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「優しい人が困っていたからやった――俺にもその気持ちはわかる。人に気を使うために生まれてきたような、本当に些細なことにでも相手の立場に立って自分のことのように考えられる人は、俺の生きてきた生活の中でも少なくはなかった。ごめんなさいが口癖になるくらいで、ありがとうの使いまわしをしない人。ありがとうよりも先にごめんなさいが来る人。本当に申し訳なさそうに謝るんだ。これって意外と難しいことだと思う。毎日幾度となく発される『すみません』と『ありがとうございます』は、彼らにとって口癖ではないみたいだったよ。実際には多用しているのに。そういう人が困っているのは見るに堪えない気持ちになるんだ。
もしその人がサービス業の店員だったら。コンビニに来た客に理不尽に怒鳴られる光景。「なんでキャスターもわからねーんだ」ウィンストンだからだ。「ねえ、ショートホープ」ショートなんて名前に入っていないじゃないか。そう言われたから彼は必死に煙草の銘柄を覚えた。全部。
もし居酒屋の店員だったら。悪酔いした客が閉店間際になっても出ていかない。「そろそろ……」と声をかければ、「は? なに。出てけって言ってんの?」そういうことじゃない。今まで数多の客が守ってきたルールを守ろうよって話だ。あなたたちだけ特別扱いはできないってだけで、彼女は別に帰って欲しかったわけではない。今までも閉店間際まで残っている客はいっぱいいた。そのたびに声をかけた。「もうちょっとダメ?」と訊かれても断ってきた。あなたたちだけ特別扱いしたら、渋々帰っていった客たちに申し訳が立たない。後ろめたい。そういうクソ真面目な人が困っている姿を見ると、相手のことを殺してやりたくなったものだよ。脳内で百回は殺した。ホールから戻るなり彼女は涙を堪えていた。代わりに俺がレジに立った。会計に立った彼らの一人の目。その卑しい目。「なんだよ、殴るわけ?」と言われ、俺が拳を握っていたことに気が付いた。客だからと高を括っていたお前はきっと外国に行ったことがない。嫌に挑発され、連れの人からもかまうなと諭され始めたとき、レジのペン立てに刺さっていたカッターでぶっ刺していた。そこからはなし崩しみたいなもの。一度刺してしまえば二度も三度も同じだ。馬乗りになって眼球を抉った。胸を叩いた。悲惨な死体になった光景――数々のシチュエーションで、何度も夢に見た。何度も頭の中で殺した。優しい人が困っている、泣いていること以上の不条理はないと思った。世の中的には悪くなくても謝って、宥めて、そうする方が大人なんだ。「よく耐えたね」って褒められるんだ。俺には褒めてくれる人なんていなかったけど。
優しい人が困っていたからやった――そう思うには、思ったからって本当に実行できるには、自分もそっち側にいないと思えるはずもできるはずもない。だからさ……」彼は、私が掌で広げていた雑誌をそっと閉じた。
「泣くなよ。どこかの馬鹿真面目で、他人の心に入り込んで、勝手に共感できちゃう奴が殺しに来るかもしれないだろう?」
目頭から鼻の筋に流れ星みたく流れた。表情は一切変えず、ただ涙が零れる。自分が泣きたいのではなく、身体が泣いてしまう。
「きみだよ。俺自身だ。お前が彼らを犯罪者にした」
そいつは俺を線路に投げ入れた。そして俺は死んだ。そして俺はここに来た。そして俺は追ってきた。俺を殺した女子高校生を。
「あの日、公衆トイレに駆け込んだ日、僕も君と同じことを思った。一目惚れなんて信じたことはなかったけど、こういうことを言うのかもしれないと思った。自分と全く同じ人間が目の前にいるとき、何かのレーダーが埋め込まれているみたいに身体が共鳴する。まるでそうしなくてはならないと、脳が誰かにプログラミングされているみたいに。そんな感覚を持った。同時に、きみの心も覗けてしまったから、俺もきみも同じことを思ったんだ」
「同じこと?」
「そう。あの日、俺もきみを殺そうとしていた」
愛は、使い捨てのビニールのようだった。路肩に落ちたビニールの横をトラックが六十キロで駆け抜ける。ビニールは不規則に宙を舞った。落下地点は、誰も知らない。
帰る場所などない。親に先立たれ、実家はあのくそみたいな父親――赤の他人の住処。帰る場所はない。
それでも身体は人間だから、愛が欲しい。自分のせいじゃない。
醜い定規で自分の生き方を測ってみる。
普遍的な欲求と自分の理想の相違。
できることならセックスなんていらないし、寝たくもないし、トイレに行く時間も飯を食う時間も無駄。
まわりまわって、お前のせい。自分が助けなくてもよかったことでも、その場で解決したことでも、自分が見て見ぬふりをした以上、その日から罪は積もり始める。
変わった後の自分を想像するのが嫌いだった。
変化が怖かった。
傲慢だった。相手の背中に自分の背負っているものを一部でも背負わせることに、追い目を感じた。一生に一度の相手の人生に己が加担する――むやみやたらと干渉できなくなった。
世の中が平和になっていくたびに、便利になっていくたびに、首は絞めつけられた。一度上がった生活水準は、簡単には下げられないのだ。コンビニがない生活、スマホがないガラケーの生活、ガラケーもない生活。電子機器も、高貴な街も、服も、ビルもなかった、農村で自給自足する時代にはもう戻れない。
ここが二人だけの死後の世界なのだとしたら、何の怯えもなく永久に生きていける。
「死のうと思ってたんだ。あの日の次の日、俺が唯一信じてみたいと思った人の結婚式があったんだ。その結婚式で彼女を遠くから眺めたら、もう本当にやることがなくなる。でもその前にきみと出逢ってしまった。生きているのが辛そうなきみが、見るに堪えなかったんだ。俺が誰かに殺してほしいから、きみも誰かに殺してもらいたいんだろうなって勝手に思っていた。自分がそうだからって他人もそうな訳じゃない。傲慢だね。もし、もう一度やり直せるんなら、結婚式までは生き延びたいなあ。俺もきみもトイレで出会うべきじゃなかった。それとも、トイレではなくもっと違う形で出会えていたらその後の行方も変わっていたのかな。いろいろ後悔が残った。死ぬ直前になってさ」
まあ、もう、死んでいるのだが。




