不老不死たちの過去 9
その記憶を選んだのは、なんとなくだった。
映画館の受付で、彼は長いあいだ記憶の一覧を眺めていた。
何千年。
何万年。
もっと古いものもある。
長く生きていると、記憶は増えていく。
けれど、すべてを覚えていられるわけではない。
忘れてしまうこともある。
特に、あまりに古い記憶はそうだった。
自分のものなのに、自分のものではないような記憶。
映像を見れば、自分がそこにいることだけは分かる。
けれど、なぜそこにいたのか。
どこへ向かっていたのか。
何を考えていたのか。
何をしたかったのか。
そういうことが、もう残っていない。
彼はその中から、一つを選んだ。
日付も分からない。
場所も分からない。
ただ、記憶の中に残っている映像だった。
席に座る。
スクリーンが暗くなる。
しばらくして、雨の音が聞こえた。
最初は小さかった。
やがて大きくなる。
ざあざあと、絶え間なく降っている。
画面が明るくなる。
森だった。
木々が密集している。
空は暗い。
昼なのか、夕方なのかも分からない。
雨が激しく降っている。
葉に当たる雨。
枝から落ちる雨。
地面に溜まった水。
どこを見ても濡れている。
その森の中を、一人の人間が歩いていた。
彼だった。
今と同じ顔。
けれど、今の彼には、その姿に覚えがなかった。
大きな黒い雨服を着ている。
頭にも黒いフードをかぶっている。
服は雨を弾いていたが、肩や腕には水が流れている。
長い棒のようなものを手にしている。
何に使うものなのかは分からない。
過去の彼は、何も言わず歩いていた。
木の根を避ける。
ぬかるんだ場所を踏む。
枝を手で押しのける。
また歩く。
ただ、それだけだった。
彼はスクリーンを見つめた。
どこへ行くんだ。
そう思った。
けれど、過去の自分は答えない。
当然だった。
これは記憶だからだ。
記憶の中の人間は、今の自分の声を聞いていない。
雨が強くなる。
画面の中で、黒い雨服の男が歩き続ける。
道らしい道はない。
森の中に細い跡があるだけだった。
昔の彼は、それを迷わず進んでいる。
右へ。
左へ。
また右へ。
立ち止まらない。
何かを探しているようにも見えた。
何かから逃げているようにも見えた。
けれど、表情からは何も読み取れない。
フードの影で顔が暗い。
ただ前を見ている。
彼は記憶を見ながら、自分自身に問いかけていた。
何をしている?
どこへ行く?
誰かに会いに行くのか?
何かを取りに行くのか?
何かから逃げているのか?
答えは出ない。
記憶を見ている本人にも分からない。
あまりにも古い。
そのころの自分が何を考えていたのか、もう思い出せない。
森の中で、過去の彼が一度だけ立ち止まった。
前を見る。
そこには大きな木があった。
根元に黒い穴のようなものが見える。
彼はそこへ近づいた。
しかし、中には入らない。
少し眺めてから、また歩き始めた。
彼はそれを見ていた。
あの穴を知っている気がする。
そう思った。
けれど、何なのか分からない。
昔の自分なら知っていたのだろう。
今は知らない。
森はさらに深くなる。
木が大きくなる。
雨で遠くが見えない。
ときどき風が吹く。
枝が揺れる。
葉が大きく音を立てる。
黒い雨服の男は、そんな中を歩いている。
転ばない。
急がない。
疲れている様子もない。
ただ、一定の速さで歩く。
何時間見ていても、同じことを続けていそうだった。
彼はふと思った。
もしかすると、このあと何かが起こるのかもしれない。
誰かが現れる。
建物が出てくる。
森の外へ出る。
何か大切なことを思い出す。
そう思って見続けた。
けれど、何も起こらなかった。
過去の彼は歩き続ける。
雨は降り続ける。
森は続いている。
しばらくして、過去の彼が小さな川を渡った。
水はかなり増えている。
靴が水に沈む。
それでも彼は進む。
向こう岸に上がる。
服についた水を払うこともしない。
また歩く。
また木々の間へ入っていく。
スクリーンの中では、時間の流れさえ曖昧だった。
雨が降り続けているせいで、朝なのか昼なのか夜なのか分からない。
ただ暗い。
そして、濡れている。
彼は椅子に座ったまま、昔の自分を見ていた。
不思議な気持ちだった。
あの人は自分だ。
間違いなく自分だ。
顔も同じ。
身体も同じ。
不老不死なのだから、何千年経っても変わらない。
それなのに、知らない人を見ているようだった。
何を考えているのか分からない。
何をしに行くのか分からない。
なぜ、あんな雨の日に森を歩いていたのかも分からない。
ただ歩いている。
それだけだった。
映像はまだ続いていた。
やがて、森の木々が少しずつ減っていく。
遠くに何かが見えた。
建物のようにも見える。
過去の彼はそちらへ向かう。
彼はスクリーンを見つめた。
何だったのだろう。
そう思った。
けれど、その直前で映像が途切れた。
暗くなる。
雨の音だけが残る。
そして、それも消えた。
部屋が静かになる。
彼はしばらく動かなかった。
記憶の最後に何があったのか。
分からない。
あの建物が何だったのか。
分からない。
あの森がどこだったのか。
分からない。
なぜ雨の中を歩いていたのかも。
分からない。
彼は目を閉じた。
思い出そうとした。
けれど、何も出てこなかった。
何千年も生きてきた。
それだけ長く生きていれば、忘れることもある。
大切だったことだけが残るとは限らない。
大切だったのかどうかすら分からないこともある。
彼は立ち上がった。
部屋を出る。
廊下を歩く。
別の部屋から、誰かの記憶の音が聞こえてくる。
笑い声。
街の音。
昔の音楽。
誰かの声。
彼はそれらを聞きながら歩いた。
そして、ふと自分の服を見た。
今は黒い雨服ではない。
普通の服を着ている。
当然だった。
外は雨ではない。
それでも彼は、さっきの森のことを考えていた。
黒い雨服。
激しい雨。
暗い森。
その中を歩く自分。
どこへ向かっていたのか。
最後まで分からなかった。
けれど、もしかすると――
あのころの自分にとっては、それが分かっていたのかもしれない。
今の自分が忘れてしまっただけで。
彼は映画館の出口を開けた。
外の空気が入ってくる。
彼は一度だけ空を見上げた。
雨は降っていなかった。
そのまま歩き出した。




