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不老不死たちの過去  作者: San


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12/15

不老不死たちの過去 12

その記憶を選んだとき、彼は少しだけ迷った。


 かなり古い記憶だった。


 場所の名前は残っている。


 けれど、今の彼にはその名前に馴染みがなかった。


 昔の地図には載っていた。


 今の地図には、もうない。


 彼は席に座った。


 スクリーンが暗くなる。


 波の音が聞こえた。


 映像が始まる。


 海だった。


 夕方の海。


 砂浜の向こうに、小さな宿が建っている。


 二階建ての古い建物。


 木の看板に、宿の名前が書かれている。


 昔の彼が、その前に立っていた。


 旅の途中だったらしい。


 荷物を背負っている。


 髪は今より長い。


 服も昔のものだ。


 彼は看板を見上げた。


 それから、扉を開けた。


「泊まれますか」


 中から声がした。


「はい。空いてますよ」


 宿の主人だった。


 男性だった。


 年齢は彼と同じくらいに見える。


 いや。


 同じくらいではなかった。


 彼も不老不死だった。


 それは、映像の中の彼も知っていた。


「一泊?」


「はい」


「分かりました」


 主人は名前を聞いた。


 彼が答える。


 主人は紙に名前を書く。


 部屋へ案内する。


 それだけだった。


 特別な出会いではなかった。


 少なくとも、そのときは。


 部屋の窓から海が見えた。


 彼は荷物を置いて、しばらく海を眺めた。


 夕方の海。


 波が静かだった。


 夜になる。


 食事が出る。


 主人と少し話す。


「旅ですか」


「そうです」


「どこから?」


「遠くから」


「どこへ?」


「決めてません」


「そうですか」


 主人はそれ以上聞かなかった。


 食事が終わる。


 彼は部屋へ戻る。


 翌朝、宿を出る。


「ありがとうございました」


「またどうぞ」


 彼は海沿いの道を歩いていった。


 記憶はそこで終わる。


 ――と思った。


 画面が切り替わる。


 数年後。


 また同じ宿が映る。


 彼が歩いてくる。


 宿の主人が扉を開ける。


「ああ」


 主人が言った。


「久しぶりですね」


「覚えてたんですか」


「もちろん」


 彼は少し笑った。


「じゃあ、また一泊お願いします」


「どうぞ」


 それだけだった。


 二人は特に親しく話さない。


 けれど、彼はその宿に泊まるようになった。


 旅の途中で近くを通ると、寄る。


 何年か空くこともある。


 何十年も空くこともある。


 それでも、宿はあった。


 主人もいた。


 建物もほとんど変わらなかった。


 ある年。


 彼が宿に入る。


「久しぶりです」


「そうですね」


「何年ぶりですか?」


「さあ」


 主人は笑った。


「長いですね」


「そうですね」


 それだけ。


 その夜、二人は食事をした。


 昔と同じような料理だった。


 海の魚。


 味噌汁。


 野菜。


 彼は窓の外を見る。


 海は変わらないように見えた。


「この海、昔から同じですね」


「そう見えますか」


「はい」


「私は少し違うと思います」


「そうですか?」


「波は毎日違いますから」


 彼は少し考えた。


「確かに」


 それ以上は話さなかった。


 また年月が過ぎる。


 映像が何度も切り替わる。


 宿が映る。


 彼が泊まる。


 主人が迎える。


 食事をする。


 海を見る。


 そして出ていく。


 何度も。


 何度も。


 宿の周囲が少しずつ変わっていった。


 最初は小さな漁村だった。


 やがて道路ができた。


 近くに店ができた。


 観光客が増えた。


 昔ながらの家がなくなった。


 新しい建物が建った。


 海沿いの道も変わった。


 けれど、宿だけは残っていた。


 主人も変わらなかった。


 ある日、彼が宿に入る。


 主人が言う。


「久しぶりですね」


「今回は百年くらいです」


「そうでしたか」


「たぶん」


「長いですね」


「そうですね」


 二人とも笑った。


 それだけだった。


 彼は部屋に入り、窓を開ける。


 海が見える。


 昔と同じ景色。


 でも、少し違う。


 彼はそれを眺めた。


 主人が部屋の前に来る。


「お茶、置いておきます」


「ありがとうございます」


「昔から好きでしたよね」


「そうでしたっけ」


「そうですよ」


「忘れてました」


「そうですか」


 主人は笑った。


「私もよく忘れます」


 彼はお茶を飲んだ。


 その夜は、それ以上話さなかった。


 さらに年月が過ぎる。


 宿の周りから人が減った。


 町の中心が別の場所へ移った。


 観光客も来なくなった。


 道路も使われなくなった。


 宿の看板は古くなった。


 それでも営業していた。


 ある日。


 彼がまた訪れた。


 扉を開ける。


「こんにちは」


 返事がない。


 彼は少し待った。


 奥から主人が出てきた。


「……久しぶりですね」


「はい」


「また来ましたね」


「来ました」


 主人は笑った。


「泊まりますか?」


「お願いします」


 その日は客が彼一人だった。


 夕食のときも、二人しかいない。


 主人が料理を並べる。


 彼が食べる。


 窓の外は暗い。


 海の音だけが聞こえる。


「この宿、まだ続けるんですか?」


 彼が聞いた。


 主人は少し考えた。


「どうでしょう」


「閉めるかもしれない?」


「そうかもしれません」


「そうですか」


 彼は魚を食べた。


 主人も向かい側に座った。


 しばらく二人とも黙っていた。


「でも」


 主人が言った。


「あなたが来るなら、開けておきますよ」


 彼は顔を上げた。


「私のために?」


「まあ」


 主人は少し笑った。


「暇ですから」


 彼も笑った。


「そうですか」


 その夜、二人はそれ以上話さなかった。


 翌朝。


 彼は宿を出た。


「また来ます」


「はい」


「次はいつになるか分かりませんけど」


「いつでも」


 彼は海沿いの道を歩いた。


 振り返る。


 古い宿が見える。


 主人が玄関に立っていた。


 彼は手を上げた。


 主人も手を上げる。


 それだけだった。


 次に彼が宿を訪れたのは、さらに長い年月のあとだった。


 海沿いの道はなくなっていた。


 昔の町もなくなっていた。


 新しい建物が増えている。


 宿を探す。


 彼は地図を見ながら歩いた。


 そして、ようやく見つけた。


 古い建物だった。


 看板は壊れている。


 壁も傷んでいる。


 それでも、建物は残っていた。


 彼は扉を開けた。


「こんにちは」


 返事がない。


 中は暗かった。


 彼は奥へ進んだ。


 誰もいない。


 主人の姿もない。


 彼はしばらく立っていた。


 それから窓を開ける。


 海が見えた。


 昔と同じ海だった。


 いや。


 違う。


 昔とは違う海だった。


 それでも彼には、同じように見えた。


 彼は部屋に入った。


 昔泊まっていた部屋。


 そこに座る。


 何もない。


 主人もいない。


 食事もない。


 ただ波の音が聞こえる。


 彼はそこでしばらく過ごした。


 何時間いたのか分からない。


 夕方になった。


 海が赤くなる。


 彼は立ち上がった。


 宿を出る。


 振り返る。


 古い建物がある。


 もう宿ではないのかもしれない。


 それでも、彼には宿に見えた。


 映像が暗くなる。


 映画が終わった。


 彼は席に座ったまま、しばらく動かなかった。


 主人の顔は覚えている。


 声も覚えている。


 何度も会った。


 何百年も同じ場所で話した。


 けれど、最後にいつ会ったのかは覚えていない。


 あの宿がいつなくなったのかも分からない。


 主人が今どこにいるのかも分からない。


 ただ、最後に見た海だけが残っている。


 彼は立ち上がった。


 部屋を出る。


 映画館の廊下を歩く。


 そして外へ出る。


 街には建物が並んでいる。


 人が歩いている。


 車が走っている。


 海は見えない。


 彼はしばらく歩いた。


 ふと、昔の宿で言われた言葉を思い出した。


 ――またどうぞ。


 それが、何千年も経った今でも残っていた。


 彼は足を止める。


 そして、少しだけ笑った。


 もう、あの宿はない。


 主人がどこにいるのかも分からない。


 それでも、


 またどうぞ。


 という言葉だけは、


 まだ自分の中に残っていた。

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