初めての危機
最後の一口、鮭の旨味を噛み締め終えた俺は、ゆっくりと立ち上がった。
目の前に立ち塞がるのは、1層の最奥に鎮座する重厚な石造りの扉。
その表面には、数多の冒険者たちが挑み、そして敗れてきた歴史を物語るような無数の傷跡が刻まれている。
(…… 1 層 のフロアボス。これまでの出現傾向からすれば、間違いなくアイツだ)
この池袋ダンジョン1層にリポーンする魔物は、スライム、コボルト、そしてゴブリンの3種 。
その中でもゴブリンの生息密度が圧倒的に高い。
生態系のピラミッドを考えれば、その頂点に立つのは「ゴブリンリーダー」と見て間違いないだろう。
俺は扉に手をかけ、脳内で戦闘シミュレーションを繰り返す。
初動、火力の集中、そして隠密……。
(落ち着け、落ち着け……よし)
緊張と期待、そして心の奥底に沈殿する不安を冷静な思考で抑え込み、俺は全身の力を込めてその扉を押し開けた。
ギギギ……と、重苦しい音を立てて開かれた先は、 1層のモチーフである「洞窟」をさらに禍々しく拡張したような空間だった。
湿った空気の中に、獣の臭いと魔素の濃い香りが混ざり合っている。
視線の先、広場の中央には、予想通り4体の配下を従えたフロアボスが待ち構えていた。
一般のゴブリンが1メートル から1.2メートル 程度の小柄な体格であるのに対し、中央に座る個体は 1.5メートルを超える巨躯を誇っている。
筋肉の付き方も別格だ。
その手には、1層には不釣り合いなほど手入れの行き届いた、錆一つない短剣が握られていた。
「ギギャ……なんだ、人間ではないのか?モンスターの端くれが、我に何の用だ?」
ゴブリンリーダーが、濁った瞳をこちらに向けて不気味に喉を鳴らす。
モンスター同士の共食いや縄張り争いは珍しくないが、モンスター1匹がボスの間に乗り込んでくるのは、彼らにとっても想定外だったらしい。
「ここに来たってことは、理由は一つだろ」
俺が短く答えると、周囲を固めていたゴブリンたちが「ゲギャギャ!」と、鼓膜を抉るような醜い笑い声を上げた。
「我らとやり合おうっていうのか。面白いやつもいたもんだな。おい、チビ。今なら食わずに見逃してやる。その尻尾を巻いて、とっとと穴ぐらへ帰るがいい!」
下卑た笑みを浮かべ、武器の腹を叩いて挑発してくるゴブリンたち。
その傲慢な態度に、俺の口元も自然と吊り上がった。
「ああ、それは大丈夫だ。すぐに終わらせてやる。かかってこいよ……“鬼のなり損ない”たち」
ニヤリと笑い、最大級の侮蔑を込めて言い放つ。
その瞬間、ゴブリンリーダーの表情から余裕が消え、顔面が怒りでどす黒く変色した。
「その減らず口ごと叩き潰してやるッ!お前ら、あのふざけたチビをミンチにしろッ!行けェッ!!!」
命令と同時に、4体のゴブリンが猛然とこちらへ飛び出してきた。
獲物に向かって一斉に群がる醜悪な姿。
だが、それこそが俺の狙いだった。
(よし、剥がれた。ボスの護衛が離れた今こそが好機だ)
俺は一歩も引かず、体内の魔力を急速に練り上げる。
掌に熱が集束し、真っ赤な渦を巻く。
「『ファイヤーボール』」
放たれた巨大な火の玉は、空気を焦がすゴウッという音を響かせながら、配下のゴブリンではなく、後方に陣取っていた「ゴブリンリーダー」へと吸い込まれるように着弾した。
――ドンッ!!!
爆風と共に炎が吹き荒れ、広場に衝撃波が走る。
リーダーの悲鳴に近い咆哮を聞いた瞬間、こちらへ向かっていた4体のゴブリンたちが、まるで時間が止まったかのように硬直した。
自分たちの絶対的な主人が不意打ちを受けたことに、理解が追いついていないのだ。
(その隙、もらった!)
俺は間髪入れずに『透明化』と『気配遮断』を発動する。
MPを4消費し、俺の小さな身体は完全に風景の一部へと溶け込んだ。
ゴブリンたちが慌ててこちらを向き直した時には、もうそこにインプの姿はない。
「どこだ!?」「消えたぞ、どこへ行った!?」
混乱し、闇雲に武器を振り回すゴブリンたち。
俺は音も立てず、死神のようにその背後へと忍び寄った。
狙うのは、一番手近にいた個体の首筋だ。
――ザシュッ!
鋭利な爪を一点に集中させ、頸動脈を深く抉り抜く。
今の俺は筋力値が低い。
力任せに胴体を引き裂くよりも、皮の薄い急所に一点突破で爪を突き立てる方が、確実に命を刈り取れる。
「ギャ!? ギギッ……」
首を押さえ、噴き出す血を止めようと悶えながら、 1 体 目のゴブリンが膝をつく。
「首だ! 見えない敵が、首を狙っているぞ!!」
残りのゴブリンたちが片手で首を守り、もう片方の手で狂ったように周囲を薙ぎ払う。
だが、残念だったな。俺は既にその攻撃範囲から離脱している。
俺は再び姿を現すと同時に、詠唱なしで『ファイヤーボール』を連射した。
炎が着弾するたびに爆発が起こり、逃げ場を失ったゴブリンたちが次々と吹き飛ばされていく。
「お前ら!! 浮き足立つな、こっちへ戻れ!!!」
焦げ跡だらけの身体を引きずり、ゴブリンリーダーが立ち上がって絶叫する。
だが、既に遅い。
2体は既に魔素となって霧散し、残りの2体も致命傷を負って地面に転がっている。
俺は慈悲など欠片も見せず、瀕死の2体の首へと深く爪を突き立て、介錯を終えた。
足元に残されたのは、3つの極小魔石と牙。
目の前には、とうとう独りになったゴブリンリーダーが、震える拳を握りしめて俺を睨みつけていた。
◇
「卑怯者め……! 正々堂々と姿を現せ!!」
ゴブリンリーダーの瞳には、先ほどまでの侮りは微塵もなかった。
そこにあるのは、格上の捕食者を前にした時のような剥き出しの恐怖と殺意だ。
俺は彼が武器を構え直すよりも早く、一気に距離を詰めた。
(悪いな、これは生存競争なんだ。……まずは、それをいただくぞ!)
「『強奪』」
右手を鋭く振り上げ、彼の胸元へと肉薄する。
単なる攻撃ではない。相手の「所持するアイテムの所有権」を強引に剥ぎ取るための魔力が、俺の爪に宿る。
ザクッ、という肉を断つ感触と共に、リーダーの胸と右腕に深い裂傷が刻まれた。
『スキル:強奪が成功しました』
システムメッセージと同時に、俺の手の中には一本の「短剣」が握られていた。
リーダーが大切に持っていた、1層では場違いなほど美しい得物だ。
「なにがあった……!? 返せ!! 俺の武器を、俺の短剣を返せぇぇぇ!!!」
相棒を奪われた絶望からか、リーダーは正気を失ったように両腕を振り回して暴れ狂う。
(……ここまでだな)
一度距離を取り、 MPを込めた最後の一撃、『ファイヤーボール』を放つ。
リーダーは咄嗟に両腕で頭を庇うが、爆炎を完全に防ぐことはできない。
その身体が大きくよろめき、ガクンと膝をついた。
俺は影のようにその背後へと回り込む。
手にしたばかりの、彼の「元・愛剣」を逆手に構え、首筋へと狙いを定めた。
「じゃあな」
――ドシュッ。
吸い込まれるように、刃が吸い込まれた。
鮮やかな緑色の血が噴水のように噴き出し、ゴブリンリーダーの身体が大きく痙攣する。
やがて、その巨体は静かに黒い煙へと変わり、 宙へと溶けて消えていった。
戦いの後には、ボスの証である「ゴブリンリーダーの爪」が一つ、無造作に転がっていた。
俺はそれを拾い上げ、シャドウインベントリへと放り込む。
(危なげなく終われたな。これなら、1層の周回は現実的だ)
ふと見ると、岩場の影に古びた「宝箱」が出現していた。
ダンジョンの気まぐれで現れるランダム報酬。
俺が期待を込めて蓋を開けると、中には「ゴブリンリーダーの短剣」が1本と、淡く赤く光る「小魔石」が1つ収められていた。
(……っ! 食べたい……今すぐ噛み砕きたい……!!)
その瞬間、魔物としての本能が暴走しかけた。
脳内に響く、暴力的なまでの食欲。
だが、俺はギリリと奥歯を噛み締めて耐え抜いた。
この小魔石(赤)1つで、2500円 以上の価値がある。
紗奈への信頼の証として、これは取っておかなければならないのだ。
俺は震える手で小魔石をインベントリにしまい込み、2本の短剣を両手に持つ。
これは今後の俺の「武器」として使わせてもらう。
今の俺には、これ以上に心強いものはない。
◇
その後、俺は2層への階段を敢えて無視し、1層の周回ルートへと戻った。
新たな武器である2本の短剣は、驚くほど俺の手に馴染んだ。
MPが切れても、俺にはこの層では圧倒的な「敏捷値」がある。
ヒット・アンド・アウェイを徹底すれば、正面からでもゴブリンを翻弄し、一方的に屠ることが可能になっていた。
2周目の周回が終わる頃には、レベルも9へと上昇。
全てが順調。
既に目標の金額には届いているはずだ。
だが、蓄えは多いほうがいい。
そう思いながら挑んだ3周目のボス戦。
その「慢心」が、俺を奈落へと突き落とした。
いつも通り『ファイヤーボール』でリーダーを牽制し、隠密スキルで背後から手下のゴブリンを片付けていく。
最後の一体の首を撥ねようとした、その瞬間だった。
――ドゴォッ!!!
背中に、巨大な岩でも叩きつけられたような衝撃が走った。
「ギィッ……ア、ガ……ッ!?」
肺の中の空気が強制的に押し出され、視界が白く点滅する。
俺の小さな身体は紙屑のように吹き飛び、冷たい地面を何度も転がった。
焼けるような背中の痛みに耐えながら、なんとか顔を上げる。
そこには、右腕を大きく振り切った姿勢のゴブリンリーダーが立っていた。
その足元には、砕けた岩の破片が散らばっている。
(……投石か……!?)
俺の姿は見えていなかったはずだ。
だが、あいつは倒れた部下たちの配置から、俺の現在位置を予測し、闇雲に「石」を投げたのだ。
それが運悪く……いや、あいつの執念によって、俺の背中に直撃した。
(クソッ……油断した! こいつ、ただのリーダーじゃない……『投石』のスキル持ちだったのか!)
慌ててステータスを確認する。
名前:サク 種族:インプ レベル:9
HP:24/52
MP:19/44
筋力:G (22)
耐久:G (19)
敏捷:D (152)
器用:F (53)
魔力:F (82)
運 :F (74)
■スキル
透明化、盗む、気配遮断、ファイヤーボール、強奪
たった一発。
大きめの石を投げられただけで、俺のHPは半分以下にまで削り取られていた。
これが、耐久「G」のインプという種族の、残酷なまでの現実だ。
「ギギャァァッ!! そこか! そこにいるんだな!!」
俺の苦悶の声を逃さなかったリーダーが、次の大岩を拾い上げる。
もう『透明化』を維持する余裕はない。
MPも残り少ない。
(『ファイヤーボール』は、あと3発 が限界か……。余裕がないな……)
俺は祈るような心地で、残った魔力の全てを掌に注いだ。
逃げ場を失ったネズミの足掻きではない。
これは、土壇場の「底力」だ。
「食らええええ!!」
咆哮と共に、 2連続 で放たれた『ファイヤーボール』。
一発目がリーダーの掲げた岩を粉砕し、二発目がその無防備な胸中へと直撃した。
凄まじい爆炎が広場を包み込み、リーダーの巨体がバラバラに弾けて霧散する。
残された最後の一体も、俺はふらつく足取りで近づき、短剣でその首筋を確実に斬り裂いた。
静寂が戻ったボスフロア。
俺は地面に転がるアイテムと小魔石(赤)を回収したが、そこに勝利の喜びはなかった。
あるのは、冷や汗が止まらないほどの恐怖と、己の未熟さへの嫌悪感だ。
(……順調にいきすぎていたんだ。この身体は、一度のミスも許されない……)
残りのMPはわずか9。
この日、俺はただ慎重に、ゆっくりと仮の住処へと帰還した。




