不老不死たちの過去 6
その男が選んだのは、かなり古い記憶だった。
受付の女性に、
「できるだけ古いものを」
と伝えた。
「時期の指定はございますか?」
「ありません」
「では、記憶の状態を確認して、一番古いものから上映します」
「お願いします」
男は一人用の部屋に入った。
椅子に座る。
照明が消える。
スクリーンが白くなった。
最初に映ったのは、海だった。
どこまでも海だった。
空も海も青い。
その間に、小さな船が浮かんでいる。
男はスクリーンを見た。
「……」
何も言わなかった。
映像の中に、昔の自分がいる。
今と同じ顔だった。
不老不死だから、何千年前でも顔は変わらない。
ただ、その頃の自分はまだ元気だった。
船の上を歩いている。
何かを探している。
食料を確認している。
海図を広げている。
空を見る。
水平線を見る。
まだ、何とかなると思っていた。
その記憶が始まった頃、男は海を旅していた。
目的地があった。
船もあった。
仲間もいた。
けれど、ある日、大きな嵐に遭った。
映像が激しく揺れる。
雨。
風。
波。
船の音。
仲間たちの声。
そして――
記憶が途切れた。
次に映ったとき、男は海の上にいた。
一人だった。
船はなくなっていた。
男は、浮かんでいた。
海面に顔を出している。
しばらく泳いでいた。
どこかに陸があると思っていた。
何時間かすれば見える。
明日になれば着く。
そう考えていた。
最初の数日は、必死だった。
海を泳ぐ。
浮かぶものを探す。
遠くを見る。
鳥を探す。
船を探す。
島を探す。
何かが見えるたびに、そちらへ向かった。
けれど、何もなかった。
何日経ったのか。
映像だけでは分からない。
太陽が昇る。
沈む。
また昇る。
また沈む。
それが繰り返される。
男は泳いでいた。
眠った。
起きた。
また泳いだ。
やがて、泳ぐことすら少なくなった。
海に浮かんでいるだけになった。
最初は陸を探していた。
次は船を探した。
その次は、何かを探すこと自体をやめた。
映画館の男は、静かに画面を見ていた。
映像の中の自分が、海に浮かんでいる。
顔は現在と同じ。
けれど、表情がほとんどない。
目だけが空を見ている。
ある日。
遠くに鳥が飛んでいた。
昔の男は、それを見上げた。
以前なら、追いかけただろう。
どこかに陸があるかもしれないと思っただろう。
けれど、その日は何もしなかった。
鳥が遠ざかっていく。
男は見送るだけだった。
次の日も。
その次の日も。
同じ海。
同じ空。
同じ顔。
ただ時間だけが過ぎていく。
男はもう、日にちを数えていなかった。
最初は数えていた。
一日。
三日。
一週間。
一ヶ月。
そのうち、数えなくなった。
海に浮かんでいると、時間そのものがなくなっていくようだった。
昼と夜だけがある。
それ以外は何もない。
映像の中の男が、ふと海面を見る。
自分の顔が水面に映っている。
今と同じ顔。
何千年経っても変わらない顔。
男はその顔を見つめていた。
そして、小さく言った。
『……まだいるな』
それだけだった。
映画館の男は、その言葉を聞いて少し目を伏せた。
自分でありながら、昔の自分の気持ちが分からない。
ただ、何もする気がなくなっていたことだけは分かる。
さらに時間が流れる。
季節が変わる。
海の色が変わる。
空に雲が増える。
また晴れる。
男はずっと海にいた。
ある日、雨が降った。
男は口を開けて雨を飲んだ。
そして、また海に浮かんだ。
もう喜ばなかった。
悲しみもしなかった。
雨が降った。
それだけ。
日が沈んだ。
それだけ。
朝になった。
それだけ。
何かを期待することをやめていた。
映像が進む。
どれだけの年月が経ったのか分からない。
ある日、遠くに何かが見えた。
船だった。
昔の男は、それを見ても動かなかった。
船は少しずつ近づいてくる。
誰かがこちらを見つけた。
声が聞こえる。
「人がいる!」
何人かが叫んでいる。
男は海に浮かんだままだった。
船が近づく。
ロープが投げられる。
「つかまって!」
男はしばらくロープを見ていた。
そして、ゆっくり手を伸ばした。
船に引き上げられる。
周りの人たちが何かを聞いている。
「大丈夫ですか?」
「どこから来たんですか?」
「何日間ここに?」
男は何も答えなかった。
船員の一人が聞いた。
「名前は?」
昔の男は少し考えた。
そして、自分の名前を答えた。
その声は、現在の男と同じだった。
映画館の男は、そこまで見ていた。
そして映像が終わった。
スクリーンが暗くなる。
男は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
あの頃の自分は、死ななかった。
不老不死だったから。
海に取り残されても、命が終わることはなかった。
だから助かるまで生き続けた。
何日でも。
何ヶ月でも。
もしかしたら、もっと長い時間でも。
もし普通の人間だったなら、途中で終わっていたかもしれない。
けれど、彼は終われなかった。
それが幸運だったのかどうか。
今の男には分からない。
ただ一つ覚えているのは、あの海で長い時間を過ごしているうちに、
「助かりたい」
という気持ちさえ薄れていったことだった。
映画館の扉が開く。
男は外へ出た。
今の街には、人がたくさんいる。
道路を乗り物が走っている。
店から音楽が聞こえる。
誰かが笑っている。
誰かが急いでいる。
男はその中を歩いていく。
海の匂いはしない。
けれど、しばらく歩いたところで、ふと立ち止まった。
遠くの建物の隙間から、青いものが見えた。
海だった。
男は少しだけ眺めた。
何千年も前、自分はあの上に浮かんでいた。
今は、海の上を巨大な乗り物が走っている。
昔の自分が見たら、きっと驚くだろう。
けれど、男は何も思わなかった。
ただ海を見ていた。
それから、また歩き出した。
海の上で止まっていた時間だけを、そこに置いていくように。




