不老不死たちの過去 3
その映画館には、古い記憶を見に来る不老不死が多かった。
何千年も生きている者にとって、記憶というものは少し変わったものだった。
忘れてしまったと思っていたことが、突然残っている。
顔も、声も、匂いも。
けれど、その記憶の中にいた人間だけは、もうどこにもいない。
彼女も、その日、古い記憶を選んだ。
「どのくらい前のものにしますか?」
受付で聞かれた。
「一番古いものを」
「かなり古いですよ」
「そうだと思います」
彼女はそう答えた。
部屋に入る。
椅子に座る。
照明が落ちる。
スクリーンが白くなった。
そして、海が映った。
青い海だった。
今の海とは、少し違う。
まだ海岸線が今とは違っていた頃。
画面の中には、古い町があった。
海の近くにある、小さな町。
建物は少なく、道路も細い。
昼間なのに、人の姿はあまりない。
海から風が吹くたびに、家の軒先に吊るされたものが揺れている。
彼女はスクリーンを見ていた。
「ああ……」
声が漏れた。
思い出した。
この町を。
この海を。
まだ自分が、海の近くを歩くことを好きだった頃。
映像の中の彼女は、今と同じ顔をしている。
不老不死だから、当然だった。
長い黒髪も、今とほとんど変わらない。
ただ、服装だけが古い。
歩き方も今より軽い。
彼女は海へ向かって歩いていた。
目的などなかった。
ただ、海を見に来たのだ。
波の音が近づいてくる。
砂浜に出る。
人はほとんどいなかった。
彼女は靴を脱いだ。
波打ち際まで歩く。
足元に水が触れる。
冷たい。
そこで、何かが見えた。
海の中。
少し離れたところで、何かが泳いでいる。
最初は魚だと思った。
けれど、大きかった。
そして、人のように見えた。
彼女は目を細めた。
水面から、長い髪が浮かんでいる。
その下に、人間の上半身。
そして、その先には――
魚のような尾。
彼女は立ち止まった。
「……」
もう一度見る。
やはり、尾がある。
美しい人魚だった。
少なくとも、その瞬間の彼女にはそう見えた。
彼女は海辺に立ったまま動かなかった。
不老不死だった。
だから、人間よりもずっと多くのものを見てきた。
昔から存在する生き物も、もういなくなった生き物も知っている。
世界中の海も、何度も見てきた。
それでも。
人魚を見たことは一度もなかった。
「……人魚?」
思わず口にした。
海の中の女性がこちらを向いた。
目が合った。
そして、女性は泳いで近づいてきた。
彼女は少し後ずさった。
人魚が水面から顔を出す。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「泳ぎに来たの?」
「え?」
「海」
「ああ……うん」
人魚は笑った。
そして、砂浜に上がってきた。
彼女は目を疑った。
魚の尾が、妙に動かしにくそうだった。
女性は砂浜を歩こうとして、二歩ほど進んだところで転びそうになった。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
女性は笑いながら立ち上がる。
そのときだった。
尾の付け根あたりから、何かが外れた。
彼女は固まった。
女性も固まった。
砂浜に、魚の尾が落ちている。
「……」
「……」
沈黙。
女性はしゃがんで、それを拾った。
「見ちゃった?」
「見た」
「人には言わないでね」
「……それ、本物じゃないの?」
「本物だったら歩けないでしょ」
女性は笑った。
彼女は、しばらく何も言えなかった。
「じゃあ……人魚じゃないの?」
「人魚じゃないよ」
「何してるの?」
「人魚の格好をして泳いでる」
「なんで?」
「好きだから」
あまりにも普通に答えたので、彼女は笑ってしまった。
女性も笑った。
「変かな?」
「かなり変」
「そう?」
「うん」
「でも、泳ぐの楽しいよ」
女性は魚の尾を抱えたまま海を見た。
「これをつけて泳ぐと、ちょっとだけ人魚になった気がするから」
彼女は海を見た。
さっきまで人魚に見えていた女性は、今はただの人間だった。
普通の人間。
不老不死でもない。
彼女は、そのことを知らなかった。
このときの彼女には、まだ分からなかった。
目の前の女性が、永遠に生きる自分とは違う時間の中にいることを。
「もう一回泳ぐ?」
女性が聞いた。
「うん」
「じゃあ、これ貸そうか?」
「私はいい」
「じゃあ見てて」
女性は再び魚の尾を装着した。
海へ入っていく。
膝まで。
腰まで。
そして水に浮かぶ。
尾が水の中で動いた。
さっきよりずっと自然だった。
女性は泳いだ。
水面を滑るように進んでいく。
彼女は砂浜に座って、その姿を見ていた。
遠くまで行っては戻ってくる。
何度も。
そのたびに女性は笑っていた。
「こっち来て!」
「私は泳げるけど、そんな遠くまで行かないよ」
「大丈夫だよ!」
「あなたは人間でしょう」
「そうだけど?」
「疲れないの?」
「疲れるよ」
女性は笑った。
「だから休む」
それが、妙に印象に残った。
不老不死の彼女は、疲れても休む。
眠くなれば眠る。
食べれば満足する。
けれど、それらは長い人生の途中にある小さな出来事だった。
この女性にとっては違う。
今日泳ぐ。
今日笑う。
今日海を見る。
そういう一日一日が、彼女の人生そのものだった。
それでも、そのときの彼女は深く考えなかった。
ただ、海を泳ぐ人魚のような女性を見ていた。
夕方になった。
太陽が海の向こうへ沈んでいく。
女性は砂浜に戻ってきた。
濡れた髪を絞りながら、彼女の隣に座った。
「楽しかった」
「うん」
「また来る?」
「たぶん」
「じゃあ、また会おう」
「うん」
彼女は答えた。
それだけだった。
特別な約束だとは思わなかった。
明日でも。
来週でも。
来月でも。
また会えると思っていた。
映像が少し乱れる。
次の日。
また海が映った。
二人が一緒に歩いている。
その次の日。
また泳いでいる。
何度も海へ行った。
女性は毎回、人魚の尾をつけていた。
彼女は毎回、それを見て笑った。
ある日、女性が言った。
「これ、ずっと使ってるんだ」
「古くない?」
「古いよ」
「新しいの買えば?」
「これがいい」
「なんで?」
「最初に買ったやつだから」
女性はそう言って笑った。
それから何年か経った。
映像は、ところどころ途切れていた。
記憶が抜けている。
海辺に一人で座っている映像。
女性の姿はない。
彼女は画面を見つめた。
そして、少しして思い出した。
女性は死んだ。
何年も前に。
不老不死ではなかったから。
それは、あまりにも普通のことだった。
人間は生まれて、歳を取って、死ぬ。
昔の世界では、それが当たり前だった。
けれど、彼女にとっては違った。
自分だけが残った。
町がなくなった。
海岸の形が変わった。
人魚の尾をつけて泳いでいた女性もいなくなった。
それから何千年もの時間が流れた。
スクリーンの中では、まだ女性が海を泳いでいる。
何千年前の彼女は、その姿を見ながら笑っている。
現在の彼女は、笑わなかった。
ただ見ていた。
魚の尾をつけた女性が、水の中を泳いでいる。
人魚ではない。
ただの人間だった。
寿命の短い、普通の人間。
だからこそ、あの時間は短かった。
短かったから、彼女の記憶に残っている。
映画が終わった。
スクリーンが暗くなる。
彼女はしばらく席を立たなかった。
やがて立ち上がり、部屋を出る。
映画館の外には、今の街がある。
空中を乗り物が走っている。
海は、ここからは見えない。
彼女は歩きながら、ふと昔の海を思い出した。
人の少ない町。
静かな砂浜。
そして、魚の尾をつけて海を泳いでいた女性。
彼女は覚えている。
あの女性が、何と言っていたのか。
「また来る?」
そう言ったのは、どちらだっただろう。
もう分からなかった。
ただ、海だけは覚えていた。




