シカ・ネコ・桜
2夜続けてネットカフェで夜を明かし、迎えた今日も、奈良の桜を楽しむ旅を続ける。今日のメインは、法隆寺の桜だ。法隆寺といえば、文化財の宝庫にして修学旅行のメッカとして有名だが、意外と桜も紅葉も充実しているので、どちらかというと花見・紅葉狩りスポットとして利用させてもらっている。
昨日は遅くまで動いたので、今朝はだいぶのんびりなスタートになった。泊まったところが泊まったところだけに、頭はいまいちさえないが、今日も朝からいい天気。心地いい花見になりそうだ。
ネットカフェからほど近いファミレスのモーニングで朝飯を済ませて、さあどうするか。
駅にも近いので、このままJRに乗って法隆寺に向かってもいいのだが、せっかくだから奈良公園以外のこのへんの桜も楽しんでいきたい。頭の中に奈良市街の地図を広げて、桜スポットをピックアップして検討した結果、ならまちエリアに寄っていくことにした。
ならまちと聞いて、それが何かパッと浮かぶ人は、いったいどれくらいいるんだろうか。JR奈良駅と奈良公園を結ぶ三条通りの南側に広がるエリアだ。
奈良公園とは打って変わって、大きなお寺や神社はひとつもなく、建てこんだ町中に小さな寺社が点在している。古くは江戸時代ごろから残る町家が低い軒を連ねる、レトロムード満点な狭い通りが縦横に続いて、観光というより町歩きを楽しめるのが魅力の町だ。
建てこんだ町中だけに花見スポットは少ないが、それでも印象的な桜景色を持ったところはいくつかある。しかも、それほどマイナースポットというわけでもないのだが、奈良公園とは比べものにならないくらい、観光客が少なくて落ち着いていて、そこが何より魅力的だ。駅へ向かう前に、そんなならまちの桜スポットにちょっと寄っていこう。
昨日たたずんだ猿沢池から南へ歩くと、すぐに道が狭くなる。ならまちエリアに突入したわけだ。このあたりは、まださほど「古い町並み」然とはしていないが、町歩き気分は盛りあがってくる。
そんな通りを、いくつか角を曲がりながらたどっていくと、1つ目のスポット、元興寺に着いた。ここは元々、極楽坊と呼ばれていたところで、奈良時代の建物が残っていて世界遺産に登録されている。
この元興寺という名前が、ならまちを歩くうえで最大のキーワードになる。ここならまちは、いにしえの大寺の跡にできあがった町なのだ。
その昔、ここには元興寺という、東大寺とか興福寺に匹敵する巨大なお寺の境内が広がっていた。だが、東大寺みたいに現代まで大寺でありつづけることはなく、平安時代終わりくらいからあちこち傷みはじめて、室町時代の土一揆の火事でほとんどの建物が焼けて一気に衰退。その跡が戦国時代終わりくらいから町に変わっていって、今のならまちができたんだとか。
今や、もとの境内のほとんどは、地名にその名残をなんとかとどめているくらいだが、
・お坊さんが住んでいた僧房の跡(今いるここ)
・五重塔の跡
・小塔院
のわずか3か所だけが、町並みにうずもれるようにして、元興寺の流れを汲んだお寺として法灯を維持している。他にも小さなお寺とか神社が点在しているので、それらをたどりながら町歩きを楽しむのが、ならまち歩きの基本スタイルといっていいだろう。
今いるこの元興寺――昔あった元興寺のハナシと紛らわしいし、五重塔跡のお寺もそう称していてややこしいので、極楽坊って呼ぶほうがしっくりくるのだが――は、昔の僧房だった建物を改造して、曼荼羅をまつったお堂が残るお寺。拝観料を払ってじっくり見るほどの時間はないので、門前から眺める。
庭の桜がちょうど見頃だ。門から見えるお堂はかなり巨大に見えるのだが、これでも昔の伽藍のうち、イチ僧房に過ぎないわけで、今はなき大寺の迫力に圧倒される。
しばし庭の桜を愛でて、さあ次へ行こう。南側の小道を右へ曲がって進むと、格子窓が目をひく古民家が目立つようになって、レトロムードが高まってきた。ならまちの中心部に入ったわけだ。
そんな中、ちょっとした路地然としたところに山門が現れる。元興寺の名を継ぐもうひとつのお寺に到着だ。
さっきのお寺と区別するために、「元興寺塔跡」なんて呼ばれたりする。今は拝観料が必要で、しかも週末だけしか入れないが、この旅の頃までは無料で毎日入れた。
入ると、建てこんだ町中の裏の空き地みたいな空間がパッと開ける。そこが、元興寺にあったという五重塔の跡地だ。
あの東寺の五重塔より高かったとかいう説もあるようで、室町時代の土一揆でも焼けなかったものが、江戸末期の火事で焼失。今は1メートルくらいの高さの正方形した平地に、礎石がいくつか草にうずもれているばかりだ。
他にお堂とかお社もあるのだが、どれも小ぢんまりしているし、特に目をひくようなもんじゃない。とにかく、この塔跡のためにあるようなお寺だ。
そう、言ってみれば、地味でパッとしないスポット。でも、古都を訪れる旅人だったら、その空間を見上げて、そこにいにしえの大塔のそびえる姿をイメージして、往時に思いを馳せるような楽しみ方を心得ていたいところだ。それが旅人としてのタシナミってもんだろう。
で、その正方形の一角に、枝ぶりの見事な桜の古木がたたずんでいて、花どきには、この空間を春色一色に染めて見せてくれる。聖母マリアが幼子イエスに手を差しのべるがごとく、礎石の上に心憎く枝を伸ばして、遺跡を守っている格好だ。
他にも何本か桜が咲くし、スイセンやらチューリップやら、境内のあちこちに草花も植えてある。訪れる人もまばらだし、なかなか心地いい花見スポットだと思う。
門を出て、さあ次。すぐ近くに、さっきお話しした3か寺の最後の1つ、小塔院があるので寄っていく。
ただ、このお寺、たどり着くのがちょっと難しい。なにせ敷地自体が狭いうえに、門がことのほか狭くてさりげなく、見つけにくいのだ。いつだったか、それまでに何度か行ったことがあるにもかかわらず、なかなか見つからなくて諦めたことがあった。
今日はちゃんと地図で確認して、その道を行くと……ああ、あったあった。何度見ても、つくづくさりげなくて、つつましやかな山門だ。ただ、このならまちは、建っているものがみんな小ぢんまりとしているので、かえってこのほうが、町並みに溶けこんで好ましいかもしれない。
その門をくぐって境内へ。さっきの塔跡にもまして「裏の空き地」感が強くて、しかもずっと狭い。さらに、敷地全体が木の下にあるような格好で、ここに来れば、「うっそう」の一語が真っ先に浮かんでくるだろう。
するとその時、何やらただならぬ気配を感じて、その木が生えているあたりを見ると、立派な雄ジカが立っていてビックリ。そりゃあ、奈良公園に行けばシカなんていくらでもいるが、ここは町中。奈良公園エリアとは何百メートルか離れている。いくら奈良だからって、こういう町中でシカを見かけることはそうそうない。事実、ここには何度も来たことがあるが、ここでシカと会ったのは初めてだ。
向こうもこっちと同じくらいビックリしたとみえて、目を丸くしてこっちを見ていたかと思うと、次の瞬間、焦って逃げ去っていった。そんなに焦らなくたって、べつに取って食いやしないのに。どっちへ逃げたって町中なんだが、どこへ行こうっていうんだろう。そもそも、ここへ何しに来たんだろう……。
気を取りなおして、お参りお参り。ただ、お参りっていっても、このお寺には、かろうじてお堂だと分かる建物が1つあるだけだ。仏様を見られるわけでもない。でも、これが本堂なんだろう。その前で手を合わせる。
すると、今度はその足元にネコ登場。ほう、このお寺には、シカだけじゃなくてネコもいるのか。
シカはべつにここで飼っているわけじゃないだろうけど、このネコは飼いネコらしい。よく見ると、つながれている。ネコの場合、イヌと違って、飼っていたってふつうはつないだりしないだろうが、ときどきつながれたネコを見かけることもあるなあ。
お前、どっかでなんか悪さでもしたんじゃないのか?
当方、生まれてこのかた、動物を飼ったためしはないが、こういう小動物と触れあうのは嫌いじゃない。ところがこのネコは、立っていると寄ってきたりするわりには、手を伸ばすと逃げていく。うーん、どうも触れあわせてはくれないらしい。
そんなつれないネコはほっといて、あらためて境内を見わたす。すると、狭い境内の空いっぱいに、満開の桜。そう、この空間をその枝で覆いつくしている木っていうのは、桜なのだ。しかもなかなかの古木らしく、幹も太くて立派だし、枝ぶりがたいそういい。しばし、向きあう。
周りの建物の壁に囲まれていて日当たりがあまりよろしくないので、花びらが春の陽に照らされて白く輝く感じでもないし、天気が良いわりに青空バックっていう感じにもならない。でも、文句なしの花盛り。
しかも、五重塔跡にもまして人っ気がなく、誰にも乱されずに心置きなく花と向きあえる。広い広い奈良公園で、陽をいっぱいに浴びた桜を愛でるのもいいが、ときにはこんな花見もいいもんだ。
ちょっとしたお屋敷くらいのサイズのお寺だが、シカもいるし、ネコもいるし、桜も楽しめる。いやはや、このお寺、狭いからって侮れないぞ……。




