不老不死たちの過去 4
男は、かなり古い記憶を選んだ。
受付の女性に、
「一番古いものを」
と伝えた。
「かなり古いですよ」
「どのくらい?」
「記録上では、今から約八千年前です」
男は少し考えた。
「それで」
映画館の中は暗かった。
スクリーンに光が灯る。
最初に映ったのは、雪だった。
白い雪原を、一人の男が歩いている。
今の男と同じ顔。
同じ身体。
同じ声。
不老不死だから、八千年前でも外見は変わらない。
ただ、今よりずっと軽い足取りだった。
背中には荷物。
肩には古いカメラ。
男は歩きながら、何度も立ち止まっていた。
そしてカメラを取り出す。
カシャ。
雪山を撮る。
カシャ。
遠くの町を撮る。
カシャ。
自分の足元を撮る。
男は写真を撮るたびに、満足そうにしていた。
映画館の男は、それを見ながら少し笑った。
「そうだったな」
思い出した。
あの頃、自分は旅をしていた。
まだ世界のあちこちを見て回ることが楽しかった頃。
知らない場所へ行き、知らない人と話し、知らない食べ物を食べる。
見たものを忘れたくなかった。
だから写真を撮った。
映像が進む。
山。
森。
砂漠。
海。
古い都市。
小さな村。
夜の市場。
祭り。
橋。
駅。
知らない道。
男は何でも撮った。
特別なものだけではなかった。
朝食に食べたパン。
宿泊した部屋。
雨の日の窓。
道端で寝ている犬。
旅先で会った老人。
夕方の空。
自分の手。
何でも写真にした。
ある夜、男は小さな宿の部屋で、撮った写真を確認していた。
『今日も忘れない』
昔の自分がそう呟いている。
男は画面を見ながら、その言葉を聞いた。
少しだけ胸の奥に何かが引っかかった。
昔の自分は、本気でそう思っていた。
この写真があれば大丈夫だと思っていた。
何千年生きても、写真を見れば思い出せる。
そう考えていた。
映像の中の男は、写真を一枚ずつ整理していた。
名前をつける。
日付を書く。
場所を書く。
誰と会ったのかを書く。
そのとき何を食べたのかまで書く。
忘れないためだった。
次の映像では、男が新しい町にいた。
さらにその次では、海の上を船で移動している。
また写真を撮る。
カシャ。
そして別の国へ。
カシャ。
別の大陸へ。
カシャ。
男は何度も旅をした。
何年も。
何十年も。
何百年も。
写真は増えていった。
最初は数十枚だった。
それが数百枚になった。
数千枚になった。
棚いっぱいになった。
男は、それを大切に保管していた。
映像の中で、男が写真を見ながら言う。
『これだけあれば、忘れないな』
現在の男は、黙っていた。
映像が進む。
時間が流れる。
男の旅は続いた。
そして、ある日。
古いカメラが壊れた。
映像の中の男は、机の上に置いたカメラを見ていた。
「……壊れたか」
新しいカメラを買った。
旅を続けた。
写真も撮り続けた。
古い写真は、箱にしまった。
さらに何百年か経った。
箱は倉庫へ移された。
倉庫は引っ越しのときに別の場所へ運ばれた。
さらに年月が経つ。
街が変わった。
国が変わった。
言葉が変わった。
写真を保存していた機械が使われなくなった。
男は別の場所へ移った。
昔の写真を持っていかなかった。
その頃には、もう新しい写真が増えすぎていた。
それでも男は、時々思い出していた。
いつか昔の写真を見よう。
そう思っていた。
けれど、その「いつか」は来なかった。
映像がさらに進む。
数千年後。
かつて写真を保存していた建物はなくなっていた。
そこにあった街もない。
道路もない。
男が写真を撮った山も、名前が変わっている。
そして、男自身も昔の写真を保存していた場所を思い出せなくなっていた。
映画館の男は、スクリーンを見つめた。
「……」
昔の自分が、どこかの海辺で写真を撮っている。
カシャ。
その音だけが残っている。
写真に何が写っていたのか。
現在の男には、もう分からない。
映像が最後の場面に変わった。
昔の男が、一人で部屋にいる。
机の上には古いカメラ。
その横には、何枚かの写真。
男が一枚を手に取る。
写真には、旅先の景色が写っている。
男はそれを眺めている。
『……ここ、どこだったかな』
昔の自分が言った。
現在の男は、その言葉を聞いて動かなかった。
すでに、その頃から忘れ始めていた。
あれほど写真を撮ったのに。
忘れないように残したのに。
写真を見ても、何のために撮ったのか分からなくなっていた。
映画が終わった。
スクリーンが暗くなる。
男は椅子から立ち上がらなかった。
八千年前の自分が撮った写真。
その写真を保存していた場所。
使っていたカメラ。
旅をした町。
泊まった宿。
写真に写っていた人々。
そのほとんどを、もう思い出せない。
いや。
それ以前に。
写真そのものが、もう残っているのかも分からなかった。
男はゆっくり立ち上がった。
部屋を出る。
廊下を歩く。
映画館の外へ出る。
今の街が広がっている。
男はしばらく立っていた。
八千年前、自分は世界を忘れたくなくて旅をした。
見たものを写真にした。
聞いたものを記録した。
名前を書いた。
日付を書いた。
忘れないようにした。
それでも、時間はそれを待ってくれなかった。
男は空を見上げた。
昔、写真に撮った空と同じ空なのか。
もう分からない。
男は歩き出した。
ポケットの中には、今使っている新しい端末が入っている。
そこには、最近撮った写真が何百枚も入っている。
男は一枚も見なかった。
ただ歩いた。
八千年前の自分が、
「忘れないように」
と残したものは、もうどこにもない。
それでも男だけは、まだ生きている。
そして今日もまた、知らない景色を見ている。




