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不老不死たちの過去  作者: San


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3/15

不老不死たちの過去 3


その映画館には、古い記憶を見に来る不老不死が多かった。


 何千年も生きている者にとって、記憶というものは少し変わったものだった。


 忘れてしまったと思っていたことが、突然残っている。


 顔も、声も、匂いも。


 けれど、その記憶の中にいた人間だけは、もうどこにもいない。


 彼女も、その日、古い記憶を選んだ。


「どのくらい前のものにしますか?」


 受付で聞かれた。


「一番古いものを」


「かなり古いですよ」


「そうだと思います」


 彼女はそう答えた。


 部屋に入る。


 椅子に座る。


 照明が落ちる。


 スクリーンが白くなった。


 そして、海が映った。


 青い海だった。


 今の海とは、少し違う。


 まだ海岸線が今とは違っていた頃。


 画面の中には、古い町があった。


 海の近くにある、小さな町。


 建物は少なく、道路も細い。


 昼間なのに、人の姿はあまりない。


 海から風が吹くたびに、家の軒先に吊るされたものが揺れている。


 彼女はスクリーンを見ていた。


「ああ……」


 声が漏れた。


 思い出した。


 この町を。


 この海を。


 まだ自分が、海の近くを歩くことを好きだった頃。


 映像の中の彼女は、今と同じ顔をしている。


 不老不死だから、当然だった。


 長い黒髪も、今とほとんど変わらない。


 ただ、服装だけが古い。


 歩き方も今より軽い。


 彼女は海へ向かって歩いていた。


 目的などなかった。


 ただ、海を見に来たのだ。


 波の音が近づいてくる。


 砂浜に出る。


 人はほとんどいなかった。


 彼女は靴を脱いだ。


 波打ち際まで歩く。


 足元に水が触れる。


 冷たい。


 そこで、何かが見えた。


 海の中。


 少し離れたところで、何かが泳いでいる。


 最初は魚だと思った。


 けれど、大きかった。


 そして、人のように見えた。


 彼女は目を細めた。


 水面から、長い髪が浮かんでいる。


 その下に、人間の上半身。


 そして、その先には――


 魚のような尾。


 彼女は立ち止まった。


「……」


 もう一度見る。


 やはり、尾がある。


 美しい人魚だった。


 少なくとも、その瞬間の彼女にはそう見えた。


 彼女は海辺に立ったまま動かなかった。


 不老不死だった。


 だから、人間よりもずっと多くのものを見てきた。


 昔から存在する生き物も、もういなくなった生き物も知っている。


 世界中の海も、何度も見てきた。


 それでも。


 人魚を見たことは一度もなかった。


「……人魚?」


 思わず口にした。


 海の中の女性がこちらを向いた。


 目が合った。


 そして、女性は泳いで近づいてきた。


 彼女は少し後ずさった。


 人魚が水面から顔を出す。


「こんにちは」


「……こんにちは」


「泳ぎに来たの?」


「え?」


「海」


「ああ……うん」


 人魚は笑った。


 そして、砂浜に上がってきた。


 彼女は目を疑った。


 魚の尾が、妙に動かしにくそうだった。


 女性は砂浜を歩こうとして、二歩ほど進んだところで転びそうになった。


「大丈夫?」


「大丈夫、大丈夫」


 女性は笑いながら立ち上がる。


 そのときだった。


 尾の付け根あたりから、何かが外れた。


 彼女は固まった。


 女性も固まった。


 砂浜に、魚の尾が落ちている。


「……」


「……」


 沈黙。


 女性はしゃがんで、それを拾った。


「見ちゃった?」


「見た」


「人には言わないでね」


「……それ、本物じゃないの?」


「本物だったら歩けないでしょ」


 女性は笑った。


 彼女は、しばらく何も言えなかった。


「じゃあ……人魚じゃないの?」


「人魚じゃないよ」


「何してるの?」


「人魚の格好をして泳いでる」


「なんで?」


「好きだから」


 あまりにも普通に答えたので、彼女は笑ってしまった。


 女性も笑った。


「変かな?」


「かなり変」


「そう?」


「うん」


「でも、泳ぐの楽しいよ」


 女性は魚の尾を抱えたまま海を見た。


「これをつけて泳ぐと、ちょっとだけ人魚になった気がするから」


 彼女は海を見た。


 さっきまで人魚に見えていた女性は、今はただの人間だった。


 普通の人間。


 不老不死でもない。


 彼女は、そのことを知らなかった。


 このときの彼女には、まだ分からなかった。


 目の前の女性が、永遠に生きる自分とは違う時間の中にいることを。


「もう一回泳ぐ?」


 女性が聞いた。


「うん」


「じゃあ、これ貸そうか?」


「私はいい」


「じゃあ見てて」


 女性は再び魚の尾を装着した。


 海へ入っていく。


 膝まで。


 腰まで。


 そして水に浮かぶ。


 尾が水の中で動いた。


 さっきよりずっと自然だった。


 女性は泳いだ。


 水面を滑るように進んでいく。


 彼女は砂浜に座って、その姿を見ていた。


 遠くまで行っては戻ってくる。


 何度も。


 そのたびに女性は笑っていた。


「こっち来て!」


「私は泳げるけど、そんな遠くまで行かないよ」


「大丈夫だよ!」


「あなたは人間でしょう」


「そうだけど?」


「疲れないの?」


「疲れるよ」


 女性は笑った。


「だから休む」


 それが、妙に印象に残った。


 不老不死の彼女は、疲れても休む。


 眠くなれば眠る。


 食べれば満足する。


 けれど、それらは長い人生の途中にある小さな出来事だった。


 この女性にとっては違う。


 今日泳ぐ。


 今日笑う。


 今日海を見る。


 そういう一日一日が、彼女の人生そのものだった。


 それでも、そのときの彼女は深く考えなかった。


 ただ、海を泳ぐ人魚のような女性を見ていた。


 夕方になった。


 太陽が海の向こうへ沈んでいく。


 女性は砂浜に戻ってきた。


 濡れた髪を絞りながら、彼女の隣に座った。


「楽しかった」


「うん」


「また来る?」


「たぶん」


「じゃあ、また会おう」


「うん」


 彼女は答えた。


 それだけだった。


 特別な約束だとは思わなかった。


 明日でも。


 来週でも。


 来月でも。


 また会えると思っていた。


 映像が少し乱れる。


 次の日。


 また海が映った。


 二人が一緒に歩いている。


 その次の日。


 また泳いでいる。


 何度も海へ行った。


 女性は毎回、人魚の尾をつけていた。


 彼女は毎回、それを見て笑った。


 ある日、女性が言った。


「これ、ずっと使ってるんだ」


「古くない?」


「古いよ」


「新しいの買えば?」


「これがいい」


「なんで?」


「最初に買ったやつだから」


 女性はそう言って笑った。


 それから何年か経った。


 映像は、ところどころ途切れていた。


 記憶が抜けている。


 海辺に一人で座っている映像。


 女性の姿はない。


 彼女は画面を見つめた。


 そして、少しして思い出した。


 女性は死んだ。


 何年も前に。


 不老不死ではなかったから。


 それは、あまりにも普通のことだった。


 人間は生まれて、歳を取って、死ぬ。


 昔の世界では、それが当たり前だった。


 けれど、彼女にとっては違った。


 自分だけが残った。


 町がなくなった。


 海岸の形が変わった。


 人魚の尾をつけて泳いでいた女性もいなくなった。


 それから何千年もの時間が流れた。


 スクリーンの中では、まだ女性が海を泳いでいる。


 何千年前の彼女は、その姿を見ながら笑っている。


 現在の彼女は、笑わなかった。


 ただ見ていた。


 魚の尾をつけた女性が、水の中を泳いでいる。


 人魚ではない。


 ただの人間だった。


 寿命の短い、普通の人間。


 だからこそ、あの時間は短かった。


 短かったから、彼女の記憶に残っている。


 映画が終わった。


 スクリーンが暗くなる。


 彼女はしばらく席を立たなかった。


 やがて立ち上がり、部屋を出る。


 映画館の外には、今の街がある。


 空中を乗り物が走っている。


 海は、ここからは見えない。


 彼女は歩きながら、ふと昔の海を思い出した。


 人の少ない町。


 静かな砂浜。


 そして、魚の尾をつけて海を泳いでいた女性。


 彼女は覚えている。


 あの女性が、何と言っていたのか。


「また来る?」


 そう言ったのは、どちらだっただろう。


 もう分からなかった。


 ただ、海だけは覚えていた。

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