歪ー34 危険な香り
俺は周囲の様子を窺いながら、夜会の会場へと足を向けた。
玄関ホールへ向かうには、屋敷の反対側にある夜会の会場を通り抜けなければならない。
会場に近づくにつれて人々の話し声や楽団の奏でる音楽が大きくなり、やがて煌びやかなシャンデリアに照らされた広間が見えてきた。
中では大勢の貴族たちが談笑を楽しんでおり、給仕たちが酒や料理を載せた盆を手に、忙しそうに行き交っている。
……これは厄介だな。
これだけ人が多ければ、誰かとぶつかる危険もある。
ましてや、背中には姿の見えないリーネを背負っているのだ。
俺は彼女の脚を軽く叩いて合図を送ると、肩にしがみついたのを確かめてから両手を離した。
肩に回された細い腕が、かすかに震えている。
……もう少しだけ頑張ってくれ。
俺はできるだけ人の少ない場所を選びながら、何食わぬ顔で会場の中へ足を踏み入れた。
幸い、招待客の多くは目の前の会話や料理に夢中になっており、俺に注意を向ける者はいない。
そのまま人々の間を縫うように進んでいると、酒の入ったグラスを載せた銀盆を手に、一人の給仕が近づいてきた。
「お飲み物はいかがでしょうか?」
「ありがとう」
俺が差し出された盆からグラスを一つ受け取ると、給仕は丁寧に頭を下げ別の招待客の方へと歩いていく。
俺はグラスを片手に、再び会場を進み始めた。
やがて、会場の半ばまで差しかかったところで、思わず足を止めた。
……おいおい、冗談だろ。
進行方向の少し先に、数人の貴族たちと談笑する一人の男の姿があった。
豪奢な礼服に身を包み、周囲の者たちから一際丁重に扱われているその人物は、紛れもなくこの屋敷の主人、ヴァレンティア公爵だった。
ここで出くわすとは。
できれば気づかれないうちに通り過ぎたいところだったが、あいにく公爵と目が合ってしまった。
……まずいな。
ここで何も言わずに立ち去れば、かえって不審に思われかねない。
背中のリーネも公爵の姿を認めたのか、肩に回された腕にぎゅっと力がこもった。
……仕方ない。
俺は手にしていたグラスを口元へ運び、中の酒を飲み干すと、近くのテーブルへ静かに置き、表情を整えて公爵へ歩み寄った。
「――お初にお目にかかります、ヴァレンティア公爵閣下。ベルナー子爵の甥、アルフレッドと申します」
胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。
「今宵はこのような素晴らしい夜会にお招きいただき、誠にありがとうございます」
「ほう、ベルナー子爵の甥御か」
公爵は俺に視線を向けると、穏やかな笑みを浮かべた。
「今宵は楽しんでもらえているかな?」
「はい。おかげさまで、大変有意義な時間を過ごさせていただいております」
「それは何よりだ」
定型的な会話を済ませると俺は軽く会釈し、これ以上会話が長引かないうちに立ち去ることにした。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
公爵にもう一度頭を下げ、俺はその場を後にする。
幸い、引き止められることもなく、背後では公爵が再び他の貴族たちと談笑を始めていた。
……よし。
このまま何事もなく抜けられそうだ。
俺は安堵しながら人々の間を進み、公爵から少し離れた、その時だった。
「――ちょっと待ちたまえ」
不意に背後から声が掛かった。
……ん?
まさか、俺のことか?
足を止めて振り返ると、先ほどの公爵がこちらへ視線を向けていた。
どうやら、オレで間違いないらしい。
……今度は何だ?
背中に回されたリーネの腕が、ぎゅっと強く締まった。
俺は平静を装いながら、公爵へ向き直る。
「……何かございましたか、公爵閣下?」
公爵は俺の問いにはすぐに答えず、何故かこちらへ歩み寄ってきた。
「なかなか上等な香水を使っているようだな」
「……香水、ですか?」
「ああ。先ほどから、どこかで嗅いだことのある香りだと思っていたのだが……」
公爵はそう言いながら、わずかに鼻を動かした。
その瞬間、背中のリーネがびくりと震えた。
……香水?
そういえば、先ほどから微かに甘い香りが漂っていたような気がする。
だが、俺は香水などつけていない。
となると、この香りは……。
「これは私も気に入っている香りでね」
公爵は満足そうに目を細めた。
「華やかでありながら、どこか落ち着きのある香りだ。私も好んで使っているのだよ」
……公爵も使っている香水だと?
その言葉を聞いた瞬間、嫌な予感が頭をよぎった。
まさか、この香りはリーネのものなのか?
確かに、彼女を背負った時から微かに甘い香りがしていた。
もし公爵がリーネにも同じ香水を使わせていたとすれば、俺からその匂いがすることに疑問を抱いてもおかしくない。
……まずいな。
背中のリーネも何かを察したのか、俺の肩にしがみつく腕に一層力がこもった。
俺は表情を崩さぬよう努めながら、公爵の様子を窺った。
「いやはや、若いのになかなか良い趣味をしている。感心したよ」
「……ありがとうございます。ですが公爵閣下、実はこの香水、母が今日の為に選んでくれた物なんです」
「ほう」
「公爵閣下に失礼がないよう、身だしなみにも気を配るようにと」
「ははは、それはなかなか気の利くお母上だ。それに審美眼もお持ちのようだな」
公爵は愉快そうに笑った。
……どうやら、うまく誤魔化せたようだ。
もっとも、これ以上話を続ければ、どこでボロが出るか分からない。
「お褒めいただき、ありがとうございます。母にもそう伝えておきます」
「うむ、ぜひそうしてくれ」
「それでは、公爵閣下。失礼いたします」
俺が丁寧に頭を下げると、公爵は満足そうに頷いた。
貴族たちの輪の中に戻っていくヴァレンティア公爵を確認し、再度会釈すると、今度こそ俺はその場を後にした。
背中にしがみつくリーネの腕は、まだ固く強張ったままだ。
俺自身、一刻も早くこの場を離れたいところだったが、ここで慌ててはかえって目立ってしまう。
できるだけ自然な歩調を保ちながら人々の間を抜け、公爵の姿が見えなくなったところで、ようやく小さく息を吐いた。
……まったく、心臓に悪い。
まさか、香水の匂いで呼び止められるとは思わなかった。
しかも、相手がよりにもよってヴァレンティア公爵本人だ。
もしあの男がリーネの存在に気づいていたらと思うと、今さらながら背筋が冷たくなる。
俺は周囲に人がいないことを確かめると、再びリーネの脚を支え直した。
すると、肩に回されていた腕から力が抜け、小さな吐息が耳元に漏れた。
「……リーネ、大丈夫か?」
「……は、はい……」
返ってきた声は、ひどくか細かった。
背中越しに伝わる鼓動も、相変わらず速い。
……無理もないか。
あの男が彼女にとってどれほど恐ろしい存在なのかは、先ほどの反応を見れば十分に分かる。
それに、ここまで何度も自分の腕だけで身体を支えているのだ。
体力的にも、そろそろ限界が近いだろう。
「あと、もう少しだ」
「……はい……」
俺は彼女の脚をしっかりと支え直すと、玄関ホールへと足を向けた。
幸い、その後は誰に呼び止められることもなく、無事に会場を抜けることができた。
玄関ホールには数名の使用人が控えていたが、夜会の最中ということもあって、外へ出ようとする俺を不審に思う者はいないようだった。
俺はリーネに合図を送り、彼女が肩にしがみついたのを確かめてから両手を離した。
「お客様、お帰りでございますか?」
玄関扉の脇に控えていた使用人が、丁寧に頭を下げた。
「いや、少し外の空気を吸いたくなってね」
「左様でございますか。どうぞ、お足元にお気をつけくださいませ」
「ありがとう」
使用人が扉を開けると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でる。
俺はそのまま玄関を抜け、屋敷の外へと足を踏み出すと、背後で重厚な扉が静かに閉じられた。
……ふぅ。
どうにか、無事脱出できたようだ。
屋敷から少し離れたところで、肩に回されていた腕から一気に力が抜け、耳元で小さな吐息が漏れた。
「……もう大丈夫だ、リーネ」
「……はい……」
その声には、疲労と安堵が入り混じっていた。
俺は夜会の明かりが漏れる屋敷を一度だけ振り返ると、そのまま馬車の待機場所へと歩き始めた。




