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遠くの方で雑踏と駅特有の効果音が混ざり合っている。隔たりの向こう側に人の気配を感じる。数秒してベルトの金具の音、チャックを閉める音、このあたりで大体見当はついていた。足音がし、ジャー、と小便器の流れる音がした。足音は右の方へと移動していき、また別の流水音。水が手に当たり弾けている音、こすり合わせている音。流水音が消え、ペーパーを三回引き出す音。足音は、雑踏と駅特有の効果音の方へ消えていった。
夕夏は瞼を開けた。
手をぐーぱーしてみる。
現実味があった。先程まで見ていたのは夢だったのだろうか。それとも幻覚だったのだろうか。人気のないラピュタのような場所での居心地の良さは鮮明に思い出せた。瀬尾悠という男から逃げていた際の息の上がり方も思い出せた。ただ、今思えば現実味がない。トイレの便座の上で座りながら駅構内の音に耳を澄ませている今の方が、圧倒的に現実味があった。
訳もなく個室内を見渡した。
鍵が閉まっていないことに気が付いた。すぐに自分の膝に目を落とした。
「スカート……制服……」
ピンときた次の瞬間、駅構内の方から足音が近づいてきた。それも足早に。夕夏は咄嗟に手を伸ばし、個室に鍵を閉めた。
トイレ内に入ってきた足音は、夕夏のいる個室の前で止まった。扉の下に影が見えた。その影は左に移動した。隣の扉が開き、鍵の閉まる音がした。
間違いない。
隣にいるのは瀬尾悠だ。
制服に男子トイレ。どういう理屈かわからないが、夕夏が瀬尾を線路に投げ入れる前に時間が巻き戻っている。いや、巻き戻っているとも限らない。夕夏がさっきまでいた遺跡や摩天楼での記憶は夢や幻覚の類であり、これから起こることを示唆していたデジャブみたいなものかもしれない。事実、便座の上でうなだれていたのだから、寝てしまっていてもおかしくはない。その間に見た夢――。
夢とは到底思えなかった。もしかしたら隣の個室にいるのは瀬尾ではないかもしれない。だが、確認しようにもここは男子トイレだった。彼が出ていった後に出るしかなかった。でもそれでは、これ以降、瀬尾との連絡を取る手段は無くなってしまう。
恥を忍んで隣の個室をノックするか。
いや、もっといい方法があった。今外に出て、トイレの入り口で待っていればいいのだ。彼の顔は知っている。彼が出てきたところで呼び止めれば……。
そのとき、別の足音がトイレ内に入ってきた。夕夏は、その人の足音に耳を澄ませ、彼が出ていった後に扉を開けようと決心する。
すると、隣の個室の鍵が開く音がした。焦った。恐らくまだ小便器の前には誰かいる。洗面台の方で流水音はしなかった。瀬尾は手を洗わずに出ていった。今でなければ瀬尾を見失う。
夕夏は恥を忍んで鍵を開け、飛び出した。傍目に男性の背中が見えた。きっと自分の姿は見えていない。そう願いながらトイレの外に出、左右を見渡す。
左に、改札に向かう背中が見えた。
追いかけながら名前を呼ぼうか迷った。
迷っているうちに、瀬尾は改札を抜けていた。
遠ざかるその背中を眺めていた。
人にまみれ、見えなくなった背中。
夕夏は立ち尽くした。
俯いた。
そのときブレザーのポケットに何か入っていることに気づいた。この感触……お守りのように持ち歩いていた消滅世界。他は? スカート……ない。まさか胸ポケットの中に……何か入っているのに気づいた。
四つ折りになっている雑誌の一ページには、油性のマジックで住所が書かれていた。渡された覚えはない。おまけにこの雑誌、夕夏が瀬尾を殺したことを調べた記事のはずだ。まだこの世界にあるはずのない雑誌の切れ端。
これ以降、夕夏が瀬尾と出逢わなければ、瀬尾が死ぬことも、夕夏が瀬尾を殺すことも、瀬尾が夕夏を殺すこともないはずだった。
わかってはいるのにそうせずにはいられない感覚は、長年押し入れに閉じ込めていた卒業アルバムを引っ張り出す感覚に似ていた。




