眠りの森
——十二年前のこと
ヴィルヘルムはドルイデの里にやって来た。
それを見たヴァリス人達は特に騒がなかった。何故ならヴィルヘルムはツルハシを持ったヴァリス人の友人を連れていたから山向こうの峠を開削しているヴァリス人のように思えたし、捕まえた野ウサギを山ほど持って親しげに笑っていたから新参の仲間のように思えたのだ。
ヴァリス人の友人はイェルクと言い、ザンクト・ゴットハルト峠の開削をしていた奴隷だったのを、ヴィルヘルムが雇い直して自由人とし、工事完了の後にこの村を頼って来たのだ。
ザンクト・ゴットハルト峠の峡谷は昔、足場が足先程しかないような最も険しい崖道だったが、そこはローマとドイツを繋ぐ最短ルートとなり、物資運搬のためにそこを馬が通れるよう開削工事が長年進められ、次第に道が拡張されていた。
ザンクト・ゴットハルト峠は北側はウーリ州、南側はウルゼレン州に跨り、それぞれの州で工事をしていた。険しい谷山の中のウルゼレンは工事のために連れてこられたヴァリス人達の州で、そうしたヴァリス人の作った橋は『悪魔の橋』と呼ばれた。悪魔の名を冠するのはあまりに深く険しい峡谷の様相と、事故で死ぬ人が後を絶たないせいもあったが、暗にヴァリス人への蔑称も含んでいたかもしれない。ウーリ側の工事にはヴァリス人の奴隷が多くいたこともあり、ウルゼレンとの合同工事となると、ヴァリス人ばかりが工事をしているということが多くあった。
峠は五十年も前に一応の開通をしていたが、馬車が通るにはまだ拡張工事が必要で、近年になっても切り立った断崖絶壁に打ち付けた吊り橋の再工事をし、それは今にも谷底の急流に落ちそうな岩壁での危険な作業だった。そんな場所だから工事は命懸けで、報酬も普通より遥かに多かった。
そんな中、ウーリから監督補佐として来ていたヴィルヘルムは、工事の最中、足元の岩が崩れて崖から落ちた。崖から飛び出た小さな岩に必死で捕まるヴィルヘルムを見つけたヴァリス人のイェルクはロープを伝って崖を下りて行き、自身のロープをヴィルヘルムに結び付けた。上のヴァリス人達は合図と共に二人を引き上げ、ヴィルヘルムは危ないところを助けられた。
「命を助けられた。君は命の恩人だよ」
ヴィルヘルムはイェルクの手を握って感謝した。
「当然のことをしただけさ。岩を掴めずに落ちた仲間も沢山いる。君は運がいい」
二人はそれから知己のように話すようになり、ヴィルヘルムは他のヴァリス人達とも打ち解けるようになった。
恩義を感じたヴィルヘルムは、工事から得る資金を元に、奴隷のヴァリス人を自由人にして、南側のウルゼレンに住めるよう働きかけた。ヴァリス人にとってそれは工事の完成よりも大きな壮事だった。
自由人となったヴァリス人は行く場所も少なく、多くは開拓者として山の中に住むことになり、ウルゼレン周辺の山にはヴァリスの山里が出来ていった。
イェルクもそうして自由人となったが、工事が一通りの完成を見るまではヴィルヘルムと仕事を共にした。工事が所定の完成を見ると、ヴィルヘルムは村へ帰ることになり、身寄りの無いイェルクは親戚のいる眠りの森のドルイデの里を頼ったのだった。
村の言葉と山奥の言葉は大きく違っていた。始めイェルクとヴィルヘルムはヴァリスの山里の人と半分も言葉が通じず、片言や身振り手振りで話合った。イェルクはドルイデのところへ案内して欲しいと言った。ドルイデは眠ったままだと里の人々が言っても、二人は状況が呑み込めないので、里人は実際にドルイデの家へ二人を連れて行った。
眠りのドルイデはその名の通り、眠ったままの病だった。体を少し起こして寝ているその姿は綺麗に着飾っていて、まるで居眠りでもしているかのようにとても安らかだった。その傍らでドルイデの看病をしていたのは、うら若いエドフィーユと、小さな妹のエルフィンだった。エドフィーユは玉を転がすような声で言った。
「ようこそドルイデの里へ。せっかく来ていただいたのですが、ドルイデは二年前から眠ったままで、目を覚ましません。ドルイデの代わりは兄のアロワがしています」
麓の言葉でそう言って、エドフィーユはドルイデに一さじ流動食を口に含ませた。流動食は隣の小さなエルフィンが山葡萄を噛んでさっき吐き出したものだ。エルフィンは食べる仕草をして、ドルイデに何かを言っている。しばらくすると、ドルイデはそれを一気に呑み込んだ。
「おお、呑み込んだ。眠っているのに……」
「こうして時間を掛ければ食べてくれるから、母は眠ったままでも生きていけるの」
そう言って悲しく微笑むエドフィーユを、ヴィルヘルムは森の宝玉を見るように美しいと思った。
エドフィーユは、兄のアロワを紹介してくれた。村を束ねるにはまだ若いアロワだったが、とても利発な青年で、エドフィーユの通訳でイェルクと親戚を交えて面談をすると、笑顔でイェルクと握手をした。
「ようこそ。歓迎します」
エドフィーユはアロワの言葉をそう通訳して伝えた。
こうしてイェルクは晴れて里の住人として認められた。
イェルクは親戚の家を増築して住み、その軒に小さな工房を構えた。
そして手製の弓を造り、里人に売り始めた。
それはヴィルヘルムが持ち歩いている特別な弓で、金属製の弓に木の留め具を取り付け、矢をそこに乗せて射るクロスボウというものだった。
その制作に協力したヴィルヘルムはイェルクの工房の前で一役買って、みんなの前でそのクロスボウを撃つところを披露した。矢をクロスボウに番え、木に描いた的に当てると、次々と真ん中に矢が当たる。動く獲物は駄目だろうと里人が言うので、飛んでいた鷹を狙って引き金を引くと、見事撃ち落としてしまった。里の人達は拍手喝采だった。
人々は我先にクロスボウを手に取り、ヴィルヘルムの真似をして試しに的へ射ってみると、簡単に弓が射てて外れにくい。ヴァリス人の間で、その弓はとても評判になった。皆、狩りが上手くいくならと真似し出し、クロスボウは飛ぶように売れてしまった。
ヴィルヘルムはしばしば山里の友人宅を訪れた。そして、その時にはいつも寄るところがあった。
家の窓いっぱいに咲く花に水をやるエドフィーユに、ヴィルヘルムは窓越しに声を掛けた。
「やあ。ドルイデの調子はどう?」
「いけない人。また来たんですね。村のお方」
「ヴィルと呼んでくれ。今日は村からお土産を持って来た。これはドルイデに」
そう言ってヴィルヘルムは鞄から林檎を取り出した。
「まあ! おいしそう」
そして、もう一つ鞄の奥を探って、下ろし金を取り出した。そして林檎を摺り下ろして見せた。
「それとこの下ろし金だ。こうやって摺り下ろすと色々食べられる」
「まあ! これは便利。ありがとう」
「あとは、君にも」
「私にも? 何かしら」
「うちのお母さんが編んでるショールだ」
エドフィーユはヴィルヘルムの渡したショールを広げて見た。
「まあ! なんて綺麗!」
精巧な手編みのレースにエドフィーユはひどく感激し、ヴィルヘルムの心遣いに感謝するのだった。
そうしてヴィルヘルムは、エドフィーユの部屋の窓によく顔を出すようになり、次第にそこにいる時間が長くなって行った。
そんなある日、ヴィルヘルムは母のサビーネとビュルグレン村の市場へ買い出しに行った。ヴィルヘルムはふと市場の端に花の種を売っている少女を見つけた。エドフィーユへのお土産にと売り子から一袋の種を買っていると、そこへ修道士が率いる騎士の一団が村へ入って来た。
それはシュウィーツの十字軍騎士団で、村人に眠りの森の場所を尋ね回っていた。修道士が話の中で「我々は教皇様の意の下に、眠りの森の魔女を懲らしめるのだ」と言う声がヴィルヘルムにも聞こえた。
ヴィルヘルムは走り出した。「何処へ行くの?」と呼び止めるサビーネの声に振り向く暇も無く、ヴィルヘルムは急いで眠りの森へと走った。しかし、馬の足には敵わず、アルプを登る途中で一団に追い抜かれた。ヴィルヘルムはそれを追うように森の中へ入った。
ドルイデの里は騎士団の乱入で騒然とした。里の人々は為す術も無く捕捉され、門前に引き出された。
「エドフィーユ。母さんを連れて逃げるんだ」
駆け付けた兄のアロワと共に、エドフィーユは眠ったままのドルイデを肩で抱え、妹のエルフィンも連れて森へ逃げた。しかし、馬で村へ入ってきた騎士団は、ドルイデを探して村周辺を一巡りし、やがて逃げるドルイデ一家の姿を見つけた。
「いたぞ!」
やって来た騎士団はドルイデ一家を捕縛し、村の入り口へと引き立てて連れて来た。アロワは騎士達に立ち塞がって抵抗したせいで、盾で散々に殴られた。
「兄さん!」
エルフィンは泣き出した。
騎士の後ろからは黒い修道士達がやって来て、それよりもさらに真っ黒な魔導師のようなフードの付いた長い外套を着た一人が問いかけた。それは悪魔祓いの修道士だった。
「そなた達が異教の魔女だと言うことは判っている。眠りの森のドルイデとは、その者のことだな」
エドフィーユは答えずに修道士達を睨んだ。エルフィンも必死に睨み返した。二人のその目付きは或いは恐ろしい魔女に見えたかもしれない。
「その沈黙は肯定であると受け取って良いな。これより魔女の血族に、悪魔祓いの儀式を始める」
修道士たちは持っていた松明を掲げ、ドルイデとエドフィーユを囲んだ。騎士団はその左右に並び、サーベルを掲げた。
悪魔祓いの修道士がドルイデ一家に何か祈りの様な文言を唱えては、聖水をかける。その周りには里の人も集まって来た。しかし取り囲む騎士達はそれをサーベルで威嚇して近付けなかった。
修道士は松明を手に取り、眠るドルイデにその火を点けんばかりに近付けた。熱風に焚き付けられ、普通の人なら飛び起きる熱さだったが、ドルイデは眠ったままだった。
「おのれ、魔女! こうまでしても眠ったままとは! キリストの名の下に悔い改めよ!」
修道士はそのまま松明の火でドルイデの体を叩いた。
「やめて!」
エドフィーユが火の粉の付いたドルイデの体に覆い被さって叫んだ。
里人達も、口々に嘆きの声を上げたが、サーベルを持つ騎士に威圧された。
「魔女は火の洗礼によって悪魔を追い出し、浄化を得るのだ。これで悔い改めるならば我等とて無理はしまい」
「母は眠ったままよ! 何も答えられないわ!」
「では、お前が答えよ。悔い改めるのだ」
「ここは昔のまま。何も悪いことなんてない! 何も改めることなど無いわ!」
「神と聖霊の御名において、火の洗礼により、悪魔を炙り出し給え」
修道士はエドフィーユにも火を近付けた。
「イヤー!」
エドフィーユは火の熱さに身を避けて逃げ出した。修道士はその火で逃げるエドフィーユの背を叩いた。火の粉が飛んだ。髪の焦げる臭いがした。エドフィーユは叫び声を上げて倒れた。
里の人は色めいて叫び出した。それを騎士達が盾で押し返した。その隙にエルフィンが駈けて来て、修道士の足にしがみついた。
修道士は、小さなエルフィンにも、松明を振り上げた。
「やめてー!」
エドフィーユは叫んだ。
その時、一本の矢が松明の火に突き立った。
驚いて振り向いた修道士の松明にもう一本の矢が立った。松明を見ると、その下にもう一本、矢継ぎ早に矢が突立って来る。それは、信じ難い正確さだった。修道士は辺りを見回して言った。
「誰だ!」
「その火を離せ!」
ヴィルヘルムは森から姿を現した。
「次はその手を狙う! 次はその肩! それとも悪魔の棲む心臓か!」
修道士は凍り付いた。弓手は顔もよく見えないくらいに遠い。なのにこの松明に正確無比な矢を何本も撃ち込んで来た。回りに遮るものは何も無く、それは、逃げ場が何処にも無い事を示していた。
修道士は手のすぐ上に突き出していた矢に指を当ててみて、矢を本物と認めると、思わず松明を離した。
しかし騎士団はサーベルを抜いてヴィルヘルムへ近付いて行く。
「ヴィル! 来ちゃ駄目!」
エドフィーユは泣きながら叫んだ。
ヴィルヘルムはエドフィーユに僅かに頷いた。エドフィーユにはその意味が判った。その目は言っていた。今助けると。しかし、それは同時にヴィルヘルムの命の危険を意味していた。
「来ちゃ駄目!」
ヴィルヘルムは再び目で頷いた。
「武器と火を捨てろ!」
ヴィルヘルムが騎士達へ叫んだ。
しかし騎士はサーベルを捨てず、一人は猛然とヴィルヘルムへと走っていった。ヴィルヘルムのクロスボウが唸った。一矢放った太い鉄の矢は、甲高い音を立てて騎士が着ていた甲冑を貫き、心の臓の辺りを貫いた。騎士は歩みを止める間も無く、朽ち木の如く倒れた。騎士達は呆然として動かなくなった騎士を見つめた。
そこへ、その後ろからクロスボウの束を抱えてやって来たイェルクが、里の男に配り歩いた。クロスボウを受け取った男達は、次々に矢を番え弓を構えた。
それを見た騎士は、多くの弓を抱えるイェルクに迫ってサーベルを振るい、その刹那、クロスボウの洗礼を浴びた。何本もの矢が突き刺さった騎士は大きな鎧の音を立てて倒れ、間もなく事切れた。
武器の強力さを見て、騎士達は為す術が無いことを悟った。
「武器と火を捨てろ!」
再び弓を構えたヴィルヘルムの叫び声で、騎士達はサーベルを捨てた。しかし、修道士達は火を捨てることをためらった。火を消すと何も見えなくなり、逃げることもままならないからだ。一人の修道士は手を上げ、火を掲げたままヴィルヘルムの近くにまで歩いて来た。
「お前は……お前を知っているぞ」
その松明にヴィルヘルムの矢が突き立った。
それを合図に、里人達の下手な矢も飛んで来る。
何本かは松明を掠め、何本かは修道士を掠めた。
「ひっ!」
修道士は思わず火を投げ捨てて、命からがら逃げ出した。
「もういい。撤収だ!」
修道士達と騎士達は一斉にドルイデの里から逃げ出した。
里人はそれを見て大きな声を上げて笑った。そしてみんなで鬨の声を上げた。女達はエドフィーユとドルイデを助け上げ、火の粉を払って、抱き合って泣いた。
「エドフィーユ。大丈夫か」
駈け寄ったヴィルヘルムにエドフィーユは言った。
「ヴィル。あなたを巻き込んでしまったわ。ごめんなさい」
「謝ることは無い。無事ならばそれでいいんだ」
「ありがとう。ヴィル。あなたは命の恩人。里の恩人だわ」
エドフィーユはヴィルヘルムの手を握って言った。見つめ合い頷く二人だったが、里の人達も感謝を示して次々に握手を求めて来、ヴィルヘルムは握手責めになった。
そこへやって来たイェルクを見て、ヴィルヘルムはクロスボウを振り上げて合図を送った。里の男達が喝采の声を上げて同じようにクロスボウを振り上げた。
ビルゲンは力を込めて言った。
「ヴィルヘルムはヴァリス人の中では英雄なんだ。それだけのことをしたんだよ。ヴィルヘルムは、その後にも復讐に来た騎士達を何度も撃退したそうだよ。そして、その後、ドルイデの娘を娶って山奥の里に住んでいたんだ。そうしているうちに、あいつにも子供が生まれ、家を構えなければいけなくなった。ヴァリス人達は冬の間、山里で集まって暮らし、春になると麓で狩りをする。そのための家を建てるにはヴァリス人の中でも縄張りがあってな。ヴィルヘルムに残っていたのはヴァリス人の嫌う村の周辺しか残っていなかったそうだ。でもヴィルヘルムには故郷が近くて良かったわけだ。その家を建てる時にヴィルヘルムは道具を借りにここへ来たんだ。それ以来よくここへ獲った獲物を持って作物と交換に来る。あいつは自分で弓を作っていてな。ヴァリス人の中でも狩りが上手いそうだよ。最近は子供も一緒に連れて来ては話し込んで行くよ」
サビーネは目に涙を浮かべながら話を聞いていた。
「そうだったの。それはお世話になったのね」
「まあ、今は持ちつ持たれつだ。いいご馳走を持って来てくれるからね」
「じゃあヴィルヘルムの家はもう近いのね」
「ああ。近いらしい。しかし近いとは言え山の距離だし、儂も行ったことはないから道は良く判らない。その便りからすると、この上辺りの森の入り口にあるのだろう」
「そう言うことね。じゃあ私はこの周辺を探してみるわ」
「管区長が森に入るとヴァリス人も騒ぐ。あいつは連れて行くな」
「判っているわ。置いて行くから上手く言っておいて」
「サビーネ。俺も一緒に探してやろうか」
「二人で一緒に探しても騒がしいだけよ。おばあちゃんが一人なら怪しまれないわ。私一人で行きます」
「そうだな。ヴァリス人に見つかると厄介だからな。静かに行くのがいい。日が傾く頃には戻るんだ。夜の森は危険だからな」
「判ったわ」
「くれぐれも気を付けるんだぞ」
「そうね。ありがとうビルゲン。息子のことも。本当にお世話になったわ」
サビーネは礼を言ってビルゲンの家を出た。
サビーネは水車小屋へは向かわず、小道を登って行った。その先には鬱蒼とした森の入り口が暗い口を開けていて、人の入るのを拒んでいた。サビーネはその入り口で一瞬躊躇したが、足音を潜め、静かにそこへ入って行った。
夕方近くになって、エルハルトとアルノルトが家に帰って来た。出迎えた母のカリーナはとても慌てていて、誰かを待っているようだった。
「母さん。アフラはどうだい?」
アルノルトが気になって聞いてみたが、カリーナからの答えは少し変だった。
「大丈夫よきっと。大丈夫に決まっているわ」
何か異変を感じたアルノルトはアフラの病室に駆け上がった。手には山から取ってきた花を持っていた。
アフラは氷嚢を頭と首に着け、苦しそうにベッドに寝ている。その横でマリウスは林檎を摺り下ろしたものをスプーンで掬ってアフラに食べさせていた。
「マリウス。どうしたんだ?」
マリウスは涙目になって訴えた。
「アル兄ちゃん。お姉ちゃんが目を覚まさないんだ………なかなか呑み込んでくれない。このまま目を覚まさなかったらどうしよう。僕、あの時リンゴを食べさせてあげるんだった。お姉ちゃん、リンゴ食べたいって言ったんだ」
アルノルトは花をアフラに握らせた。
「アフラ。花を取って来てやったぞ。起きろ」
アフラは苦しそうに息をするだけだった。
「起きろアフラ。起きろ!」
肩を揺すってみたが、アフラは一向に目が覚める気配が無い。
「お姉ちゃんは眠り病なんだって。サビーネお婆ちゃんが言ってた」
「眠り病?」
それはアルノルトには聞き覚えのない病気だった。
「眠ったままになるかも知れないんだって」
「そんな馬鹿な……」
アルノルトは悲痛に暮れるばかりだった。
肩を落として部屋を出たアルノルトは、廊下で母とエルハルトが話しているのを聞いた。
「実はね、お父さんはサビーネお婆さんと森へ行ったの」
「どうして森なんかに? ヴァリス人に見付かったら危ないって父さん自身が言っていた事なのに」
「アフラの病気、実は重いの。朝から高熱を出してね、眠ったままで………」
カリーナは頭を抱えた。
「母さん……」
「でもあの森のヴァリス人のところに薬があるらしいの。眠りの森の入り口に行方知れずになった叔父さんが住んでいるらしくてね。その人の家を探しに行ったのよ」
その場所にアルノルトは覚えがあった。そしてジェミの言葉が頭に浮かんだ。『お父さんは元は村の人だしね…』
「僕。その家知ってる!」
部屋へ入ってきたアルノルトがそう言うと、カリーナが駆け寄って来た。
「どうしてお前が知ってるの? サビーネお婆さんでも詳しい場所は知らなかったのに」
「前に羊を探してて少しだけ森に入ったんだ。そうしたらそこに家を見付けた」
「森には入るなって言ったじゃないか!」
エルハルトが怒って言った。
「でも、そこで羊を見たって言う男の子がいてさ。そのお陰でミルヒが見付かったんだよ」
「ヴァリス人の子と会ったの?」
「アフラが話し込んじゃってね。そしたら羊が馬車に連れ去られるのを見たって言うんだ。それにお父さんは元は村の人だって言ってた」
「これは巡り合わせだわ。その子はきっとヴィルヘルムの息子よ。あなた達にはいとこになるのよ」
「いとこがいるなんて………知らなかったよ」
「きっとサビーネお婆さんは今頃その家を探してるわ。教えてあげられると良いのだけれど」
すると、家の外で荷馬車の音が聞こえた。
「お父さんが帰って来たわ」
カリーナが玄関を出ていくのを追って、エルハルトもアルノルトも外へ迎えに出た。
荷馬車にはサビーネお婆さんの姿は無く、ブルクハルト一人が降りて来るだけだった。
「おかえりなさい。お義母さんは?」
「置いて行かれた。ビルゲン爺さんに聞くと、母さんは一人で森に行ったようだ。探しに行こうとしたが、ビルゲン爺さんが村の男が眠りの森へ入るのは危険だから探すのは任せて帰れって言うから、とりあえず帰って来た」
「どうしてすぐに帰って来たの! 年寄りの足じゃ日が落ちるまでに帰って来れないじゃない」
「爺さんに追い返されたんだ。かえって危険なら仕方ないだろう」
これを聞いたアルノルトは空の荷馬車に乗り込んだ。エルハルトもそれに続いて乗り込んで、アルノルトから手綱を受け取った。
「おい待て! 何処へ行くんだ」
「僕らでサビーネ婆さんを迎えに行って来るよ。アルノルトが場所を知ってるんだ。馬車を借りるよ」
エルハルトはそう言って手綱を頭上に振る。
「場所を知っているのか?」
訝しむ父にアルノルトが言った。
「偶然そんな家を見付けたんだ! そこへ行ってお婆さんがいなくても、僕がその家に眠り病の薬を貰って来てくれるように言えばいいんでしょう?」
「いなかった時は山で迷ってるんだ。サビーネ婆さんを探さなきゃいけない」
ブルクハルトは息子達の頼もしさに感動して言った。
「お前達……。頼もしくなったものだ。ちょっと待て」
ブルクハルトは一度家に入ってランプを取って来た。
「もう日が沈む。これを持って行きなさい」
エルハルトがランプを受け取ると、それをそのまま隣のアルノルトに渡した。
「では頼んだぞ」
ブルクハルトの声にエルハルトは頷き、手綱を振って馬車を出した。
夕焼けの色が濃くなって来ていた。森に入る頃には暗くなってしまうだろう。エルハルトは馬を跳ばした。
太陽が山の向こうに落ちて、空が真っ赤に染まった頃、水車小屋に到着した。しかし、水車小屋にも家の中にもビルゲンの姿は無かった。
「いないよ兄さん。もうお婆さんを探しに行ったんだ」
エルハルトは少し考え込んで言った。
「この時間から森へ入るのは危険だぞ。少しここで待つか」
「いや。森へ行こう。このランプがあれば道は大丈夫だよ。森の入り口から家への道は判ってる」
アルノルトが自信を持って言う言葉に、エルハルトは少し勇気付けられた。
「森へ入るのは駄目だと言いたいが、そう言っている場合じゃないな」
夕闇の迫る中、二人は山への道を登り、以前の森の入り口へと着いた。二人は迷わず森へ入って行く。森の奥は既に暗く、アルノルトはランプを灯した。ランプの明るさでは足元しか見えず、一歩一歩をただ進むしかない。
アルノルトの記憶の通りに山道を進んで行くと、紫色の空が開けた。
「着いた! あそこだよ兄さん」
エルハルトはその草地の真ん中に、大きな楢の木があるのを見た。楢の木の上には既に日の落ちた赤紫の空に星が広がっている。
「ここは綺麗な場所だな」
「なんだ兄さん。アフラと同じようなことを言ってる」
「そうか? でも俺にはあの空が高い屋根のように見えるよ。この木が柱になって真ん中を支えている。伝説に世界を幾つも乗せているっていうユグドラシルの世界樹はこういうのを言うんだろうか」
「ユグドラシルの世界樹か。アフラは単純にお花畑だったけど、兄さんは凄いことを考えるね。あっ。そっちには罠があるから気を付けてね。前来た時、足を引っかけて危なかったんだ」
草地の奥には一軒の家があり、明かりが灯っている。二人は足音を潜めて歩いて行き、その家の窓を覗いた。中にはナイフで木を削る男の子の姿が見えた。
二人は頷き合い、アルノルトが家のドアを叩いた。
「どなたですか?」
家の中からそう声がする
「アルノルトと言います」
するとドアが開いて、中から男の子が出て来た。手にナイフを持っていたので、エルハルトはギョッとした。
ジェミは怪訝そうな顔をして言った。
「あなたは羊を探しに来た人………羊は見付かったの?」
「ああ。お陰さまでね。あの時はありがとう」
「ここには来てはいけないと言ったのに。どうしてここへ? ここは秘密だと言ったのに。約束を破ったね」
「大丈夫だ。僕の兄貴さ。今回は人の命が掛かっているんだ。森に入った人を探してる」
「人?」
「僕らのお婆さんだ。森に入ったはずなんだ。ここへは来なかった?」
「来てないと思うよ」
その後ろから女の人の声がした。
「ジェミ? どなた?」
玄関に現れたのは、亜麻色の髪のとても美しい人だった。極彩色を散りばめた民族衣装がとても目を惹く。
「こんにちは。お友達?」
ジェミは少し考えてから頷いた。
「うん」
「そう。こんな時間に珍しいこと」
「アルノルトと言います。こっちは兄さん」
「エルハルトです」
「ジェミの母のエドフィーユです。あなた達は……村の人ね」
エドフィーユが少し困った口調で言うと、エルハルトが少し慌てて言った。
「僕らは大事な用があって村から来た者です。僕らのお婆さんを探しています。こちらへは来ませんでしたか?」
「お婆さん? いいえ。ここへは来ていないわ。村の人はそうそうここへは入って来ないもの」
「来てないんですか……」
エルハルトはアルノルトと目で頷いた。そして森の中を見つめた。お婆さんはもうすっかり暗くなった森の中をまだ探しているのだ。
エルハルトは戸口を覗くように聞いた。
「ヴィルヘルム叔父さんはここにいるんですか?」
「今は狩りに出ているわ。もう少ししたら戻ると思うけど?」
「じゃあここはヴィルヘルム叔父さんの家なんですね?」
「…そう…だけど」
「やっぱり!」
とたんに二人は顔を向き合わせ、肩を叩き合って喜んだ。
エドフィーユは訝しんで言った。
「あなた達はヴィルに何の用? 村の人に告げ口なんかしたら承知しないからね」
凄んでみせるエドフィーユに、エルハルトは笑顔で向き直った。
「ヴィルヘルム叔父さんは僕らの叔父さんなんだ」
「叔父さん?」
「今探しているサビーネ婆さんはヴィルヘルム叔父さんのお母さんで、ヴィルヘルム叔父さんを探しに森へ来たはずなんです」
「まあ! お義母様なの? 話が込み入っているようね。まあ入って。落ち着いてお話をしましょう」
エドフィーユは二人を家の中に招き入れ、森の果実のジュースとクッキーを出した。
ジェミもそれを欲しそうにしていたが、エドフィーユに「あなたは夕食がもうすぐだから駄目」と窘められた。
「これ、おいしいの?」
アルノルトが聞くとジェミは頷いて言った。
「とても貴重でおいしいの」
アルノルトとエルハルトはジュースを一口飲んでみた。森の果実のジュースはとても甘酸っぱく、二人揃って顔が自然と苦い顔になった。
「何が入っているの? 甘酸っぱいね」とアルノルトは苦笑いだ。
二人の顔を見て、ジェミは声を上げて笑った。
「少し酸っぱいんだ。山の野イチゴだよ」
ジェミが言うと、エドフィーユも笑った。
「村の人にはお口に合わなかったかしら?」
エルハルトは少しお世辞を上乗せして言った。
「山ならではの味で、とてもおいしいです」
「それは良かったわ」
そうして、二人は代わる代わるに今までの経緯を話した。
「眠り病の薬?」
「妹はだんだん眠ったままになってしまうんだ。一刻を争うんだ」
「そうだったの………早い段階で薬が効けば、治るかもしれない。あなた達は運がいいわ。私はそのドルイデの娘なのよ」
「ええ!」
ドルイデは魔女だと聞いていた二人は飛び上がって驚いた。
「母の世話をしていたのは私だもの。薬の作り方も知ってるわ」
「本当ですか? じゃあ、ドルイデのところへ行かなくても、すぐ薬が手に入るんですね!」
エルハルトは身を乗り出して言った。
「すぐとはいかないわ。それを作るには………ヴァルサの泉の水と、ツユクサと、コウモリの肝と、洞窟のカビと、ドルイデの血が要るわ。それに少しおまじないが必要なのよ」
エルハルトはその原料に少し魔女めいたものを感じ、恐る恐る聞いてみた。
「おまじないって?」
「ユピテルに治癒を祈るの」
「ユピテルって?」
「里ではジュピターとも言うわね。私たちラエティア人の父なる神よ。村の人からすれば異端の神ね」
エルハルトはアルノルトを庇いつつ、怖々と体を寄せ合って言った。
「じゃあ、あなたも魔女なの?」
「まさか魔女なんて……」
ジェミは母を怖がる二人を笑った。
「ハハハ! 魔女じゃないけど、少し怖い時はあるよ」
エドフィーユは怒って言った。
「ジェミ? もう! どうして村の人は私たちをすぐ魔女呼ばわりするのかしら! 確かに私たちは魔女狩りには遭ったけれども、おまじないをするのが魔女なら、聖水振ったり、十字を切ったりする修道士はどうなの? キリストと縁のない土地でキリストを知らないでいた民は皆、魔女なの? キリストより昔からいたローマの神々は全て悪魔なの? あなた達だけが正しくて他の土地の民は全て悪なの?」
エドフィーユに詰め寄られ、エルハルトは言った。
「それは……違うと思います」
「そうでしょう? なら私達も魔女ではないわ!」
「失礼なことを言ってごめんなさい。もう魔女だなんて言いません。ただ僕らキリスト以外の異端の神は悪魔だって習ってたから」
「いいこと。昔はローマにも神々はたくさんいたわ。昔、ユピテルこそはローマ王家の主神だった。私達は本来のローマ文化を受け継いでいる最後の民なの。後のローマの王が新しく現れたキリストを神とすることを決めたからと言って、今まで護ってくれていた神々を悪魔だなんて、それこそ神々への冒涜じゃない? だいたいキリストを処刑したのもローマの提督じゃない。神様を殺しておいて、そのあとでその神を口実に幾千の神々を無くしてしまおうだなんて、それこそ悪魔の所業じゃない?」
二人の兄弟は返す言葉も見付からなかった。
アルノルトはようやく口を開いて言った。
「じゃあ、ローマは幾千の神々をも消してしまったの?」
「そう。それぞれの民にそれぞれの神がいたの。ラエティアの民はユピテルの血に生まれて、山でずっと生きてきたわ。キリストよりも遙か昔からよ。このあたりにはヘルウェティー族の人もいて、ヘルウェティアという女神とも血で繋がっているわ。この血に伝わる伝統を捨てて悔い改めよなんて言う方がどうかしてる。でも、聖書を教えられてキリストを信じる人は多いわ。こんなご時勢だからヴァリス人でも村に降りて修道院に入る人もいる。それでローマの王はこう思ったのよ。今までの神様よりキリストの方が効果絶大で従順な信者が増えやすい。それにキリスト教を国教にすればそれぞれの民族が神様が違うことで争うことも無くなるわ。領主を信者にしていけば戦わずして領地が増えて、従順な民が増える。従わない領主は異端討伐で攻め取ってしまう。つまりは国境を越えて国々を支配する口実を見つけただけなのよ」
エルハルトはその言葉がよく判った気がして頷いた。
「確かにそんな所はあるよ。今のローマ教皇は王様より偉いんだ」
「そうなの?」
「ローマ教皇からの戴冠が無いと、正式な王になれないんだ。少し前には破門された王もいる。教皇派と皇帝派が対立して一時はみんな困ってしまったんだ。今の王様もローマ教皇からは戴冠されていないから神聖ローマ帝国の正式な皇帝にはなれないんだ」
「今の教皇ってそんなに偉いのね」
「だから皆、バチカンの司祭や修道士の言うことには逆らわないよ」
「修道士から悪魔とか魔女と指差されるだけで、酷い目に遭わされるわけね。あなた達はそれをいいと思うの?」
エルハルトは「思わない」と答えた。
「でも人は道を間違えやすいんだろうと思う。まるで羊の群れのようにちょっと脅かされるとすぐに道を間違えるんだ。だから修道士が羊飼いで、皆はそれに付いて行く。それに反する人は鞭を受ける。それだけの事だよ」
「それが正しくなくても付いていくの?」
「皆が一緒になって行動することが大事な時もある。でも教会の戒律は違う時もあると思うよ。聖書の言葉が最初にありきで、現実を見ない。それに反する人には……厳しすぎる。異端審問裁判をして非道い事もする」
「そうね。私たちは知らずその言葉に反するのでしょうね。そのせいで私は眠ったままの母を抱きかかえて森を逃げ回ったわ。でもそんな時にヴィルが身を挺して私たち家族を助けてくれたの。もう十年以上も前のことね……そのせいで彼はお尋ね者になって村にも帰れなくなってしまったわ。だから………私はヴィルの為なら何でもするのよ。ヴィルの家族の為にも私は何かしてあげなくてはね」
エドフィーユはそう言って穏やかに微笑んだ。エドフィーユが見せた慈愛の笑顔は、教会で見る聖母マリアの笑顔を見るように美しく、エルハルトは胸が熱くなった。
その時、外で犬が鳴く声がした。ジェミは立ち上がり、ドアへと走ると、そのまま外へ飛び出した。
「お帰りなさい! よしよしマッシュ!」
ジェミはセントバーナード犬のマッシュを撫でて戯れた。その体の大きさはジェミと同じくらいに大きい。
エドフィーユも立ち上がり、ドアへ向かった。
「お帰りなさい。今、あなたに特別なお客様が来ているのよ」
表の方で太い声がした。
「誰だい。特別なお客って」
「村の子よ。お義母さまの関係の方」
表に立っていたのは、蓬髪で髭が濃く、骨太な体つきの男だった。衣服はヴァリスの狩人の格好で、背にはクロスボウと獲物の雉を担いでいる。
「君達は?」
碧く燃えるような双眸を揺らし、男は首をかしげると、エルハルトとアルノルトを交互に見つめた。
「ヴィルヘルム叔父さんですね?」
エルハルトは立ち上がって握手を求めた。
「エルハルトと言います、こっちは弟のアルノルト」
「はじめまして。アルノルト・シュッペルです」
兄に続いてアルノルトもヴィルヘルムと握手をする。
「というと、兄貴のとこの息子か!」
「はい! 叔父さんを探してました」
「やはりそうか! 大きくなったものだな。良く訪ねて来てくれた!」
そう言ってヴィルヘルムはエルハルトの背を叩いた。
「兄貴は元気か」
「元気でやってます」
「そうか! でも、どうしてここが判った?」
アルノルトはジェミを見てから言った。
「一度ここでジェミと会ったことがあったんだ」
「ジェミが知らせてくれたか!」
犬と遊んでいたジェミは首を振って言った。
「ううん。僕は少し話をしただけだよ」
「でも、お父さんが元は村の人って言ってたからね。それで判ったよ」
「そうかそうか。それでどうしてこんな時間に訪ねてきたんだ?」
エルハルトは状況を整理するように言った。
「実は僕らの妹が眠り病に罹っていて……お婆さんは、眠り病の薬がドルイデの所にあると聞いて、ヴィルヘルム叔父さんの家を探しに行ったんです。でもなかなか戻って来ないので、僕らはここへサビーネ婆さんを探しに来たんです」
ヴィルヘルムはエドフィーユに振り向いて言った。
「母さんが、今日ここへ来たのか?」
「それがあなた……お義母様は来てないの」
エルハルトは心配そうに言った。
「サビーネ婆さんは、もうずいぶん前に森に入ったんです」
アルノルトはもう気が気で無い風に言った。
「サビーネお婆さんは森の入り口に叔父さんの家があることしか知らないんだ! 今もきっと森の中をあちこち探して迷っているんだ!」
「そうか。手紙でそう書いたんだが、こうなる事態を予想しておくべきだった。この森は幾つも細い道があって迷いやすい。この暗さではもう道も判らないだろう。すぐに探しに行こう」
「僕らも一緒に行きます」
出て行こうとする兄弟達にエドフィーユが言った。
「待って。その前に薬を渡しておくわ」
「薬があるんですか?」
エドフィーユはエルハルトに壁に下がっていた乾燥した花の束を手渡した。
「これはマトリカリアの花。解熱の薬になるわ。葉と花を煎じて飲むの」
「眠り病には効くんですか?」
「熱に効いて症状が楽になるわ。でも本当の薬は時間がかかるの。それまではこれを飲ませてあげて」
「ありがとう」
エドフィーユはヴィルヘルムに言った。
「あなた。私はその間にドルイデの里へ行って来ます。この子達の妹さんにドルイデの薬が必要なの」
「しかし一人で行くのは危険だ」
「私には慣れた道よ。今日は月明かりもあるし、大丈夫。あなたはお義母様を探してあげて」
「そうか。無理はするなよ」
ジェミは二人の方へ犬を押し出して言った。
「マッシュを連れて行くといいよ。マッシュは道に迷わないし、変な人には吠えてくれる」
「それはいいわね。頼りにしてるわ。マッシュ」
エドフィーユに撫でられて、マッシュと呼ばれた犬は何故か悲しそうに鼻を鳴らした。
「こいつ。面倒がってるみたいだ」
「そう言えば、まだ餌をあげてなかったわ」
マッシュの餌を用意しに行くエドフィーユに、ヴィルヘルムが言った。
「先に行っている。山のみんなによろしくな。くれぐれも気をつけて行くんだぞ」
「はい。山の神が共にあらんことを」
「うむ。お前にもな。では、我々は出発しよう」
ヴィルヘルム親子と二人の兄弟は夜の森を歩き出した。
エドフィーユは入り口からそれを見送っていた。
ヴィルヘルム親子は明かりを持たないのに夜の森を平然と歩いていく。
二人の兄弟はその足に付いていくことが出来ず、歩きながらランプを灯し、走って追いついた。
アルノルトは言った。
「こんなに暗いのにどうして平気で歩けるの?」
ヴィルヘルムは空を指して言った。
「あそこだ」
「空?」
「そうだ。月の明かりがある」
「でも月の影は真っ暗だよ」
「星の明かりも少しある」
「そんなの見えるの?」
「慣れれば見えるよ」
アルノルトはランプを隠してみたが、辺りはやはり真っ暗だった。
隣を歩いていたエルハルトが転びそうになり言った。
「無理だ。何も見えないよ! ランプ、ランプ」
アルノルトはその声に慌ててランプを戻した。
その道は道と呼べるものではなく、時に枝を分けながら、木の根を伝いながら進んだ。坂も険しく登ったり下ったりを繰り返している。ヴィルヘルム親子に置いて行かれたら、すぐに迷いそうな道のりだった。
こんな場所を年寄りが通るわけは無いと思ったアルノルトは聞いた。
「何処へ向かっているの?」
ジェミがそれに答えた。
「森の入り口にはもう一つ家があってね。そこへ向かっているんだ」
ヴィルヘルム親子は暗い山の道を猫のように軽く駆けていく。エルハルトは頑丈な長い足でそれに付いて行ったが、アルノルトは山の登り道で遅れ始めた。
「もう疲れたのアルノルト?」
足を落としてやって来たジェミが笑って言う。
アルノルトは息を切らせて言った。
「すごいね。そんな早さでなんで平気なの?」
「山の民はいつもこれより険しい高山を重い荷物を持って歩いているからね。荷物が無いだけ早いさ」
「ヴァリス人って凄いんだね」
「まあお父さんも元は村の人だからね。毎日やっていれば変わるよ」
「じゃあ僕も山に住んでみようかな」
「アルノルトならいつでも歓迎するよ」
しかし、アルノルトは次第にもっと遅れだした。ランプを持っていたのがアルノルトだったので、エルハルトはアルノルトとペースを共にするより無かった。しばらくするとエルハルトはアルノルトのランプを受け取って言った。
「遅いぞ。置いてかれたら迷ってしまうぞ」
「駄目だ。とても追い付けないよ」
「あの子はへっちゃらだぞ」
「流石は山の民だ」
しばらくするとヴィルヘルム親子の足音も遠ざかり、森の中で二人は取り残されてしまった。
「とうとう見えなくなってしまったぞ、アルノルト」
「こっちでいいのかな。道が無くなってて判らないや」
「弱ったな」
するとすぐ横の木の繁みが大きく揺れた。
二人は何か大きな動物かも知れないと思って身構えた。
枝を分けて出てきたのは毛むくじゃらの何かだった。
「うわああ!」
アルノルトは叫んで兄に抱きついた。
「何してる。こっちだ」
それはよく見ると、髭もじゃで蓬髪のヴィルヘルムだった。二人の兄弟は安心して胸を撫で下ろした。
この一度ならず、ヴィルヘルム親子は何度も遅れた二人を探して戻ることになった。登り道を越えて、谷に差し掛かったところで家の明かりが見えた。
「家だ!」
へとへとに疲れたアルノルトは、ゴールを見るような気持ちで言った。ヴィルヘルムは立ち止まってアルノルトを待って言った。
「知り合いの家なんだ。母さんが来ていないか早速聞いてみるとしよう」
丸木造りの家に近付いて行くと、家の中から声が聞こえて来た。
「ヴィルヘルムをどこへ隠したんだい!」
「だからねえ。お母さん。悪いことは言わない。家に帰ることだ。もう暗くなってしまったよ」
「絶対何か隠してる。私はここを一歩も動かないよ!」
「隠してないから。許してくれよ」
エルハルトはアルノルトの顔を覗いて言った。
「あの声はサビーネ婆さんだ!」
「うん!」
道を駈け出したヴィルヘルムは、家のドアを開け中へ入った。
「母さん!」
「ヴィルヘルム! ヴィルヘルムかい!」
サビーネは十二年ぶりの我が子の姿を見て、その変わりように驚いた。以前は殆ど無かった髭が顔の半分を覆っている。体つきは前より肉厚で逞しくなっている。しかし、頷いたその瞳には昔のままの面影があった。
サビーネはヴィルヘルムの前に来て肩を揺らし、その手を取って言った。
「本当にヴィルヘルムなんだね? 無事だったんだね」
「そうだよ母さん。黙っていなくなって済まなかったね。とてもいろんなことがあったんだ」
「知ってる。知ってるよ。ビルゲンさんから聞いた」
「父さんや兄貴は元気かい?」
「ああ。父さんは十年も前に死んだよ。雪崩でね」
「お父さんは雪崩で……もう会えないだなんて……」
サビーネは涙を浮かべて頷いた。
「今ではブルクハルトが継いで、まあ上手くやってる。子供がもう四人もいるよ」
「そうか……兄貴は元気か……」
そこへジェミが駈け込んできた。そしてサビーネと目を合わせ、お辞儀をした。
「この子がおまえの子?」
「そうだ。息子のジェミだ」
サビーネは涙を溢れるのを止めることが出来なかった。それでもこらえて笑顔になって、ジェミの頭を撫でた。
「なんてかわいらしい子。私はお婆ちゃんだよ」
「サビーネお婆ちゃんだね」
「おや。知ってるの?」
「うん。アルノルトがそう言ってたよ」
「アルノルト?」
へばり気味のアルノルトがドアから顔を出した。エルハルトもその後にいた。サビーネは涙も引くほどに驚いた。
「お前達。何故ここにいるの?」
「何故ってお婆ちゃんを探しに来たんだ。前に僕はジェミに会って家を知ってたから、僕らは先にヴィルヘルム叔父さんの家へ行ったんだよ」
「それは何て言う天の計らいだろうね。心配して来てくれたのかい?」
「うん。ここで見つかって良かったよ。この途中で今にも迷いそうだったもの。こんなにすごい道とは思わなかった」
「そうね。山をなめちゃいけないわ」
エルハルトは笑って言い返した。
「それはサビーネ婆さん、まず自分に言ってもらわなきゃ」
「言うようになったわね。この子も」
ヴィルヘルムもこれには笑った。
「でもその通りだよ。母さん。ヴァリスの森へ一人で来るなんて無謀だよ。ここにこのイェルクの家がなければ大変なとこだ」
「知り合いの家だったのね。ヴィルヘルムと同じ弓矢を持っていたから、わたしゃてっきり泥棒か何かだと思って追いかけたのよ。イェルクさんには迷惑をかけたわ。でも……やっぱり隠してたわね」
サビーネに睨まれ、イェルクは少したじろいだ。
「ヴィルは良いところに来てくれたよ。ヴィルヘルムをどこへやったって、凄い剣幕でね。どうしたものかと途方に暮れていたんだ。でも村へ話が漏れたらまた騎士達が大挙してやって来て、ヴィルは騎士に捕まるかも知れない。だから誰であれ隠さなければならなかったのさ。帰ってからも、くれぐれもヴィルのことを言わないでくれよ」
「そうだったのかい。そうとは知らず無礼を言ったわ」
「まあ、それはお互い様ということにしましょう」
「迷惑を掛けたな。イェルク。家の人にもな」
ヴィルヘルムは階段の上を指して言った。そこから小さな女の子が覗いていた。
「いいんだ。ヴィルのお母さんなら本来は歓迎すべきお客様さ。秘密があるとそれが裏目に出てこちらも辛かった。でも、秘密は絶対だ。お前達も秘密だぞ」
イェルクはエルハルト達にも言った。
二人の兄弟は頷いた。
「うん。もちろんだよ」
その間にジェミは階段の上に声を掛けた。
「セネカもこっちにおいでよ」
呼ばれたセネカは素早く上に隠れてしまった。ジェミはそれを追って階段を昇った。
イェルクはそれを目で追って言った。
「女房が死んで以来、セネカは人見知りが激しくてな」
「そうか。お前だってついこの前まで落ち込んでたんだ。無理もあるまい」
「そうだな…」
サビーネはヴィルヘルムのところへ来て改まって言った。
「ヴィルヘルム、ここへ来たのには少し急ぎの用があるの」
「薬の事ならそこの二人から聞いたよ」
「あら。先を越されたねえ」
「もう家内がドルイデの里へ薬を作りに行ったから、あとはそれが届くのを待つのみだ」
「まあ。お前のお嫁さんが?」
「眠り病の薬は彼女のお手製なんだが、よく効くと遠くの山からも引き合いがある。きっとその子にも効くはずだ。何でも、伝統の薬にドルイデの血を入れるらしい。だから行って作って戻って来るには丸五日かかる」
「五日も! 五日で間に合うかどうか……」
「出来次第、急いでブルクハルト兄貴の家に届けるよ。だから今日はもう村へ帰って、そこで待つ方がいい」
「そうだね。あとはその薬を待つしかないね。今日のところはそうさせて貰うよ」
「それがいい。森を出て、ビルゲンさんの家に着くまで案内しよう」
その名前が出た時、アルノルトは叫んだ。
「ああ! ビルゲン爺さんを忘れてた」
サビーネは聞いた。
「ビルゲンさんがどうしたの?」
「来る前にビルゲン爺さんの家に寄ったらいなかったんだ。きっとビルゲン爺さんもお婆さんを探しに森へ行ったんだと思う」
「何だって! もうこんなに夜も更けたというのに」
エルハルトは考えながら言った。
「バラバラに探して道に迷うとまた大変だし、取りあえず帰りながら探すしか無いな……」
ヴィルヘルムはイェルクに言った。
「もし、ビルゲン爺さんがこの場所へ来たら、今日はここに泊めてやってくれないか。世話になった人なんだ」
「判った。こっちでも周辺を探しておくよ」
「恩に着る」
ヴィルヘルムはサビーネを表へ促して玄関を出た。二階にいるジェミを一声呼ぶと、ジェミは走って降りて来て一行に加わった。
二階の窓からはセネカが手を振っていた。ジェミが手を振り返したので、アルノルトも並んで手を振る。セネカは少し笑った。アルノルトはジェミの脇を肘で突いた。
「かわいい子じゃないか」
ジェミははにかんで笑った。
帰りの道はある程度の広さがあって歩き易い。しかし、ヴィルヘルムのペースは今までよりもゆっくりで、とても注意深く歩いている。お婆さんのペースに合わせているからだと、アルノルトは一人納得し、そして安心した。アルノルトも今日はすっかり歩き疲れていた。
そうしてしばらく進んで行くと急に道が広くなり、傍らには沢が流れていた。その途中に差し掛かった時、どこからか声がした。
「おーい。そこの人」
回りを見ても、誰の姿もない。
「こっちだ。こっち!」
木の上を見上げると、そこにはビルゲンが網に掛かってぶら下がっていた。
「ビルゲン爺さん!」
「これはヴィルヘルムか! サビーネもいる! 会えて良かった良かった!」
「そんなとこで何してるんだい。ビルゲンさん」
「何してるって、お前を探してたんじゃないか」
「木にぶら下がってかね」
「いや、罠にかかったんだよ。取り敢えず早くこの縄を解いてくれ」
ヴィルヘルムは短刀を取り出して、吊り下げていた縄を一閃した。そのとたん網は落ちて、ビルゲンは網ごと地面へ転がり落ちた。
「イタタタ。荒っぽいのう。もっと静かに下ろしてくれ」
エルハルトとアルノルトはビルゲンに絡まる網を解きに掛かった。
「大丈夫かいビルゲン爺さん」
サビーネも心配そうに覗き込んだ。
「ビルゲンさん。怪我はない? 無理をしちゃいけないよ」
「お前に言われるとはな。こっちの身にもなってくれよ。心配でおちおち待ってられやしない。しかし、どうしてこんなところに罠があるんだ」
ヴィルヘルムが言った。
「猪用の罠だ。餌に手を出すとこうなる」
「芋が地面に立ってたら誰でも気になるじゃろう」
「僕らが通らなかったら朝までずっと網に絡まっているところだったよ。運が良かったね」
アルノルトはそう言いながらビルゲンの足に絡まった網を解いた。ビルゲンはそれでようやく立ち上がることが出来た。
「なんともはや不幸中の幸いだな。イテテ。腰が痛い」
「大丈夫? 歩ける?」
そう聞くサビーネに腰を擦ってビルゲンは言った。
「いやなに。これは持病じゃ」
心配顔をしていたサビーネの目がふやけた。
「なぁんだ」
それを聞いて皆が笑った。
「心配したわ。ビルゲンさんがあたしのせいで森に迷ったなんて言われたら、皆に顔向けが出来ないからね」
「心配はお互い様だよ。しかし眠りの森は危険だのう。森に入って帰らない人がいるわけだ」
ヴィルヘルムは言った。
「これでも安全になった方さ。普通ヴァリス人だったらただでは村人を助けないからな。俺が見つけて良かったよ」
一同は頷き合い、山を下った。
森の出口はそこからもう程なくだった。一行がビルゲンの家に着くと、エルハルトとアルノルトで荷馬車を取りに行った。
ヴィルヘルムは母に別れを告げた。
「じゃあ母さん。ここで見送るよ。薬は必ず届ける。もう無理に森に入って来たりしたらいけないよ」
「ヴィルヘルム。お前の家を見たかったよ」
「あの家と殆ど同じさ。あのイェルクと一緒に作ったんだ」
「お前のお嫁さんも一目見たかったね」
「そうか。美人で驚くよ。なあ」
ジェミは笑って頷いた。
「ジェミに会えただけでも十分良かったわね」
サビーネはそう言ってジェミを撫でた。
「僕もお婆さんと会えて良かったよ。アルノルトとも仲良くなれたしね」
「そう。それは良かった。じゃあアルノルトに会いに来る?」
「いいの?」
「村人が森へ行けないなら、今度、皆で家に来るといいわ。ヴァリス人にも里帰りくらいあるんでしょう?」
ヴィルヘルムはゆっくりと首を振った。
「追っ手が嗅ぎつけるかもしれない」
「もう十二年も経っているんだ。もう誰もあの事件のことなんて気にしちゃあいないよ。シュウィーツの騎士がウーリに来ることもそうは無い。それにお前の風貌も前と変わった。黙ってれば誰か判りもしないよ」
「そうだな……そろそろほとぼりも冷めた頃かもしれないな。兄さんにも会いたいし、頃合いを見て行くとしようか」
ジェミはこれを聞いてとても喜んだ。
「やった!」
エルハルトとアルノルトが馬車を回して来た。
「何かいいことでもあった?」
「僕ら今度、お婆さんの家に行くよ」
「本当? その時は僕も呼んでよ」
サビーネは頷いて言った。
「ああ、呼んであげるとも」
エルハルトは手を伸ばして言った。
「さあ。乗って」
サビーネはエルハルトの手に捕まって荷馬車に乗った。ヴィルヘルムとジェミは静かにそれを見送った。
サビーネは振り返り、遠ざかる二人に手を振った。アルノルトも振り返り、暗くて何も見えなくなってもずっと手を振っていた。夜の闇の中でも、二人の親子には月と星の光でそれが見えたはずだった。
サビーネを連れて家に着いたのは、もう真夜中だった。ブルクハルトもカリーナもアフラの看病をして、まだ起きていた。もちろん森へ行った三人が心配で、寝ることも出来なかったのだった。
「お母さん!」
馬車の音で出てきたカリーナは、サビーネの姿を見て駆け寄った。ブルクハルトは顔を真っ赤にして涙を堪え、アルノルトとエルハルトの肩を叩いて、その労を讃えた。
「よく無事で帰してくれた!」
サビーネはそんなブルクハルトを見て言った。
「心配をかけたね。もう大丈夫だ。薬も五日もすれば届くよ」
「ヴィルヘルムに会えたのか?」
サビーネは頷いてみてから、首を横に振って言った。
「それは村の誰にも言えないことだよ。薬の出所は特にね」
「そうか……そうだったな」
「アフラの様子はどうだい」
サビーネにそう聞かれるとカリーナは言った。
「あれから何も変わりません。でも時々うわごとを言うくらいで、目を覚まさないの」
「薬が来るまであと五日、熱が上がらないようにしっかり看病しておくれ」
「はい。お義母さん」
「今日はもう疲れたわ。ブルクハルト。家まで送って頂戴」
エルハルトは「僕が送っていくよ」と言った。
「いいのよ。あなた達も今日は疲れたでしょう。今日はもうお休み。少し話もあるし。いい? ブルクハルト」
「判った」
ブルクハルトはすぐに荷馬車の手綱を取った。
道すがら、サビーネはヴィルヘルムのことを話し、その家族が薬を作って持って来てくれると教えた。
ブルクハルトは「ヴィルヘルム」と呟いて泣いた。二人はとても仲の良い、二人きりの兄弟だった。サビーネはその肩を抱いて、そっと揺らした。
行方知れずだったヴィルヘルムが見つかりました。
このヴィルヘルムはもしかして、と思った方はどうかまだご内密に。




