歪ー35 収穫
屋敷から離れるにつれ、背後に響いていた楽団の音色も次第に遠ざかっていった。
広い前庭には等間隔に街灯が並び、その柔らかな光が石畳の道を照らしている。
人影は少なく、周囲の様子を窺いながら馬車の待機場所へと歩みを進めると、庭園を囲む生け垣の向こうに何台もの馬車が並んでいるのが見えた。
屋敷の正面で客を降ろした馬車は、この場所に移され、御者たちも少し離れた休憩所で待機している。
……さて、ベルナー子爵と乗ってきた馬車はどこだ?
広い敷地には数え切れないほどの馬車が停められており、遠目ではそれぞれの違いを見分けることも難しい。
俺は周囲の気配を探りながら列の間へ入り込み、一台ずつ馬車を確かめていく。
時折、遠くから人の話し声が聞こえてくるものの、幸いこちらへ近づいてくる気配はない。
そうして何列か見て回ったところで、ようやく見覚えのある馬車が目に留まった。
……あった。
間違いない、ベルナー子爵と一緒に乗ってきた馬車だ。
再度、周囲に人影がないことを改めて確かめてから馬車へ歩み寄り、扉を開ける。
俺はリーネを背負ったまま慎重に車内へ乗り込むと、座席に背を向け、彼女を降ろせるようゆっくりと身を屈めた。
「リーネ、もう大丈夫だ。手を離していいぞ」
「……はい……」
肩に回されていた腕が緩み、背中に感じていた重みが座席へと移っていく。
その瞬間、何もなかったはずの空間が淡く揺らぎ、リーネの姿がゆっくりと浮かび上がった。
その様子を見ていたユシルが、小さく肩をすくめる。
「ちょうど時間切れみたいね。いやー、ギリギリだったわ」
……危なかったな。
あと少し魔法が切れるのが早ければ、誰かにリーネの姿を見られていたかもしれない。
俺はすぐさま馬車の扉を閉めると、改めて座席に腰掛けるリーネへ目を向けた。
「……リーネ?」
声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……あの……」
「どうした?」
「……本当に……外へ、出られたんですか……?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「……そう、ですか……」
リーネは小さく呟くと、膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締め、そのまま俯いてしまった。
……ひとまず、ここまでは何とかなったな。
だが、これですべてが解決したわけではない。
彼女の鎖骨の下には、今も奴隷契約を示す魔法の刻印が残されている。
できることなら、この場で解除してやりたいところだが、禁忌とされる奴隷契約だ。
迂闊に手を出して、彼女の命に関わるような事態を招くわけにはいかない。
リーネはヴァレンティア公爵を追い詰める上で、重要な証人となる存在だからな。
とりあえず、今はこのままにしておいた方がいいだろう。
俺は刻印から視線を外し、改めてリーネの様子を窺った。
彼女は相変わらず俯いたまま、膝の上で小さな手を握り締めている。その顔には疲労の色が濃く、時折、眠気に抗うように小さく頭を揺らしていた。
……随分と疲れているようだな。
無理もない。あの地下牢でどれほど過酷な日々を送ってきたのか、今の俺には想像することしかできない。
聞きたいことは山ほどあるが、今の彼女にあれこれ尋ねるのは酷だろう。
まずは安全な場所で、ゆっくり休ませてやりたい。
もっとも、そのためには、まだ一つ問題が残っている。
リーネを無事に連れ出せたのはいいが、このまま誰にも気づかれず、彼女をハンス公の屋敷まで連れていかなければならない。
地下牢で透明化してから、屋敷の中を移動し、馬車へ辿り着くまでに掛かった時間はおよそ三十分。
途中で公爵に呼び止められたこともあったが、魔法は馬車に乗り込むまで持続していた。
……思っていたより長く持ったな。
これなら、夜会が終わる頃にもう一度透明化してもらえば、ハンス公の屋敷に着くまでは姿を隠しておけるだろう。
「――ユシル」
「はいはい、分かってるって。帰りの馬車でも見えなくしておけばいいんでしょ?」
ユシルは面倒くさそうに片手をひらひらと振ると、肩をすくめてみせた。
「ああ。夜会が終わるタイミングで頼む。ここからハンス公の屋敷まで持たせたいからな」
「ったく、あんたってほんと人使い荒いんだから。これは別料金だからね!」
「分かったよ」
俺は小さく息をつき、窓の外へ視線を向けた。
すでに夜会も終盤に差しかかっているのだろう。
屋敷の正面玄関付近では、使用人たちが客の見送りに向けて準備を進めている様子が見えた。
休憩所にいた御者たちも動き始めている。
屋敷側から帰宅する客への対応を始めるよう連絡が回ってきたのだろう。
馬車の間を行き交う人影が増え、馬を繋ぎ直す音や車輪の軋む音が辺りに響き始めていた。
今のうちに屋敷へ戻った方がよさそうだ。
「リーネ、俺は一度屋敷に戻る。御者が来ても、慌てず息を凝らし、馬車の中で大人しく待っていてくれ」
「はい。わかりました……」
ユシルがリーネに向けて手をかざすと、淡い光がその小さな身体を包み込んだ。
光が薄れていくにつれ、座席に腰掛けていたリーネの姿も次第に透け始め、やがて衣服もろとも完全に見えなくなった。
「よし。これで大丈夫そうだな」
俺はリーネが座っている辺りへ再び目を向ける。
「リーネ、何があっても、馬車の外には出ないようにな」
「はい……」
返事を確かめてから、俺は馬車の扉へ手を掛けた。
周囲では御者たちが忙しなく出発の準備を進めている。
俺とユシルはこちらへ注意を向ける者がいないことを見計らい車外へ出ると、何事もなかったかのように屋敷へ向かって歩き出した。
夜会の終わりが近づき、会場内では招待客たちが名残を惜しむように挨拶を交わしていた。
俺は談笑する貴族たちの間を縫うように進みながら、やがて玄関広間の一角で数人の貴族と言葉を交わしているベルナー子爵を見つけた。
「ベルナー子爵」
俺が声を掛けると、ベルナー子爵は貴族たちとの会話を切り上げ、こちらへ向き直った。
「どうだったかな、今夜の夜会は?」
「ええ、大変勉強になりました。貴重な機会をいただき、ありがとうございます」
俺が礼を述べると、子爵は満足そうに頷いた。
「それはよかった。では、そろそろ我々も帰るとしようか」
「はい」
ベルナー子爵が貴族たちに別れを告げると、俺も丁寧に一礼し、子爵とともに玄関広間を後にした。
屋敷の正面には、帰宅する貴族たちを迎える馬車が次々と乗りつけ、使用人たちが御者へ合図を送るたびに、停車していた馬車が一台、また一台と動き出していく。
やがてベルナー子爵の馬車も正面玄関へ姿を現し、御者が扉を開け俺たちを迎えた。
俺は子爵に続いて馬車へ乗り込み、向かいの座席に腰を下ろす。
端には透明になったリーネが座っている為、位置をさりげなく確かめ、彼女に触れないよう注意する。
御者が扉を閉めると、ほどなくして馬車はゆっくりと動き始めた。
車輪が石畳を踏む音とともに、窓の向こうではヴァレンティア公爵邸の壮麗な外観が次第に遠ざかっていく。
向かいに座るベルナー子爵は、今夜の夜会について上機嫌に語っていたが、俺は適当に相槌を打ちながらその話に耳を傾け、時折、窓の外へ視線を向けた。
結局、ヴァレンティア公爵とロイヴァ・カフカの繋がりを示す直接的な証拠は見つからなかった。
だが、収穫がなかったわけではない。
リーネが闇オークションを通じて売買されたことを裏付けられれば、ロイヴァ・カフカとの繋がりを明らかにする糸口にもなるはずだ。
……今夜は、これだけでも十分な収穫だろう。
俺は窓の外から視線を戻すと、何事もなかったかのようにベルナー子爵との会話を続け、何食わぬ顔でヴァレンティア公爵邸を後にした。




