歪ー33 脱出劇
ユシルが小さな両手をリーネへ向けた。
次の瞬間、淡い光が彼女の身体を包み込み、やがて空気に溶け込むように薄れていった。
そして、先ほどまで目の前にいたリーネの姿が、跡形もなく消えた。
寝間着も、長い髪も、すべて見えなくなっている。
「どう? 完璧でしょ?」
ユシルが得意げに笑った。
「……あ、あの……」
何もない空間から、リーネの戸惑った声が聞こえてきた。
「……本当に、見えなくなったんですか……?」
「気になるなら、そこの鏡を見てみなさいよ」
ユシルが部屋の隅に置かれた大きな姿見を指さすと、少しして、鏡の前から小さな足音が聞こえてきた。
「……あ……」
鏡には、誰の姿も映っていない。
「……本当に、見えない……」
リーネの声には、驚きが滲んでいた。
「それじゃ、リーネ――」
俺は声のした方へ手を伸ばし、彼女の位置を確かめると、その場に膝をついた。
そして、リーネの身体を慎重に引き寄せ背中へと回すと、小柄な彼女の身体を背負い、両脚を支えながらゆっくりと立ち上がった。
「苦しくないか?」
「……はい。大丈夫です……」
背中から小さな返事が聞こえる。
リーネは思っていた以上に軽く、これなら移動する分には問題なさそうだ。
「……ねえ、ラック」
「ん?」
「それなら、両手も使えるんじゃない?」
「ああ、そうだな。必要な時にはリーネにしがみついていてもらえばいい」
試しに、彼女を支えていた両手を離してみる。
「リーネ、少しの間だけ、俺の肩に掴まっていてくれ」
「……はい」
背中に回された小さな腕に、きゅっと力がこもった。
俺はそのまま数歩歩いてみたが、特に問題はなさそうだ。
これなら、使用人や招待客とすれ違う際にも、不自然な姿勢を取らずに済むだろう。
「ふぅん。なかなかいいじゃない」
俺は再びリーネの脚を支えると、肩に回されていた彼女の腕から、ほっとしたように力が抜けるのが分かった。
もっとも、透明になったからといって、気配まで消せるわけではない。
人にぶつからないよう注意する必要はあるし、背中に何かを背負っていると気づかれる可能性もある。
それでも、両腕で抱えて移動するよりは遥かに都合がいい。
「それじゃ行くか」
「……はい」
俺はリーネを背負ったまま部屋を出ると、廊下を抜けて階段を上がり、先ほど書類を見つけた部屋へ戻った。
ここから先は警備兵や使用人だけでなく、招待客と鉢合わせる可能性もある。
周囲への警戒を怠らず、できるだけ速やかに屋敷を抜け出したいところだ。
俺は廊下へ続く扉を開き、外の様子を確かめてから部屋を出ると、そのまま夜会の会場へ向かって歩き始める。
しばらく進むと、廊下の先から微かに人の話し声が聞こえてきた。
この先を進めば、一階へと通じる階段があるはずだ。
そこまで行けば夜会の会場も近い。
俺はリーネの脚を支え直し、周囲に気を配りながら廊下を進んでいく。
やがて、別の通路と交わる場所へ差しかかったところで、曲がり角の向こうから一人の男が姿を現した。
黒い燕尾服を身に纏った、初老の男だ。
おそらく、この屋敷の使用人だろう。
その姿を認めた途端、背中のリーネがびくりと身を強張らせた。
俺の肩に回された腕に力がこもり、背中越しに彼女の鼓動が伝わってくる。
俺はリーネの脚を軽く叩き合図を送ると、支えていた両手を離した。
彼女は俺の背中にしがみついたまま、息を潜めている。
そのまま何食わぬ顔で歩き続けようとしたのだが、男は俺の姿を見るなり足を止めた。
「……お客様?」
「ん?」
「失礼ですが、こちらで何をなさっているのでしょうか?」
男は丁寧な口調で尋ねてきた。
その瞬間、肩に回されたリーネの腕が、さらに強く締まった。
背中から伝わる鼓動が、先ほどよりも速くなっている。
小さく、浅い呼吸を繰り返しているのも分かった。
……落ち着け、リーネ。
そう声をかけてやりたいところだったが、俺は彼女の存在を意識させないよう、平然と男へ向き直った。
「ああ、すまない。少し迷ってしまってね。化粧室を探していたんだが、どうやら違う方へ来てしまったらしい」
俺は困ったように笑ってみせた。
男は一度、俺が歩いてきた廊下へ視線を向けた。
「……左様でございましたか。ですが、こちらはお客様がお立ち入りになる場所ではございません」
「そうだったのか。それは失礼した」
「いえ。化粧室でしたら、こちらの廊下を真っ直ぐお進みいただき、突き当たりを右へ曲がった先にございます」
「助かった。ありがとう」
俺は軽く頭を下げ、何食わぬ顔で男の脇を通り抜けようとした。
だが、その時だった。
「――恐れ入りますが、お客様」
再び声をかけられた途端、背中のリーネが小さく震えた。
肩に食い込む指先に、必死さが滲んでいる。
俺は何事もなかったように足を止め、ゆっくりと振り返った。
「まだ何か?」
「差し支えなければ、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
なるほど。
やはり、多少は怪しまれているらしい。
「アルフレッドと申します。今夜は叔父のベルナー子爵に同行して、夜会に参加させていただいております」
「……ベルナー子爵様の甥御様でございましたか」
「はい。慣れないお屋敷で、すっかり迷ってしまいまして。お手数をおかけして申し訳ありません」
「いえ、とんでもございません。こちらこそ、失礼いたしました」
男は丁寧に頭を下げた。
俺は軽く会釈すると、角を曲がり、男の姿が見えなくなったところで、リーネの脚を支え直した。
すると、背中にしがみついていた腕から、少しずつ力が抜けていった。
「……リーネ、大丈夫か?」
「……は、はい……」
耳元で、震える声が聞こえた。
続いて、堪えていた息を吐き出すような、小さな吐息が漏れる。
背中越しに伝わる鼓動はまだ速いままだったが、先ほどまで強張っていた身体からは、少しずつ力が抜け始めていた。
再び廊下を歩き始めると、ほどなくして一階へと続く階段が見えてきた。
幸い、周囲に人の姿はなく、俺はリーネを背負ったまま階段を下りていく。
一階へ降りると、先ほどまで遠くに聞こえていた人々の話し声が一段と大きくなり、廊下を行き交う使用人や招待客の姿も増えてきた。
ここから先は、さっきのように一人ずつ相手をしているわけにはいかない。
それに、ユシルの魔法がいつまで持つか分からないうえ、リーネの細い腕で俺の背中にしがみつき続けるのも限界があるだろう。
あまり時間をかけてはいられない。
まずは屋敷を抜け出し、リーネを馬車の元まで連れていこう。




