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宿もないのに花会式

 ようやくたどり着いたファミレスで、気忙しさに突っつかれながら夕飯を済ませて、たそがれの中を薬師寺へ急ぐ。

 ん? なんか声が聞こえるぞ……結局宿はどうなったんだって?

 もう、諦めました……。


 奈良公園歩きと同じく、これまで花会式を拝観するときは、奈良市内のゲストハウスから出かけてきて、終わったらそこへ帰って泊まったもんだ。泊まる宿も確保していないような、こんな心もとない花会式は初めてだ。

 でも、まあ、なんとかなる。そう信じるしかない。

 これから、遠く奈良時代から我々を見守りつづけてきた、ありがたいお薬師様のおん前に参るのだ。ご加護を祈るとしよう。お薬師様に祈るには、ご利益の種類が違うような気もするのだが……。


 なんとか開門までに南大門に到着。隣の通用口の前で、何人か列を作って待っている。ほどなく通用口がカタリと開いて、列の面々に続いて、おおかた暮れきった薬師寺の境内へ。


 薬師寺は、言わずと知れた奈良の有名観光地。修学旅行で訪れたという人も多いだろう。東大寺とか法隆寺ほどじゃないにしても、拝観時間中はそこそこにぎわう。その拝観時間が夕方に終わって、一度閉まった門が、この花会式の期間中だけは、またこうして開いて参列者を迎え入れてくれるわけだ。


 宵の薬師寺境内は、昼の賑わいを想像できないくらい、ひっそりと静まりかえっている。その中に、武骨な柱の建ちならぶ回廊とか、東西両塔とか、これから千古の行法が始まる金堂なんかが、宵闇に溶けこんで無言でそびえている様は、不気味なようでもあり、圧倒されるようでもあり、身の引き締まるのを禁じ得ない。拝観時間中のように、あちこちのお堂をお参りして回ることはできないが、逆にこの雰囲気は、昼の拝観じゃ決して味わえないだろう。


 そんな中、金堂の石段の下で、列を作って入堂を待つ。やがて、駅に近いほうの門から入ってきた人々が着くと、お坊さんの説明があってから扉が開いて、ゾロゾロと金堂の中へ。

 入るとすぐに、お経本を手渡される。これから始まる花会式の法要で唱えられる、声明の文言が載ったお経本だ。


 この花会式、とってもユニークなことに、お坊さんだけじゃなくて、拝観する我々もいっしょになって声明を唱えるのだ。

 花会式で声明を唱えるお坊さんたちは練行衆れんぎょうしゅうと呼ばれるが、当然、声明の稽古を積んだうえで法要に臨んでいる。そこを、我々一般拝観者には、生まれてはじめて来た者であっても、お経本を渡して、稽古ひとつすることなく、「練行衆の声明を聞きながら、どうぞ見よう見まねで思いっきり唱えてみてください」……。

 この、おおらかさ。

 大和路に千古の法要数あれど、こんなにおおらかな法要は他にないだろう。これがまた、他にはない花会式の大きな魅力のひとつだと思う。


 花会式の法要は、正式には、薬師如来に罪を懺悔するという意味で薬師悔過(けか)というが、拝観者もいっしょになって唱えるこのスタイルは満堂悔過と呼ばれている。昭和の時代に活躍した名物管主の高田好胤(こういん)師が、写経勧進で境内の復興が進んだことのお礼として始めたんだとか。高田好胤師は法話がユニークだったので有名だが、アイデアもユニークだったんだなあ……。


 お経本を受け取ったら、ご本尊にお参りしつつ席につく。例によって、ご本尊のまわりは造花でいっぱい。

 夜の金堂に妖しく浮かぶ、黒光りした薬師三尊像と華やかな造花に見とれているうち、お坊さんの説明が始まって、ほどなく突然の鐘の音に驚かされる。練行衆を呼びこむ鐘だ。


 やがて、10名程度の練行衆が、石の床に下駄の音を響かせて入堂する。そしてこんどは法要の始まりを告げる鐘が響いて、それを合図に、練行衆の1人が祭壇の前へ。このお坊さんが、これから始まる声明を先導するのだ。


 声明っていうと、みんなどんなものを連想するんだろう?

 特にピンとくるものはない人も多いだろうけど、あるとしても、天台声明みたいな、上品で音楽的なものを連想する人が多いんじゃないだろうか。

 だが、奈良の古寺で唱えられる声明は南都声明と呼ばれ、それらよりずっと素朴で力強い。その中でも薬師寺の声明は、パワフルさでは最強だろう。


 まずは1人で、低く抑えた調子で唱えはじめ、少しずつ声量もトーンも上げていって、ひとしきり進むと、あるところから全員でそれに唱和する。

 初めのほうこそ、ゆったりした節回しで朗々と唱えるパートが続くが、進むにつれてボルテージが高まっていき、「南無薬なむや」の三唱でひとつの頂点を築く。「南無薬師瑠璃光(るりこう)如来」の略なわけだが、1回目はふつうに、2回目はそこそこ大声で、そして最後はあらん限りの声を振り絞って絶叫するのだ。

 声明と呼ぶには少々荒っぽすぎるきらいはあるが、素朴な信仰心をストレートにぶつける感じがして、熱いものを覚えるので個人的に好きだ。


 その後も、声を上下に大きく揺らしてみたり、上ずらせてみたり、突然1音だけ大声を叩きつけてみたりと、薬師寺の声明のエモーションを存分に体感できる時間が続く。お経本を見ながら、練行衆の声に身を委ねつつ無心に唱えていると、やがて初夜の行法は終了。


 全員で声を合わせるアクティブなパートは終わりを告げ、こんどは、練行衆の最重鎮である大導師がひとりで祈りをささげる、「大導師作法」と呼ばれる行法が始まる。周りで見ている我々のみならず、他の練行衆もそれを見守る、静かな祈りのパートに入るわけだが、この後に、花会式のクライマックスともいうべき呪師しゅし作法という儀式が待っているのだ。


 大導師作法が続く中、呪師と呼ばれる、密教的なまじないを担当する練行衆が座を立って、いろいろな所作や呪文を始める。大切な大導師の祈りに邪魔が入らないよう、魔除けの儀式を引き受ける役回りだ。これまでの声明とはかけ離れた、独特なフンイキの呪文を唱えたかと思うと、堂内を回って結界をはったり、鈴を鳴らして四天王を勧請かんじょうしたりする。


 そしてそれがひととおり終わると、堂内がにわかに暗くなり、堂内後方からのひと声を合図に、鐘と太鼓が鳴りはじめ、それに合わせて練行衆がほら貝を吹き鳴らす。すると、兜のような帽子をかぶった呪師が、真剣をかざしつつ身をかがめて、堂内を小走りで回っていく。「呪師走り」と呼ばれる儀式だ。


 ジャパニーズ・オーケストラとでも呼びたくなる迫力の大音響と、薄暗い中を駆け抜ける呪師のものものしさ。満堂悔過と並んで、花会式最高の魅力って言っていいだろう。他では決して味わえない。


 そんな、一度味わったら忘れられないひとときが過ぎると、明るさが戻ってきて呪師作法が終わり、ほどなく大導師作法も終了。続けて、また全員で声明を唱える半夜のパートが始まる。

 さっきと同じ文句をもう一度唱えることになるわけで、勝手にも慣れてくるし、気分も乗ってくるし、初夜よりいくらか積極的に唱えられるようになるだろう。


 省略もあるので初夜より短めだが、堂内が声で満たされる迫力と、そこに自分の声が混ざりあう一体感を心ゆくまで味わう。やがて最後のひとくだりを唱え終わると、全員で三礼。練行衆が下駄を鳴らしつつ退堂して、春の宵の行法は幕を閉じた。


 薬師三尊の1体1体と向き合ってお参りしてから、お経本を返して金堂から出ると、春らしい優しい寒さの中、夜空におぼろ月が浮かんでいる。服に染みついたお香の香りが鼻をくすぐって、千古の行法の余韻に浸る、なんとも満たされたひととき。


 ……でも、これから帰る宿が、ないんだよなあ……。


 泊まれる宿がない以上、お寺を出て目指す先は決まっている。奈良のネットカフェだ。門を出て駅へ向かい、もともとそれほど本数の多い路線ではないが、夜になってさらに少なくなった電車を待って、やがてやってきたそれに乗って近鉄奈良駅へ。


 その道すがら、宿もないのにこんな夜遅くなっちゃって、大丈夫なのか俺?、っていう思いと、なーに奈良にだってネカフェはあるし、大丈夫大丈夫、っていう思いが、灯台の光みたいに、代わるがわる心を明るくしたり暗くしたりしつづける。

 ネットカフェは、布団に寝られるわけじゃないものの、安く泊まれるし、予約もせずに気軽に飛び込みで使えて気楽ではあるのだが、ネットカフェにだって満員はあるわけだ。


 そんな心もとない灯台に照らされながら、近鉄奈良駅に着いて、屈辱のコインロッカーからザックを取り出し、いざネットカフェへ。歩きながら、大丈夫、と何度自分に言い聞かせたろうか。


 こんどのネットカフェは分かりやすいところにあって、たどり着くのに手間取ることもなかった。入ると、昨日のそれより小ぢんまりとした感じ。フロントでスタッフに尋ねる。

「あのー、フラットのブースなんですけど、空きあります?」

「フラットは……あー、埋まっちゃってますね……」

 唾が、ゴクリとひとつ大きく音をたててノドを落ちていく。

「あーそうですか……空きそうにないですかね?」

「あ、少々お待ちください……今清掃に入ってまして、お待ちいただければご案内できます」

 そんなもん、選択の余地なんてあるか。

「じゃあ、そのへんで待たせてもらっていいっすか?」

 宿なしの流浪の民っていう最悪のシナリオからは解放されたようだが、どれくらい待たされるんだろうか。店内のフロント周りあたりを見回すともなく見回しながら待つ。すると、ほんの2~3分くらいだったか。

「お待たせしました。ご案内します」

 この瞬間、ようやく、このネットカフェが今宵の宿となることが決まった。


 伝票を受け取って、そこに書いてある番号のブースへ。昨日は鍵付き個室だったが、ここには、壁で囲われて天井が開いている、いわゆるブース席しかない。でも、これがネットカフェのスタンダードなスタイルだっていうのは知っている。とにかく安く泊まれりゃいいんだ。


 ブースに入って荷物をドッカりと下ろし、今宵もドリンクバーでココアを注いで、すする。

 かくして、つい昨日、人生初のネカフェ泊を果たしたばっかりなのに、いきなりネカフェ2連泊と相成った。

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