不老不死たちの過去 8
映画館に入る前から、彼は一人の女性のことを思い出していた。
何かきっかけがあったわけではない。
受付の前を通り過ぎたとき、壁に映っていた古い映像を見た。
それだけだった。
映像の中に、昔の街が映っていた。
今とは違う建物。
今とは違う車。
今とは違う服。
それを見た瞬間、なぜか彼女のことを思い出した。
昔、好きだった不老不死の女性。
名前は、今でも覚えている。
顔も覚えている。
声も覚えている。
ただ、彼女と何を話したのかは、あまり覚えていなかった。
そもそも、あまり話したことがない。
同じ場所にいることはあった。
隣に座ったこともある。
一緒に歩いたこともある。
同じ景色を見たこともある。
けれど、長い会話をした記憶はほとんどない。
それでも、あのころの彼は彼女のことが好きだった。
なぜだったのか。
今となっては、よく分からない。
彼は一つの部屋に入った。
昔の記憶を選ぶ。
日付を確認する。
かなり古い。
まだ街の形が今とは大きく違っていなかったころ。
彼は席に座った。
スクリーンが暗くなる。
しばらくして、映像が始まった。
最初に映ったのは、駅だった。
昔の駅。
今より看板が少ない。
人の服も違う。
その中を、若いころの彼が歩いていた。
今と同じ顔だった。
不老不死なのだから、顔そのものは変わらない。
けれど、雰囲気が違った。
髪型。
服装。
歩き方。
周囲を見る目。
今の彼ならしないような歩き方をしていた。
そして、駅の柱の近くに彼女がいた。
彼はスクリーンを見たまま、少しだけ姿勢を正した。
彼女も、今と同じ顔だった。
髪の長さだけが違う。
今の彼女がどんな髪型をしているのか、彼は知らない。
長い間、会っていないからだ。
映像の中の彼女は、一人で立っていた。
本を読んでいた。
彼は少し離れた場所から彼女を見ている。
話しかけない。
彼女も彼に気づいていない。
しばらくすると、彼女が顔を上げた。
目が合う。
彼女が小さく会釈した。
彼も会釈を返した。
それだけだった。
映像の中の彼は、そのあと彼女の近くまで歩いていった。
「今日はどこへ?」
彼女が聞いた。
「まだ決めてない」
「そう」
「そっちは?」
「私も」
そこで会話が終わった。
二人は並んで歩き始めた。
駅を出る。
大通りを歩く。
彼女が右へ曲がる。
彼もついていく。
しばらく歩いてから、彼女が言った。
「こっちでいい?」
「うん」
それだけ。
また沈黙する。
彼はスクリーンを見ながら思った。
こんなに話していなかったのか。
今の自分なら、もっと何か話そうとする。
当時の自分は、彼女の隣を歩くだけで満足していた。
彼女が何かを見るために立ち止まれば、彼も立ち止まった。
彼女が歩けば、彼も歩いた。
彼女が店に入れば、一緒に入った。
それだけだった。
ある店で、彼女が小さな菓子を買った。
「食べる?」
「いいの?」
「うん」
彼は一つ受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それから二人は店の外で菓子を食べた。
味について話すこともなかった。
おいしいとも言わない。
まずいとも言わない。
ただ食べていた。
しばらくして、彼女が空を見上げた。
「今日は晴れてるね」
「そうだね」
また、それだけだった。
映像を見ながら、彼は少し笑った。
あのころの自分は、本当に彼女と話さなかった。
それなのに、彼女のことが好きだった。
なぜ好きだったのか。
彼は思い出そうとした。
顔が好きだったのか。
それもあるかもしれない。
歩き方が好きだったのか。
声だったのか。
静かなところだったのか。
それとも、ただ一緒にいる時間が好きだったのか。
分からない。
映像の中では、二人が歩いている。
夕方になっていた。
彼女が言った。
「じゃあ、また」
「うん」
彼女は手を振らなかった。
彼も振らなかった。
ただ別々の方向へ歩いていく。
それだけだった。
映画はそこで終わらなかった。
別の日。
また二人が会っている。
別の日には、同じベンチに座っている。
別の日には、店の前で立っている。
別の日には、何も話さずに歩いている。
何度も同じような場面が続く。
大きな出来事はない。
喧嘩もない。
告白もない。
恋人になったわけでもない。
それでも当時の彼は、彼女を好きだった。
それだけは確かだった。
そして、ある日を境に会わなくなった。
理由は映像の中でもはっきりしなかった。
彼女が遠くへ行った。
彼も別の場所へ行った。
それだけだった。
不老不死の人間にとって、別れるというのはそういうことだった。
死別ではない。
誰かが死ぬわけではない。
ただ、生活する場所が少しずつ離れていく。
連絡をしなくなる。
何十年か経つ。
何百年か経つ。
そして、気づけば会わなくなる。
映画が終わった。
スクリーンが暗くなる。
彼はしばらく座っていた。
昔の彼女が、まだそこにいるような気がした。
もちろん、いない。
彼女も生きている。
不老不死なのだから、どこかにいるはずだった。
けれど、会わなくなって長い。
彼女が今どこに住んでいるのかも知らない。
何をしているのかも知らない。
どんな服を着ているのか。
髪がどうなっているのか。
どんな考え方をしているのか。
何が好きなのか。
もう分からない。
彼自身も変わった。
昔好きだったものを、今では好きではない。
昔嫌いだったものを、今では気にしない。
話し方も変わった。
考え方も変わった。
昔の自分が見たら、今の自分を知らない人だと思うかもしれない。
きっと彼女も同じだった。
昔の彼女と、今の彼女は違う。
同じ顔をしているだけだ。
だから、
自分が昔好きだった彼女は、今もいるのだろうか。
彼はそう思った。
もちろん、いる。
同じ顔をして、どこかで生きている。
けれど、あのころ彼が好きだった彼女と同じなのかと言われれば、分からない。
そして、自分自身も同じではない。
だから、
あのころ好きだったという気持ちが、今の自分の中に残っているのかも分からなかった。
彼は立ち上がった。
部屋を出る。
廊下を歩く。
昔の記憶を上映する部屋が並んでいる。
彼女の記憶を、もう一度見ようとは思わなかった。
あのころの自分が、彼女を好きだった。
それだけは確かだった。
なぜ好きだったのかは、もう分からない。
今でも好きなのかも分からない。
たぶん、彼女に会えば分かるのかもしれない。
けれど、会ってしまえば、
昔好きだった彼女と、
今の彼女が、
同じ人なのかどうか、
もっと分からなくなる気もした。
彼は映画館を出た。
外は明るかった。
人が歩いている。
誰かが笑っている。
誰かが電話をしている。
彼はその中を歩いた。
昔の彼女と同じ顔をした人が、どこかにいる。
そう思いながらも、探そうとはしなかった。
ただ歩いた。




