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第一話 あの角が、また私を見ている

「そしてまた、ひとつの夏が始まった」

陰鬱な夏がやって来た。

氷室灰音にとって、それは地獄の拷問のようなものだった。

外では、足音と笑い声が絶え間なく響いている。

それだけで、息が詰まりそうになる。

夏休みなんて、来なければいいのに。

すべてが、こうでなければいいのに。

生臭い記憶が、意識の奥へと流れ込む。

――咀嚼音。

頭の中で反響する。

壊れたカセットテープのように、何度も、何度も。

音は次第に大きくなる。

やがて、彼女はその音に飲み込まれていった。

天井は、もう見えない。

視界のすべてが、血に染まる。

灰音は自分の喉を掴む。

まるで深い血溜まりに溺れかけているかのような、あまりにも現実的な感覚。

咀嚼音が、頭を締め付ける。

咀嚼音が、心を侵す。

やがて、歪んだ笑い声が響いた。

遠くから。

森の奥から。

灰音は血の海でもがく。

逃げ出したいのに、何かが足を引きずり込む。

視界が暗くなる。

呼吸が乱れる。

その瞬間。

彼女は跳ね起きた。

悪夢から引き戻されたように。

台所の方から、奇妙な音がする。

灰音はベッドから降り、ゆっくりと廊下へ出る。

台所には、何もない。

それでも

一筋の光。

いや、そう見えただけかもしれない。

胸の奥には、まだ血の海の息苦しさが残っている。

気づけば、彼女は森の中に立っていた。

遠くに、ひとつの影。

鹿の角を持つ者。

整ったスーツ姿。

霧のように揺らぐ輪郭。

無意識のまま、

彼女はさらに、森の奥へと足を踏み入れていく

灰音は、一頭の鹿を見た。

その瞬間、重たい空気が彼女を包み込む。

頭の奥が、じんじんと鳴る。

咀嚼音が止まらない。

目を見開いたまま、凍りつく。

嫌悪と恐怖が、同時に込み上げる。

鹿なんて、嫌いなのに。

逃げ出したい。

背を向けたい。

それなのに、何かが彼女をその場に縫い留める。

見えない糸のようなものが、足を絡め取る。

辺りには血の匂いが漂う。

まるで血の海の中に立っているみたいだった。

けれど、不思議と息苦しくはない。

赤黒い水面に、いくつかの泡が浮かぶ。

彼女は、その奇妙な鹿を見つめる。

触れたい衝動が、胸の奥から湧き上がる。

けれど――

触れたくない。

そのとき。

声がした。

「触れてごらん。」

鹿が、喋った?

そんなはずがない。

聞き間違いだ。

きっと、そうだ。

灰音は触れたくなかった。

それなのに――

「触れてごらん。」

その言葉が、胸の奥に残る。

触れたい。

でも、触れたくない。

甘く、重たい響き。

見えない力が、彼女を引き寄せる。

それでも、背を向けたい。

鹿なんて嫌いだ。

細長い身体も。

空へ伸びるあの角も。

「ただの鹿だ。」

そう、自分に言い聞かせる。

ただの鹿。

ただ、それだけ。

さっきの声はきっと、

血の海で溺れかけた後遺症だ。

幻聴に決まっている。

――本当に?

本当に、幻覚なのか。

それとも、あの鹿が本当に喋ったのか。

恐怖に見開いた瞳は、まだ揺れている。

一歩、下がりたいのに。

足が重い。

まるで、この瞬間から逃げることを

許されていないかのように。

灰音は一歩、踏み出した。

無意識のまま。

距離は縮まったはずなのに――

同時に、遠のいていく。

触れられるほど近いのに。

まるで最初から、ここに存在していないかのように遠い。

鹿が、笑った。

ぞっとするような笑み。

灰音の内側をすべて見透かすような、そんな笑み。

嫌だ。

その笑い方が、嫌いだ。

似ている。

失踪した兄の笑い方に。

あの年。

兄も、ああやって笑った。

笑って。

また、笑って。

そして、消えた。

完全に。

胸が締め付けられる。

空気が重い。

まるで鉄の檻に閉じ込められたみたいだ。

鹿の視線が、歪む。

頭の奥にひびが入るような痛み。

鹿の輪郭が揺らぐ。

いや、歪んでいるのは世界のほうかもしれない。

ここから逃げたい。

森から。

この狂った光景から。

けれど

鹿は、もう一度笑った。

そして。

「やあ。」

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