不老不死たちの過去 7
映画館の中は、静かだった。
壁に並んだ小さな扉の一つを開けると、白い椅子と、大きなスクリーンがある。
受付に誰かがいるわけではない。
何を見るかを決めて、席に座る。
それだけだった。
女は椅子に座り、しばらく何も選ばなかった。
数千年も生きていると、見たい記憶が多すぎる。
幼いころ。
まだ人間が今ほど長く生きられなかった時代。
もうなくなった街。
名前を忘れた友人。
昔の仕事。
昔の家。
そして、ただ歩いていた日。
女はその記憶を選んだ。
画面が暗くなる。
やがて、映像が始まった。
――2026年。
日本。
駅の前に、女が立っていた。
今と同じ顔だった。
不老不死なのだから、顔が変わることはない。
ただ、そのころの女は今より髪が長かった。
肩より少し下まで伸びた髪を、後ろで簡単にまとめている。
薄い上着。
歩きやすそうな靴。
小さな鞄。
そして、スマートフォンを持っていなかった。
駅の時計を見る。
午前九時十七分。
女は改札から出て、そのまま歩き始めた。
どこへ行くのかは決めていない。
電車に乗る予定もない。
ホテルも予約していない。
観光地も調べていない。
ただ、その日の朝に、
今日は歩いてみよう。
そう思っただけだった。
大通りを歩く。
車が走っている。
信号が変わる。
コンビニがある。
交差点の角には、知らない店があった。
女は一度立ち止まった。
店の前に、小さな黒板が出ている。
何かのランチメニューが書かれていた。
女は少し眺めてから、店には入らず、そのまま歩いた。
数百メートル進む。
右へ曲がる。
理由はない。
なんとなく、右の道が気になった。
道は細くなった。
住宅街になった。
さっきまで聞こえていた車の音が遠くなる。
古い家の塀。
小さな庭。
自転車。
電柱。
洗濯物。
どこにでもあるような景色だった。
女は歩きながら、ときどき立ち止まった。
猫がいた。
白い猫だった。
女を見ると、少しだけ顔を上げた。
「こんにちは」
女が言う。
猫は答えない。
当然だった。
女はそのまま歩いた。
しばらくして、スマートフォンを持っていないことに気づいた。
持っていないというより、最初から持つつもりがなかった。
いつもの癖で、鞄に手を入れそうになってから、やめる。
時計もない。
時間が分からない。
だから、空を見る。
太陽の高さを見る。
昼が近いらしい。
駅からどれくらい離れたのかも分からなかった。
戻ろうとも思わなかった。
戻る必要もない。
今日は、どこかへ行く日ではなかった。
歩く日だった。
昼過ぎ。
女は知らない商店街に出た。
小さな八百屋があった。
その隣には古い食堂。
その向かいにはクリーニング店。
商店街を歩いている人は多くない。
女は食堂の前で立ち止まった。
ガラス越しに、カウンターが見える。
店員らしい男性が新聞を読んでいる。
「ここにしようかな」
誰に言うでもなく呟いた。
店に入る。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「一人?」
「はい」
女は窓際の席に座った。
メニューを開く。
定食を頼んだ。
料理が来るまで、何もすることがない。
スマートフォンがないから、画面を見ることもない。
テレビはついていた。
ニュースが流れている。
女はぼんやりとそれを眺めた。
大きな出来事について話している。
誰かが何かを発表したらしい。
女は聞いていたが、詳しくは覚えなかった。
やがて料理が来た。
「お待たせ」
「ありがとうございます」
食べる。
普通の昼食だった。
味噌汁。
ご飯。
焼いた魚。
小さなおかず。
女はゆっくり食べた。
食べ終わっても、すぐには立たなかった。
窓の外を見る。
知らない人が歩いている。
自転車が通る。
店の前で、近所の人が少し話している。
それを見ていた。
それだけだった。
会計をして店を出る。
「ありがとうございました」
「またどうぞ」
女は少しだけ振り返った。
「はい」
また来るかどうかは分からなかった。
そもそも、ここがどこなのかも正確には知らない。
それでも、その言葉だけは妙に残った。
午後。
女はさらに歩いた。
商店街を抜ける。
川に出た。
川沿いの道を歩く。
ベンチがあった。
座る。
水が流れている。
風が吹いている。
女は何十分も座っていた。
誰かから連絡が来ることはない。
次に行く場所も決まっていない。
時間だけが過ぎていく。
しばらくすると、女は立ち上がった。
今度は川から離れる方向へ歩いた。
坂道になった。
坂を上る。
途中で振り返る。
さっきまで歩いていた街が少しだけ見えた。
女はそこで初めて、
ずいぶん遠くまで来たな、
と思った。
それでも、不安にはならなかった。
帰れなくなっても、死ぬことはない。
時間はいくらでもある。
今日帰らなくてもいい。
明日でもいい。
何年後でもいい。
道が分からなくなっても、歩いていればどこかに出る。
そう思っていた。
坂を上りきる。
そこには小さな公園があった。
誰もいない。
古いベンチに座る。
夕方になっていた。
空が少しずつ暗くなる。
女は空を見ながら、今日一日を思い返した。
駅を出た。
右に曲がった。
猫を見た。
知らない食堂で昼を食べた。
川を見た。
坂を上った。
それだけだった。
写真は撮っていない。
位置情報も残していない。
検索もしていない。
だから、今日歩いた道を正確に説明することはできなかった。
女はそれを少し面白いと思った。
何千年も生きていると、記録を残すことが当たり前になっていた。
写真。
動画。
文章。
日記。
データ。
昔の自分も、そういうものをたくさん残していた。
けれど、この日は何も残さなかった。
ただ歩いた。
それだけだった。
公園を出る。
すっかり暗くなっていた。
女は知らない道を歩きながら、明かりのついた店を探した。
しばらくするとコンビニが見えた。
そこで水を買った。
店員に、
「この辺に駅ありますか」
と聞いた。
「ああ、ありますよ。ここから歩いて十五分くらいです」
「ありがとうございます」
女は教えられた方向へ歩いた。
十五分後。
本当に駅があった。
駅名を見ても、女には馴染みがなかった。
それでも構わなかった。
切符を買う。
電車に乗る。
窓の外に、今日歩いた街が流れていく。
昼に見た川。
商店街。
坂。
公園。
全部、暗闇の向こうに消えていく。
女は窓に映った自分の顔を見る。
今と同じ顔だった。
けれど、その顔をしている人間は、今の自分とは少し違っていた。
スマートフォンを持たず。
行き先を決めず。
知らない道を歩き。
知らない店で昼を食べ。
知らない場所で夕方を迎えた。
それだけの日。
それでも、なぜか覚えていた。
映画館のスクリーンでは、電車が暗い街を走り続けている。
やがて映像が終わる。
画面が暗くなる。
女はしばらく席を立たなかった。
何千年も前の旅だった。
2026年という年も、今では遠い。
あの商店街が残っているのか。
あの食堂が残っているのか。
あの川が同じ場所を流れているのか。
確かめようとは思わなかった。
女は立ち上がった。
扉を開ける。
映画館の廊下に出る。
廊下には、別の記憶を見るための部屋がいくつも並んでいる。
女は歩きながら、ふとポケットを探った。
スマートフォンは入っていない。
今の自分は持っている。
けれど、今日は取り出さなかった。
そのまま歩いた。
行き先は決めなかった。
ただ、足の向くほうへ進んだ。




