あ~真如堂!
金戒光明寺の山門にやられた後、境内のお堂2つくらいにお参りして、すぐ隣にある真如堂へと移動する。
金戒光明寺は、山門こそ立派で桜景色としても一級品だが、境内全体として見ると、花見スポットとしてそれほど充実している感じでもない。桜を目当てに来た者としては、やっぱり真如堂のほうに心惹かれる。
金戒光明寺の本堂から左へ進むと、塔頭の石垣と白壁に挟まれた風情ある通りが続いている。そこを歩いていって、さっき山門の手前にあったような、いかめしい門をまたくぐると、すぐ前に満開の桜が見えてきた。真如堂の門前だ。このお寺は、入り口からしていっぱいの桜が出迎えてくれる。
境内と道路を区切る柵から、ボリュームたっぷりの桜があふれて流れ落ちている。中に入っても、あちこち上質な花景色に満ちているが、見ごたえで言うと、ことによるとこの門前のあたりが随一かもしれない。
しばし道路で眺め浸ってから、いざ境内へ。
真如堂にも当然山門がある。朱塗り鮮やかな堂々とした門なのだが、さっき眺めた金戒光明寺のそれがあまりにもデカすぎたので、正直あまり印象に残らない。
金戒光明寺の山門は地面から一段高くなっていて、階段を登ってくぐる感じだが、こっちは地べたの上に建っている。それもそのはず、この門からは車も出入りするのだ。カザリモノではなく、今も現役バリバリの「生きた門」っていうわけだが、それがかえって、印象を薄めてしまっているような気がする。
その門をくぐると、真ん中にゆるやかな石段と、その先にそびえる本堂、両サイドには石畳の道が続いていて、このあたりはさすが京の古刹、上質な風景に満ちている。石段を進んでいくと徐々に近づいてくる本堂は、なかなかの迫力だ。
真如堂は、正式には真正極楽寺っていう名前の天台宗のお寺。その歴史は平安時代に始まるものの、もともと別のところにあって、今の場所に落ちついたのは江戸時代になってからだとか。ご本尊の阿弥陀如来は庶民を救ってくれる仏様として、昔から信仰を集めてきた。
このあたりのハナシは、本堂前の説明板に事細かに書いてある。
真如堂っていうのは、もともとはこの本堂のことなんだろうけど、このお寺の全体を表す呼び名として通っている。たしかに、正式名称と比べるとだいぶ親しみやすいネーミングだわな。
この呼び名が、いつのころからか、「あーシンニョド!」なんていう、いかにも関西らしいダジャレを生むに至ったようだ。このへんも、庶民に親しまれてきたお寺らしい。
本堂は、拝観料なしで上がってお参りできるので、貧乏旅行者にはとってもありがたい。靴を脱いで、段差の大きい木の階段を登っていって、障子戸を入って畳に座ってお参りする。
普段は秘仏になっていてご本尊の姿を直接拝めないが、写真が置いてあるので、厨子の扉の向こうにその姿をイメージしつつ、合掌。
お参りを済ませて、ふと右のほうに目をやると、サイドの障子が1か所開いていて、桜咲く境内の一角が見える。
障子戸の向こうに、若葉と桜の眺め……。これまた、額縁に切り取られた景色の妙ではないか。それプラス、暗い堂内から明るい庭を眺めているっていうのも、欠かせないファクターに違いない。
しばし眺めて、上質な春景色に浸る。
本堂から縁側に戻ると、少し高いアングルから、あちこちに花咲く境内を見わたせて、実に気分がいい。さあ、ご本尊へのごあいさつも済んだことだし、京らしい花景色を拾いつつ、境内のお参り回りを始めよう。
さっきの金戒光明寺は、お参りするお堂としては本堂ともう1つくらいしかなかったが、ここ真如堂は大小とりどりなお参りスポットが充実している。個人的に、こういうお寺がなぜか妙に好きなのだ。
山門と本堂の中間あたりに建っている三重塔は、小ぶりだがなかなか絵になるし、このくらいのサイズのほうが庶民的で似つかわしい。その裏手に回ると、これまた小ぶりなシダレザクラが隠れている――木々に囲まれてひっそりと咲いているので、思わずそんなふうに描いてみたくなったのだが――。
京都のお寺でよく見る一本桜みたいに、これ見よがしにポーズを決めるようなところは一切なく、気付いた人にだけ見てもらえれば結構と言わんばかりに、すっかりまわりに溶けこんでいる。これまた、庶民のお寺・真如堂に似つかわしい。
そんなふうに境内を回っていくと、ちょっとしたお堂に桜、鐘つき堂にも桜。純和風なモロモロに、ひとつひとつ桜が寄り添って、いちいち上質な春景色を見せつけてきて小憎いばかりだ。
本堂の横まで来ると、それに沿って桜が並木になっていて、見上げると、ちょうど黒い軒をバックに桜が映えるようになっている。ここはちょうど、さっき堂内から障子戸越しに見えたあたりだ。
その額縁に切り取られた花景色も極上だったが、外からは外からで、お天道様のもと、古建築をバックに眺め上げるのもまた極上。思わず立ち止まって見とれてしまう。
桜だけ探して眺めていても十分楽しめるのだが、この時期の京のお寺、桜だけじゃない。本堂裏手の薬師堂のあたりには黄色いサンシュユが咲いているし、本堂の反対のサイドまで回っていくと、ミツバツツジやらアセビやら、それぞれに目を楽しませてくれる。
これだけ上質な花景色に満ちていながら、このお寺、やっぱり人出が控えめだ。あちこちで写真を撮っていたりそぞろ歩いていたり、人を見かけはするのだが、これくらいなら乱されずに落ち着いて浸っていられる。
これが、清水だとか平安神宮だとか、あんな超一級の有名観光地だったら、桜を見に来たやら人を見に来たやらっていうような有様だろう。
そんなことを考えながら上機嫌で境内をめぐっていって、新長谷寺とかいう名前の観音堂に着いたときのこと。
その前で、4人くらいのグループが何やら始めようとしている。このグループ、これまで境内で見かけた人々とは、どこか明らかに違うフンイキをまとっているのだ。
――コイツら、日本人じゃないな――
直感的にそう感じた。見た目は特にそう強く感じさせるものはないのだが、1人は縁側の上でスマホをいじり、他の数人は、お堂の正面にある灯篭のろうそくを置くところに、スマホか何かを設置して、何やらポーズをとっている。
そう、日本人だったらまずやらないであろうことをしているわけだ。さしずめ、インスタグラムだかティックトックだかの撮影だろう。
うう、なんかやだな……どうしようかな……。
お堂ってもんは、当然お参りするためにあるはずだが、そんな素振りはカケラも見せない。すべてが被写体でしかないんだろう。正直、こういう輩には近付きたくもない。
でも、こっちは今、お参り回りをしているところだ。いわば目的外利用しているヤツらのせいで、お参りする側がパスして他へっていうのは、どうにも本末転倒に思えてならない。
イヤだけど、意を決して宝前へ。
こっちがお堂に近づいても、意に介するふうもなく平然と続けている。そしてよく見ると、こともあろうか、石でできたお線香台に腰をかけているではないか!
それに気付いた瞬間、頭の中で何かがプツンと音をたてた。そして気付くと、手に持っていたガイドブックで、お線香台の手前のフチを叩いていた。
パンッ!っていう乾いた音。舞い上がる灰。
さすがにこれは多少効き目があったとみえて、お堂の前にいるヤツらはどいた。でも、縁側の1人は、まだそこで誰かと電話している。
宝前へ進んだ私は、いつもだったら、南無観世音菩薩とかご真言あたりを軽く唱えながら手を合わせるくらいのところを、たいして覚えてもいない観音経の一節なんぞ唱えはじめた。しかも、ひとりごとではありえないくらいのボリュームで。
きっと、その姿だけでなく、声まで消したかったんだろう。でも、いくらそうしていたって、気になるものは気になるし、はっきり言って、お参りどころじゃない。かといって、早々に切り上げるのもシャクにさわるし……。
結局、どれくらいそうやってお堂の前にいただろうか。
ようやくお参りを切り上げて振り返ると、灯篭の正面でまだ何かやっているが、参道なのでかまわず突っ込むと、自動ドアのように通り道が開いた。新薬師寺を後にする。
……ああ、なんということだ……よりによって仏前で腹を立ててしまうとは……せっかくの真如堂、あんなつまらないもののせいで台無しにしたくない……なかったことにしよう、なかったことに……。
さっきまでの上機嫌なんて、とっくに消し飛んでいる。早く平常心に戻ろうと、平静を装ってあたりを眺めながら歩くが、いつもだったら見とれるようなベニシダレすら、止まって眺めている気になれない。
そうやってフラフラと石畳を進んで、だいたい境内を一周したあたりのところの植え込みに、ヤマブキの黄色い花がいっぱい咲いている。お気に入りの花のひとつだ。
みんな、春風に軽く揺れながら、この世に憂さなんてどこにもないものかのように、平和に、朗らかに微笑んでいる。ここにヤマブキが咲くことは前から知っているが、今日はヤケに目にしみるなあ。
ああ、君たちは、えらいね……。
おかげでいくらか気を整えて、それからどれくらい真如堂で過ごしただろうか。その後、かの輩は見かけもしなかったが、境内を後にするまで、もとのような穏やかな春心地を取り戻すことはなかった。
京都らしい上質な桜景色に満ちていながら、人出が控えめで静かに桜を楽しめる花見スポット、真如堂。とってもいいお寺なんだけど、いいことばかりじゃないよなあ。まったく、京のお寺で心地穏やかに桜を愛でるのは難しい。
あー、真如堂!




