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死に損ない

「陰鬱な夏が、もう始まっていた」

灰音は後ずさった。

今度は、本当に。

足を縛るものは、もうない。

鹿の輪郭は、彼女の視線に合わせて歪んでいく。

まるで「見る」こと自体が、その存在を変質させているかのように。

「鹿が喋るなんて……ありえない。」

それでも、確かに聞いた。

あの「やあ」という声を。

あんな音が、勝手に頭の中に生まれるはずがない。

それとも――

閉じこもりすぎて、壊れてしまったのか。

頭が、割れそうに痛む。

痛みは全身へと広がり、

皮膚の内側を何かが這うようだった。

「……あの鹿……」

その瞬間。

黒い奔流が森を覆い尽くす。

上から、とろりとした闇が流れ落ちる。

まるで密閉された部屋の中に立っているみたいだ。

闇の奥。

真っ赤な眼が、ひとつ。

じっと。

見ている。

見透かしている。

見抜いている。

灰音の瞳に、恐怖が走る。

見透かされるのは嫌いだ。

剥がされるような感覚が、嫌いだ。

血の海が、また押し寄せる。

今度は、記憶ごと。

最も黒く、最も深い記憶。

――咀嚼音。

壊れたテープのように、繰り返される。

止まらない。

灰音は膝をつく。

両手で頭を抱える。

「やめて……」

「お願い……もう、やめて……」

けれど闇は止まらない。

むしろ、彼女を溺れさせようとする。

黒の中に、ぼんやりと浮かぶ影。

母の姿。

震える手を、伸ばす。

「……お母さん……」

次の瞬間。

血飛沫が、彼女に降りかかる。

生臭い匂い。

目を閉じる。

終わらせたい。

消えてほしい。

だが、瞼の裏でも同じ光景が続く。

咀嚼音は、まだ鳴っている。

「どうして……?」

無意識の問い。

目を開く。

鹿が、また笑っていた。

「最初から、逃げ場なんてなかった。」

「それでも――どうして逃げようとする?」

鹿の声が、また響く。

けれど灰音は、もう聞きたくなかった。

ここから出たい。

あの異様な鹿を、見たくない。

あの視線は、心臓の奥まで抉るようだった。

「私を見ろ。」

ぞくり、と背筋が震える。

「……あの鹿を、見る?」

後ずさる。

その瞬間、背中が何かにぶつかった。

黒い壁。

空間が閉じる。

箱の中に閉じ込められたように。

黒い液体が、とろりと腕に触れる。

冷たい。

振り払おうとするが、離れない。

むしろ、皮膚に絡みつく。

もがく。

無駄だった。

闇はゆっくりと、しかし確実に彼女を飲み込んでいく。

恐怖が、肺を締め付ける。

黒が頭上から顔へと流れ落ちる。

「やめて……!」

止まらない。

完全に、包まれる。

上下もわからない闇の中。

鹿の姿も、森も消える。

息ができない。

黒が肺の奥へ流れ込み、内側から満たしていく。

本当に、死ぬ。

「今、死んだら……

お母さんや、兄さんに会えるのかな……」

「……お母さん……」

そのとき。

闇が、消えた。

森の匂いが戻る。

灰音はゆっくり目を開ける。

地面に膝をついていた。

両手は、自分の首を強く締めている。

他の誰でもない。

自分で。

鹿の姿は――

どこにもなかった。

灰音は、すべて幻覚だと自分に言い聞かせた。

けれど――あまりにも現実的だった。

喉の奥には、まだ窒息の感覚が残っている。

肺は焼けるように痛い。

立ち上がる。

足取りは重い。

森を出ようと歩き出す。

だが一歩進むたびに、さっきの光景が頭の中で再生される。

あの鹿。

あの視線。

思い出すだけで、胃がねじれる。

吐き気。

嫌悪。

生臭さ。

見透かされる感覚が、内臓を裏返す。

無意識に口を押さえる。

かすかに、血の匂い。

さっきの血の海の残り香のように。

木の幹に手をつき、吐いた。

地面に落ちたものは、胃液だけではなかった。

血。

赤黒い血。

それが土に触れた瞬間――

じゅ、と音を立てて煙を上げた。

見間違いだ。

きっと、そうだ。

そうであってほしい。

だが。

違う。

確かに、煙は立っている。

灰音の瞳が、わずかに翳る。

「……私、どうしたの……?」

再び吐く。

また、血。

また、煙。

立ちのぼる煙は、腐臭を帯びていた。

これ以上ここに立っていたら、

本当に中身がなくなるまで吐いてしまいそうだった。

口元を拭い、歩き出す。

森を出る。

それでも。

頭の中から消えない。

あの鹿。

夏の呪いのように。

「……あの笑い……」

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