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不老不死たちの過去  作者: San


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7/15

不老不死たちの過去 7

映画館の中は、静かだった。


 壁に並んだ小さな扉の一つを開けると、白い椅子と、大きなスクリーンがある。


 受付に誰かがいるわけではない。


 何を見るかを決めて、席に座る。


 それだけだった。


 女は椅子に座り、しばらく何も選ばなかった。


 数千年も生きていると、見たい記憶が多すぎる。


 幼いころ。


 まだ人間が今ほど長く生きられなかった時代。


 もうなくなった街。


 名前を忘れた友人。


 昔の仕事。


 昔の家。


 そして、ただ歩いていた日。


 女はその記憶を選んだ。


 画面が暗くなる。


 やがて、映像が始まった。


 ――2026年。


 日本。


 駅の前に、女が立っていた。


 今と同じ顔だった。


 不老不死なのだから、顔が変わることはない。


 ただ、そのころの女は今より髪が長かった。


 肩より少し下まで伸びた髪を、後ろで簡単にまとめている。


 薄い上着。


 歩きやすそうな靴。


 小さな鞄。


 そして、スマートフォンを持っていなかった。


 駅の時計を見る。


 午前九時十七分。


 女は改札から出て、そのまま歩き始めた。


 どこへ行くのかは決めていない。


 電車に乗る予定もない。


 ホテルも予約していない。


 観光地も調べていない。


 ただ、その日の朝に、


 今日は歩いてみよう。


 そう思っただけだった。


 大通りを歩く。


 車が走っている。


 信号が変わる。


 コンビニがある。


 交差点の角には、知らない店があった。


 女は一度立ち止まった。


 店の前に、小さな黒板が出ている。


 何かのランチメニューが書かれていた。


 女は少し眺めてから、店には入らず、そのまま歩いた。


 数百メートル進む。


 右へ曲がる。


 理由はない。


 なんとなく、右の道が気になった。


 道は細くなった。


 住宅街になった。


 さっきまで聞こえていた車の音が遠くなる。


 古い家の塀。


 小さな庭。


 自転車。


 電柱。


 洗濯物。


 どこにでもあるような景色だった。


 女は歩きながら、ときどき立ち止まった。


 猫がいた。


 白い猫だった。


 女を見ると、少しだけ顔を上げた。


「こんにちは」


 女が言う。


 猫は答えない。


 当然だった。


 女はそのまま歩いた。


 しばらくして、スマートフォンを持っていないことに気づいた。


 持っていないというより、最初から持つつもりがなかった。


 いつもの癖で、鞄に手を入れそうになってから、やめる。


 時計もない。


 時間が分からない。


 だから、空を見る。


 太陽の高さを見る。


 昼が近いらしい。


 駅からどれくらい離れたのかも分からなかった。


 戻ろうとも思わなかった。


 戻る必要もない。


 今日は、どこかへ行く日ではなかった。


 歩く日だった。


 昼過ぎ。


 女は知らない商店街に出た。


 小さな八百屋があった。


 その隣には古い食堂。


 その向かいにはクリーニング店。


 商店街を歩いている人は多くない。


 女は食堂の前で立ち止まった。


 ガラス越しに、カウンターが見える。


 店員らしい男性が新聞を読んでいる。


「ここにしようかな」


 誰に言うでもなく呟いた。


 店に入る。


「いらっしゃい」


「こんにちは」


「一人?」


「はい」


 女は窓際の席に座った。


 メニューを開く。


 定食を頼んだ。


 料理が来るまで、何もすることがない。


 スマートフォンがないから、画面を見ることもない。


 テレビはついていた。


 ニュースが流れている。


 女はぼんやりとそれを眺めた。


 大きな出来事について話している。


 誰かが何かを発表したらしい。


 女は聞いていたが、詳しくは覚えなかった。


 やがて料理が来た。


「お待たせ」


「ありがとうございます」


 食べる。


 普通の昼食だった。


 味噌汁。


 ご飯。


 焼いた魚。


 小さなおかず。


 女はゆっくり食べた。


 食べ終わっても、すぐには立たなかった。


 窓の外を見る。


 知らない人が歩いている。


 自転車が通る。


 店の前で、近所の人が少し話している。


 それを見ていた。


 それだけだった。


 会計をして店を出る。


「ありがとうございました」


「またどうぞ」


 女は少しだけ振り返った。


「はい」


 また来るかどうかは分からなかった。


 そもそも、ここがどこなのかも正確には知らない。


 それでも、その言葉だけは妙に残った。


 午後。


 女はさらに歩いた。


 商店街を抜ける。


 川に出た。


 川沿いの道を歩く。


 ベンチがあった。


 座る。


 水が流れている。


 風が吹いている。


 女は何十分も座っていた。


 誰かから連絡が来ることはない。


 次に行く場所も決まっていない。


 時間だけが過ぎていく。


 しばらくすると、女は立ち上がった。


 今度は川から離れる方向へ歩いた。


 坂道になった。


 坂を上る。


 途中で振り返る。


 さっきまで歩いていた街が少しだけ見えた。


 女はそこで初めて、


 ずいぶん遠くまで来たな、


 と思った。


 それでも、不安にはならなかった。


 帰れなくなっても、死ぬことはない。


 時間はいくらでもある。


 今日帰らなくてもいい。


 明日でもいい。


 何年後でもいい。


 道が分からなくなっても、歩いていればどこかに出る。


 そう思っていた。


 坂を上りきる。


 そこには小さな公園があった。


 誰もいない。


 古いベンチに座る。


 夕方になっていた。


 空が少しずつ暗くなる。


 女は空を見ながら、今日一日を思い返した。


 駅を出た。


 右に曲がった。


 猫を見た。


 知らない食堂で昼を食べた。


 川を見た。


 坂を上った。


 それだけだった。


 写真は撮っていない。


 位置情報も残していない。


 検索もしていない。


 だから、今日歩いた道を正確に説明することはできなかった。


 女はそれを少し面白いと思った。


 何千年も生きていると、記録を残すことが当たり前になっていた。


 写真。


 動画。


 文章。


 日記。


 データ。


 昔の自分も、そういうものをたくさん残していた。


 けれど、この日は何も残さなかった。


 ただ歩いた。


 それだけだった。


 公園を出る。


 すっかり暗くなっていた。


 女は知らない道を歩きながら、明かりのついた店を探した。


 しばらくするとコンビニが見えた。


 そこで水を買った。


 店員に、


「この辺に駅ありますか」


 と聞いた。


「ああ、ありますよ。ここから歩いて十五分くらいです」


「ありがとうございます」


 女は教えられた方向へ歩いた。


 十五分後。


 本当に駅があった。


 駅名を見ても、女には馴染みがなかった。


 それでも構わなかった。


 切符を買う。


 電車に乗る。


 窓の外に、今日歩いた街が流れていく。


 昼に見た川。


 商店街。


 坂。


 公園。


 全部、暗闇の向こうに消えていく。


 女は窓に映った自分の顔を見る。


 今と同じ顔だった。


 けれど、その顔をしている人間は、今の自分とは少し違っていた。


 スマートフォンを持たず。


 行き先を決めず。


 知らない道を歩き。


 知らない店で昼を食べ。


 知らない場所で夕方を迎えた。


 それだけの日。


 それでも、なぜか覚えていた。


 映画館のスクリーンでは、電車が暗い街を走り続けている。


 やがて映像が終わる。


 画面が暗くなる。


 女はしばらく席を立たなかった。


 何千年も前の旅だった。


 2026年という年も、今では遠い。


 あの商店街が残っているのか。


 あの食堂が残っているのか。


 あの川が同じ場所を流れているのか。


 確かめようとは思わなかった。


 女は立ち上がった。


 扉を開ける。


 映画館の廊下に出る。


 廊下には、別の記憶を見るための部屋がいくつも並んでいる。


 女は歩きながら、ふとポケットを探った。


 スマートフォンは入っていない。


 今の自分は持っている。


 けれど、今日は取り出さなかった。


 そのまま歩いた。


 行き先は決めなかった。


 ただ、足の向くほうへ進んだ。

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