灰音……お腹、空いたの
やっと君に会えたよ、灰音
—禍角 綾—
夢。
繰り返される夢。
決して抜け出せない夢。
――咀嚼音。
血飛沫。
血が顔に、鼻に、降りかかる。
黒い影。
死。
すべてが混ざり合い、理解不能な塊になる。
血の海が、また押し寄せる。
息ができない。
鼻腔に血が流れ込む。
沈む――
その瞬間、灰音は跳ね起きた。
両手で、自分の首を締めている。
森の中と、同じ。
朝の光が、部屋を白く染めていた。
初夏。
まだ完全な夏休みではない、曖昧な時期。
背中は汗で濡れている。
顔色は、青白い。
震える手を見る。
「……私、どうしたの……?」
重たい身体を引きずるように起き上がる。
制服に着替え、灰色の長い髪を整える。
家を出る。
夏の光が、やけに眩しい。
なのに、どこか陰鬱だ。
いつもの通学路。
笑い声。
それが、今日はやけに耳障りだった。
ようやく学校へ辿り着く。
教室へ入り、後ろから二番目の席に座る。
そして、気づく。
後ろの席に、誰かがいる。
女子生徒?
それとも男子?
わからない。
いつから、そこに?
どうして、今まで気づかなかった?
「……おかしい。」
名前も、思い出せない。
まるで、最初から存在していなかったかのようだ。
「……私より、年上に見えるのに。」
その顔。
その目。
同い年のそれではない。
考え込んでいると――
一人の女子生徒が後ろの席へ歩み寄る。
「綾先輩、今日ちょっとお願いがあるんですけど……」
その人物は、微笑んだ。
先輩?
どうして?
灰音の記憶が、ざわめく。
綾?
誰?
その瞬間。
森の鹿の笑みが、脳裏に蘇る。
背筋が凍る。
同じだ。
まったく同じ。
無意識に口元を押さえる。
吐き気が込み上げる。
そのとき。
「具合、悪いの? 灰音。」
灰音は顔を上げた。
さっきの人物。
綾。
反射的に、後ずさる。
ぼんやりとした記憶がよぎる。
――このクラスに、留年している人がいるって聞いた気がする。
もしかして、この人?
思考はそこまでしか届かない。
それ以上、考えられない。
けれど綾は、じっと彼女を見ている。
瞬きもせずに。
「……あの視線……」
皮膚の奥まで覗き込むような目。
森の鹿と、同じ。
吐き気が込み上げる。
嫌悪。
どうしようもない嫌悪。
それでも綾は、視線を逸らさない。
(何て言えばいい……?)
答えたくない。
反応したくない。
けれど黙っていたら――
この視線は、終わらない。
それに。
どうして、私の名前を。
同じクラスなら知っていて当然なのに。
綾に呼ばれると――
まるで、ずっと前から知っているかのようだった。
「……大丈夫、です。」
声がかすれる。
それでも綾は、動かない。
立ったまま。
見ている。
「本当に? それとも、無理してる?」
ぞくり、と背筋が冷える。
大丈夫だと言ったのに。
どうして、離れない。
近くにいるだけで、生臭い匂いがする。
錯覚かもしれない。
それでも、胃が軋む。
灰音はさらに後ろへ下がる。
綾は、動かない。
そのとき。
教室の扉が開く音。
教師が入ってくる。
ようやく綾は、ゆっくりと微笑み、
何事もなかったかのように席へ戻った。
綾は授業中ずっと、灰音を見ていた。
振り返らなくても、わかる。
背後からの視線。
離れない。
胸が、重くなる。
その瞬間——
血の海が、また溢れ出す。
息苦しさが増していく。
誰も見えていない。
この血の海を。
灰音以外は。
……いや。
違う。
背後の綾は——
きっと、見えている。
いや、感じている。
血が鼻に流れ込む。
肺に流れ込む。
天井も、床も、壁も。
黒く染まっていく。
あの森と、同じ。
黒い層が、頭上から滴り落ちる。
「やめてよ……!」
誰も聞こえない。
誰も振り向かない。
誰も助けない。
ぞくり、と背筋が震える。
綾が、目の前に立っている。
けれど。
綾は助けない。
黒い層から引き上げない。
ただ、見ている。
まるで。
灰音が死んでいく様子を楽しむように。
綾の背後に——
ぼんやりとした鹿の影。
幻覚だ。
そうに違いない。
でも、これで二度目だ。
この黒い層に溺れるのは。
ただの幻覚のはずがない。
黒が肺に流れ込む。
焼けるように痛い。
ひとつの願いが浮かぶ。
「……いっそ、殺してよ……こんなふうに苦しめるくらいなら……」
だが。
今回は、黒が消えない。
最悪の願いを抱いても。
綾は、微笑む。
その笑みが、たまらなく気持ち悪い。
黒はゆっくりと流れ続ける。
飲み込みきらない。
けれど、遅いからこそ——
一秒一秒が、痛い。
咀嚼音が響く。
すぐ近くで。
目の前。
血だまりの中に立つ綾。
「灰音……」
優しい声。
「お腹、空いたの。」
灰音の瞳孔が開く。
この瞬間——
本当に。
息が、できなかった。




