり出るまで、まだしばらく待ってね」
アフラは周囲にそう言って席に戻った。
「早く飲みたいな……」
「色がきれい!」
マリウスとポリーはそう言って飲みたそうにハーブ水を見ていた。
そして、マリウスはアフラの目を盗んでそれをグラスに注ぎ、一口飲んでみた。
「今度は甘くておいしい!」
「私も私も!」
出来上がらないうちにハーブ水は大きく量を減らし、アフラはマリウスに怒った。
「コラ! マリウス! まだだって言ったでしょう!」
「どうして僕だけ?」
「じゃあ飲んでない?」
「飲んだけど……」
「ほらやっぱり!」
そうしている間に料理も揃い、ベルタが作って持ってきた料理が振る舞われた。
「牛のビール煮よ。召し上がれ」
その手の掛かかった郷土料理に、クヌフウタも一口食べて「美味しいです」と讃辞を送り、アフラやマリウスもその味を絶賛した。
ベルタは「長い時間煮た甲斐があったわ」と笑った。
鍋料理は数に限りがあったため、テーブルにいる人だけに配られ、外の人にはカリーナの作ったローストビーフが振る舞われた。テラス側には持ち寄られた食べ物が既にふんだんにあって、一品遅れて到着した格好だ。
「これは美味い!」
「美味しいです、シュッペルさん」
村人にはこちらも大絶賛で、ワインも手伝って、思わぬご馳走に沸いた。
ペルシタがハーブ水の様子を見て、そろそろいい頃だと言うと、アフラは外の子供達にそれを伝え、再びハーブ水は人気を博した。
モランのワインバーでもワインとビールが飛ぶように出て行き、最後には売り切れてしまい、嬉しい悲鳴を上げた。
そうして日が沈むまで、その歓迎のパーティーは続いたのだった。
人々は解散し、シュッペル家は夜になってようやく落ち着きを取り戻した。
料理を片付けると、一同はそれからもこれからの話をした。
アッティングハウゼンはクヌフウタに聞いた。
「傷が治るのに、どれくらいかかるものでしょうな?」
「この様子だと一週間くらいでしょうか。傷の様子を見て、抜糸……傷を結んだ髪を解きます。髪はアルノルトさんに結んでもらったんですよ。もしかすると命の恩人かもしれません」
「そうでしたか。アルノルト、それはよくやったのう」
アルノルトは心から良かったというように胸をなで下ろし、笑った。
「聖ラザロの医者が家の犬にやっていたのをその通り真似したんだ。しっかり見ていて良かったです」
「よくやったよ……」
と、隣にいるエルハルトがアルノルトの肩を叩いた。
続いてブルクハルトも「よくやった」と褒めて、言葉を続けた。
「怪我が治るまでは我が家ででゆっくり養生して下さい。その後にはローマへ?」
「ええ。怪我が治り次第出発したいと思います」
ブルクハルトはローマへ行く手筈を整えていたエルハルトを振り返った。
エルハルトがクヌフウタに言った。
「傷の処置後にすぐに旅に出るには余裕がありませんし、十日後をローマへ出発の予定日としましょうか?」
「そうですね……でも一週間でいいですよ。抜糸……髪を解くのさえ済めば傷も落ち着きますから。あまり長くお世話になり過ぎてご迷惑をお掛けしてもいけませんし」
「そうですか。じゃあ一週間が経って、次の日あたりを出発予定日としましょうか。モランさんに伝えておかないといけませんし」
「はい! とてもいい人そうでしたね。安心しました」
「ええ。気さくないい人なんですよ」
「サレルノにも送って下さるとの事でしたし、私の医学校へ行く夢が叶いそうです」
「夢ですか……もう立派に医者をしているのに?」
「私なんてまだまだです。施療院で薬草医学を学んだだけですから。少し前は、サレルノの医学校で学んだ人だけが本当の医者と言われていたんです。今でもその威光は健在ですからね」
「なるほど。医者も厳しい世界なんですね」
「厳しいです。そうそう立ち止まってはいられません」
ブルクハルトが微笑みつつ言った。
「前に進む元気が出て来たようですな。良い事です。ローマ聖庁へも行かれるんですか?」
「はい。アッシジで修道院長の指名をいただいた後、教皇様にも就任の承認をいただくんです」
「そうですか。じゃあ、その時一緒にエルハルトも教皇様に謁見を願って、我々の親書を届けられると言うわけですな」
「一緒に謁見ですか。それは用向きが違えば当然別になると思いますよ?」
「ん? 話が違うぞ。じゃあエルハルト達は教皇様に謁見出来ますかのう」
「大きな修道院の紹介状があれば大丈夫かと思います。アインジーデルンの修道院長にお願いしてみるといいのではないでしょうか」
「アインジーデルンですか!」
「ええ。一度一緒にご歓談いただいて、エルハルトさんにもひどく感心されていましたから。ヘンリッヒ修道院長は教皇様と昵懇だそうですし」
「そうですか! そんな方法もありましたか。早速手紙を出してみましょう」
アッティングハウゼンはブルクハルトに聞いた。
「その親書には何を書くつもりだ?」
「当然、あの事ですよ」
「あの事?」
「シュウィーツと、隣国の秘密の事です」
「おお、そうか、その事か。しかし、それは隣国に承認をもらわねばな」
「明日直接行って来ようと思っている。しかし二国あるし……」
エルハルトが言った。
「シュウィーツへは俺に行かせてくれないか。シュタウファッハさんにも話したい事があるし、お見舞いしたい人もいるんだ」
「そうか。それは助かるが……まあ任せてみるか。あいつと話すと絶対長くなるからな」
「ありがとう。じゃあ明日行って来よう。羊はアルノルトに任した」
「僕? 判った。アンドレアスさんと、ヘロンさんもいるしね」
まだ居間の隅にいたアンドレアスとヘロンはそれに頷いた。
「任せてくれ」
そうして歓談はお開きとなり、アッティングハウゼン夫妻はアルノルトの馬に自前の馬車を牽かせて帰って行った。
クヌフウタとペルシタには客間があてがわれ、そこに可搬型のベッドが運び込まれた。
カリーナがベッドに厚手の羊毛の蒲団を敷き、その脇にはエルハルトが衝立を持って来て、落ち着ける寝室が出来た。
エルハルトはそれらの配置を終えて言った。
「いかがですか? 何か他に足りない物はありますか?」
「いいえ。過ごし易くて十分過ぎる程です。ありがとうございます。もし足りないとすれば……」
クヌフウタは首に掛けた小さなロザリオを外し、暖炉の上の置物に掛け、蝋燭の燭台をその隣に置く。それだけでちょっとした祭壇が出来た。
クヌフウタはしばし十字を切って祈った。
「やっぱりシスターですね。でもせっかくだから、祭壇には違う十字架を持ってきましょう」
エルハルトは大きなロザリオを出して来て、その置物に掛けた。
「これは、とてもいいロザリオですね。いいんですか?」
「これも叔母の形見の品です。クヌフウタさんに祈ってもらえれば本望でしょう」
「そうですか……。では、有難く」
アフラとマリウスはその部屋に何を手伝うでもなくずっと一緒にいて、借りているドイツ語の聖書を読んでいた。
「すごい絵だ」とマリウスは挿絵を見てばかりいる。
「クヌフウタさん、この字が判らないんです」
「これは『恩寵』ですね」
「恩寵ってこう書くんですね。どう言う意味ですか?」
「そうね、神様からの恩恵という事かしら」
「恩恵……エックハルト先生も言ってた言葉ですね」
「そうね。確かに仰っていたかしら?」
「でもはっきり意味が判らなくて。例えばどんなことを言うんですか?」
「例えば、そうね、赤ちゃんを授かることを意味したり、あとは種を撒いて、春に花が咲くことや、その実が生って種や作物が取れることもそうね」
「わかりました。神様からの授かり物ですね」
「そうです。ひとつ、いいものをあげましょうか」
クヌフウタは荷物からサルビアの種を取り出した。
「これはサルビアの種です。どんな色の花が咲くかは植えて花が咲かなければ判りません。これも恩寵というものです。これをあげますから、どこかに撒いて育ててみて下さい。もう植える時期を過ぎつつありますから、急いでね」
「わあ、ありがとう。セイジなら飲めますね」
「セイジも万能薬なのよ。風邪やお腹下し、怪我にもいいわ。ビネガー漬けにすれば感染症にだって効くの」
アフラは種の入った袋を受け取り、幾つか取り出してみて、しっかり育ててみると誓うのだった。
そんなところへカリーナがやって来て言った。
「クヌフウタさん、お風呂が用意出来ましたよ」
「お風呂ですか……私は怪我が開くといけませんので……」
「少し血や泥に汚れていますよ。美人が台無しです」
「そうでした」
クヌフウタはペルシタと一緒に風呂に入り、ペルシタは怪我に注意してクヌフウタの体の血や泥を注いだ。
久しぶりに体の隅々まで清潔になり、身も心も落ち着ける、そんな暖かな夜は更けていくのだった。




