お姫様の戯れ
朝霧が棚引き、雲の厚い朝は日が高くなっても暗い。寝坊をしたアルノルトは慌てて牧舎へ駆けつけた。エルハルトは既に起きて牧舎を掃除していた。
「兄さんごめん。寝坊したよ」
「まあ昨日は遅かったしな。それに今日は天気も悪そうだから放牧は牧場内で済ますつもりだ」
「天気に救われた。またどやされるかと思ったよ。起き駆けにしか見てこなかったけど、アフラの様子はどうだろう」
「昨日エドフィーユさんから貰って来た薬草が少し効いたみたいだって母さんが言ってた」
「それは良かった」
「でも母さん、あれじゃまともに寝れてないな」
「そうだね……」
「薬が間に合えばいいが……」
「間に合うさ。きっと………掃除手伝うよ」
「当然」
掃除も終わりに近付いた頃、雨が降ってきた。その雨の中、遠くから馬車の音がした。降り出した雨を見ていた下働きのペーテルとカルバンは、その馬車の立派さに驚いて「何処の貴族だ?」「さあ?」と話し合った。
馬車は牧舎を通り過ぎ、シュッペル家の前に止まった。びしょ濡れのレオナルドが勢い良くそこから降りて来て馬車のドアを開けた。
「雨が降り始めましたので、足下にお気を付け下さい」
馬車から飛び降りてきたのはユッテだった。
「キャア。濡れるわ」
ユッテは牛舎の中へと駆け込んで言った。
「牛よ。牛が一杯いるわ」
そう言って走り回るユッテに、馬車の中からイサベラが言った。
「勝手に入ってはいけないんじゃないかしら?」
牛舎の中にはペーテルとカルバンがいて、こちらを見てポカンと口を開けていた。
「ご機嫌よう」とユッテが挨拶する。
ペーテルはにこやかに頷いてから聞いた。
「おめえどっから来たんだ?」
「湖からよ」
「どこかの貴族の子だろう。こんなところに来てもいいのか?」
「あら、見学は歓迎だって言われたのよ」
ユッテは至って強気だ。
「それは、まあ……。でもそれは自由民でないとなあ」
「私たちだって自由だもの。自由民だわ」
「なら、まあ……」
ペーテルはカルバンと顔を見合わせた。
「いや! さすがに拙いだろ。ちゃんと向こうの家に言って許可を貰ってからにしてくれ」
カルバンがそう言うのを聞かずに、ユッテは「あっ羊!」と走り出した。
「ちょっと待て!」
カルバンがユッテを追いかけて手を伸ばすと、御者のレオナルドが駆けて来てその腕を掴んだ。
「何だあんたは」
「ご無礼は許さない!」
さらに腕を強く握られたカルバンだったが、そのままレオナルドの腕を捻り返し言った。いつも力仕事をしている腕っ節は強く、一回り太い。
「そういう態度で来るなら、出て行って貰おうか! ここは自治州なんでな」
レオナルドはカルバンに腕を捻り上げられ、牛舎から引きずり出されて行く。
「いてて。判った。判った。出て行く、しかしお嬢様をお連れしなければ! な? そうだろう。それが先だろう」
カルバンは頭で方向を指すように踏ん反り返って見せてから、レオナルドの腕を持ち直し、後手に返して、牛舎への中と反転した。
そうしている間、ユッテは隣接する羊小屋に辿り着き、羊達の柵を覗き込んだ。
「ふーん。あっ、あなたミルヒ?」
ユッテは子羊を抱きしめようとして柵に入ったが、子羊逹は何匹も居て、ユッテの手から逃げ惑った。子羊は逃げ足が速く、なかなか追いつけない。
「こんなにいると見分けが付かないわ。ミルヒー。ミルヒどこ?」
そんなユッテのお尻にぶつかった子羊がいた。
「まあ、あなたミルヒね」
返事をするようにミルヒは啼いた。
「何の騒ぎだ」
近くを掃除していたアルノルトがしきりに羊の声のする方を覗き込むと、そこにはユッテがいた。
「あれ? どうしてここにいるんだ?」
言いながらアルノルトは羊の柵を開けてその中へ入って行く。
ユッテはアルノルトに気が付いて言った。
「あら、お兄さん。ご機嫌よう。ちょうど良かったわ。ミルヒはこの子? 見分けが付かないの」
「ミルヒ!」
アルノルトは強めに呼ぶ。すると子羊は啼いた。
「ミルヒだ。合ってる」
「合ってる? 良かった! やっぱり覚えていてくれたのね、私のミルちゃん」
そう言いながらユッテはミルヒを抱き締める。
「勝手に私のにしないでくれよ」
「判ってるわ。皆の羊でしょう? でも皆のなら私のでもあるわ」
「そう来たか。もう誓いを忘れたとは言わないだろうな」
「今だけ。わざわざ遠くから会いに来たんだから、今だけは私のにさせておいて!」
アルノルトは頭を掻いて言った。
「わざわざミルヒに会いに?」
「そうよ。それとアフラのお見舞いに来たの」
ユッテはミルヒの両頬を撫で回した。
「お遊びついででアフラのお見舞いは止めて欲しいな。それにアフラはずっと寝てるよ。お見舞いは無理だ」
ユッテは少し顔色を変えた。
「それははいけないわね。少し顔を見るだけでいいの」
アルノルトは何か言おうとしたが、ユッテはアフラと同じ年のまだ子供だと思い、言うのを止めた。
「ここで君に話しても仕方無い。一人で来たんじゃないね。君の保護者はどこだい?」
「保護者って失礼しちゃう。護衛騎士とイサベラもいるわ。遠慮してまだ馬車にいるみたい」
アルノルトが外を見ると、家の前に見覚えのある馬車が止まっていた。
そこへレオナルドと後で腕を握り上げたカルバンがやって来て、羊と戯れるユッテをようやくの事で見つけた。
「ユッテ様、帰りましょう」
レオナルドは帰るよう説得した。ユッテはそれを「嫌よ」と一言で拒否した。レオナルドが何をどう言っても「嫌」の一点張りだった。大の大人がこうも小さな子に振り回されるのは、見ていて可哀想になる程だった。
そこへエルハルトも気が付いてやって来た。
「何の騒ぎだ? 見物客じゃないのかい?」
レオナルドの手を離して、カルバンがエルハルトに言った。
「勝手に入って来た上に脅して来たんだ」
「騒動起こすんならお引き取り願うしかないな」
「まあお姫様の戯れだ。すぐ飽きると思うよ」
アルノルトはそこをエルハルトとカルバンに任せ、牛舎の入り口へと歩いた。小降りになった雨の中を走り、馬車を覗くと、馬車の中にいたのは果たしてイサベラだった。
「あらお兄さん。こんにちは」
「君達は何故来た?」
アルノルトの語気が強い。イサベラはその声音に気がつかない振りをして、努めて笑顔で言った。
「アフラさんのお見舞いに来たの。お加減は如何かしら?」
「アフラは……高熱でずっと眠ってる。眠り病なんだ」
イサベラはその事に驚いて言った。
「眠り病?」
「ずっと……眠ったままになるかもしれない病だ」
「診てくれた人の話ではそんなこと言って無かったわ」
「やっぱり! 医者を送ってくれたのは君だったんだね」
「ええ私、それとユッテ様ね。ユッテ様は一緒にここに来たのよ」
「そうだったのか。でも、これは医者も知らない山の病気だ……。ほぼ一日中眠ってるんだ」
「そんな!」
イサベラは目に涙を浮かべて言った。
「そんなに重い病気だったなんて……」
「ありがとう。アフラは今、君達に貰った果物だけを摺り下ろして食べている。看病もシスター先生の言った通りにしている。それには礼を言うよ」
「そんな……」
「でもアフラは今は会えない。それに、この村で君達の家はとても迷惑なんだ。だからもう、こんな馬車でここには来ないで欲しい」
「お兄さん! 知っているの?」
「イサベラお嬢さん。僕は……君とちゃんと話しをしたから、人となりを知っているよ。だからこそこうして話しも出来る。でも村人はそう思わない。うちの父もそうだ。前の騒ぎは見たろう? 村人からおかしな目で見られてしまうんだ」
「……判ったわ。今日は帰ります」
「判ってくれて良かった」
「でも、一つお願いがあります」
「お願い?」
「アフラさんの容態が回復したら、ここにお手紙をと伝えて欲しいの」
イサベラは紙に住所を書き始めた。
「判ったよ。伝えておく」
書き上がったメモをアルノルトが受け取った時、イサベラの手はその紙を離さなかった。
「もう一つ。聞かせてくれたら帰ります」
「……何なりとも」
「あなたのお名前は?」
アルノルトは戸惑った。もう来ないと言ったのに、名前を聞いてどうすると言うのだろう。
「アルノルトだ」
「洗礼名は?」
「コンラート」
「助言者の意味ね」
メモを静かに離して、イサベラは微笑んだ。
「いいお名前ね」
アルノルトは褒められたようには思えず、かなり苦い顔になっていた。
「私からも手紙を送れるわ」
「僕に? 止めてくれよ。ここで王家の名前はかなりダメなんだ」
アルノルトは大きく手を振って拒否を示した。
「誰と話してるんだ?」
その時、エルハルトが馬車へやって来た。ユッテとレオナルドを連行するカルバンとペーテルもやって来た。
アルノルトは振り返り、「例の獅子の籠の主」と答えた。
エルハルトは馬車とイサベラの様相を見て、その高貴さに驚いて言った。
「ハプスブルクか!」
エルハルトがそう言うと、ユッテとレオナルドを連行してきた下働き達が言った。
「ハプスブルクだって?」
「お前等何をしに来た! 村の品定めに来たのか!」
カルバンに凄まれてレオナルドは手を振った。
「いや、違う! 見学と、お見舞いだ」
「出て行け!」
「何よ。さっきは見学していいって言ったじゃない」
ユッテはお冠だったが、ペーテルは首を振って「出てけ」の一言だ。
レオナルドとユッテは追い立てられるように馬車に乗った。
「馬車を出します!」
レオナルドがそう叫んだ。イサベラはフルーツの入った篭を取り、アルノルトに渡そうとした。
「これは、お見舞いに……」
その時、レオナルドは急いで馬車を出した。
「あっ」
篭はその勢いで手から零れ、地面に落ちた。
「二度と来るな! ハプスブルク!」
下働き達は走り去る馬車の背に石を投げ、そう言い放った。
それでもイサベラは馬車の窓から顔を出し、アルノルトの姿を探した。アルノルトが篭を取り上げて男達を止めているのを見て、イサベラの胸は喜びに溢れた。そして同時に痛みに変わった。それは想うことさえ許されない恋の萌芽だと、イサベラはまだ気が付かなかった。




