歪ー31 隠された秘密
女は扉が開いたことに気づくと、びくりと肩を震わせた。
俺の姿を認めた途端、その顔が強張る。
女は慌てて寝台から立ち上がると、俺から逃れるように後ずさり、部屋の隅まで下がっていった。
薄い寝間着を身につけた、小柄な女だった。
いや、小柄というには、あまりにも身体が小さい。
立ち上がっても俺の腰を少し越える程度の背丈しかなく、長い髪の間からは、エルフに似た形の耳が覗いている。
顔立ちからすれば子供にも見えるが、どこか落ち着いた大人びた面差しもあった。
女は壁に背中を押しつけ、痩せた身体を両腕で抱くようにしている。
その目は俺の動きを追い、少しでも近づけばさらに奥へ逃げようとするかのようだった。
俺は足を止め、ゆっくりと室内を見渡した。
窓のない狭い部屋には簡素な寝台と水差しが置かれ、壁際には小さな棚が一つあるだけだった。
だが、寝台の脇には革製の拘束具が積まれ、壁には鎖を繋ぐためと思われる金具が取り付けられている。
棚の上には香油の小瓶が並び、その隣には日常生活で使うとは思えない、いかがわしい道具まで置かれていた。
先ほどから鼻についていた甘ったるい匂いも、どうやらこの香油によるものらしい。
俺は思わず眉をひそめた。
外側から鍵の掛けられた扉。
逃げ場のない地下室。
そして、男の姿を見ただけで部屋の隅へ逃げ込んだ女。
ここが何のために使われている場所なのか、嫌でも察しがついた。
――奴隷か。
それも、屋敷の仕事をさせるための奴隷ではない。
主人の欲望を満たすため、誰の目にも触れない地下に閉じ込められているのだろう。
奴隷の売買そのものが禁じられているというのに、王都でも有数の貴族が暮らす屋敷の地下に、こんな場所があるとは。
しかも、通路には同じような扉がいくつも並んでいた。
――彼女だけではないのかもしれない。
俺は改めて目を向ける。
彼女は相変わらず俺を見つめ、怯えた様子で身を縮めている。
俺は思わず拳を握りしめたが、すぐに力を抜いた。
今は腹を立てている場合じゃない。
話を聞く為、まずは彼女を落ち着かせることが先決だ。
そういえば、俺はまだ仮面をつけたままだったな。
こんな格好の男が突然部屋に入ってきたのだから、怖がるのも当然だろう。
俺はゆっくりと仮面に手をかけ、それを外した。
女の目が僅かに見開かれる。
俺は素顔を晒したまま、その場に片膝をついた。
「……悪い。驚かせるつもりはなかったんだ」
できるだけ穏やかに声をかけたが、返事はない。
女は壁に背を押しつけたまま、俺の顔をじっと見つめている。
「俺は今夜の夜会に招かれて来た客だ。ここの人間じゃない。もちろん君に何かするつもりもない。ただ、少しだけ俺の話を聞いてもらえないか?」
女は何も答えなかった。
俺はそれ以上近づかず、手にした仮面を床へ置くと、その場に腰を下ろした。
女は俺が何もしないことを不思議に思っているのか、時折こちらの様子を窺っていた。
「……水はちゃんと飲めてるか?」
女の視線が、一瞬だけ寝台の脇に置かれた水差しへ向いた。
それから、ほんの僅かに頷く。
「そうか。食事は?」
今度は返事がなかった。
俺はそれ以上尋ねるのをやめた。
少しずつでも警戒を解いてもらいたいところだが、無理に話を聞き出そうとすれば、かえって怖がらせてしまうだろう。
「屋敷の中を歩いていたら、偶然この地下を見つけたんだ。まさか人が閉じ込められているとは思わなかったよ」
女は黙ったまま俺を見つめている。
「それにしても、ひどい部屋だな。こんなところじゃ、昼なのか夜なのかも分からないだろ。今は夜だ。上では貴族たちが集まって、随分と賑やかにやってる」
俺は少し間を置いてから、再び口を開いた。
「……ここには、長くいるのか?」
彼女はしばらく迷った後、小さく頷いた。
「そうか。外には出られないんだな」
今度は頷きもしなかった。
ただ、身体を抱いていた両腕に力がこもる。
俺はそれ以上、そのことには触れなかった。
何を尋ねても、必要以上に口を開こうとしない。
だが、最初に比べれば、少しは落ち着いてきたようにも見えた。
「そういえば、まだ名前を言ってなかったな。俺はラック。君は?」
女はすぐには答えなかったが、俺の顔を見つめ、何かを迷うように唇を動かしている。
やがて、消え入りそうな声が聞こえた。
「……リーネ、です」
「リーネか。よろしく」
そう言って微笑むと、リーネは戸惑ったように目を瞬かせた。
まだ警戒が解けたわけではない。
それでも、ようやく名前を教えてくれた。
「リーネは、昔からこの屋敷にいるのか?」
リーネは小さく首を横に振った。
「じゃあ、どこから来たんだ?」
その問いに、リーネは困ったように視線を落とした。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい……。馬車に乗せられて、何日も運ばれて……。ここがどこなのかも、知らないんです」
「そうか」
外の様子も分からないまま運ばれてきたのなら、今いる場所を知らなくても不思議ではない。
「それじゃ、元々住んでいたところは?」
リーネは少し迷った後、小さな声で故郷の名を口にした。
俺には聞き覚えのない土地だった。
「そこから連れてこられたのか?」
リーネは頷いた。
「……最初は、知らない人たちに捕まって……」
そこで言葉が途切れる。
俺は続きを促さず、黙って待った。
「……それから、何度も馬車に乗せられて……」
「随分と遠くまで運ばれたんだな」
リーネは小さく頷いた。
その顔には、思い出したくもない記憶を辿っているような苦しさが浮かんでいた。
「……途中で、他の人たちとも一緒になりました」
「他の人たち?」
「はい……。私と同じように、捕まった人たちです」
俺は黙って耳を傾けた。
「……それから、大きな建物に連れていかれて……」
リーネはそこで口を閉ざした。
俺は少し待ってから、静かに尋ねた。
「そこで何かあったのか?」
リーネは俯いたまま、長い間動かなかった。
やがて、震える声で答えた。
「……売られたんです」
俺は思わず眉を寄せた。
「売られた?」
「……はい。私たちは奴隷として……買われました」
そう告げたリーネの声は、ひどく小さかった。
自分が奴隷として売られたことは理解しているらしい。
俺は部屋の隅に置かれた拘束具へ目を向けた。
やはり、そういうことか。
「……どんな場所だったか、覚えているか?」
リーネは少し考えてから口を開いた。
「……誰もいない場所に女の人が二人いて……私たちは、一人ずつ……」
その言葉に、俺は僅かに眉を動かした。
「一人ずつ?」
「……はい。知らない人たちが、私たちを見て……値段を……」
そこでリーネは言葉を詰まらせた。
俺はその様子を見ながら、ある光景を思い出していた。
薄暗い会場。
次々と壇上へ連れてこられる奴隷たち。
そして、競り人の声に合わせて吊り上がっていく落札額。
――まさか。
エルドルンで開かれていた、あの闇オークションか?
白髪に黒い衣装を身にまとい、仮面で顔を隠した二人の女。
――アゲハとコチョウ。
エルドルンの闇オークションで競売を取り仕切っていた、あの二人だ。
偶然にしては、あまりにも特徴が一致している。
俺は改めてリーネの姿を見つめた。
小柄な身体に、エルフに似た耳。
あの時も、珍しい種族や特別な資質を持つ奴隷が次々と紹介されていた。
そういえば、その中に、ひときわ小柄な種族の女がいなかっただろうか。
当時の姿を思い返そうとしたが、記憶は曖昧だった。
顔を一人ずつ覚えているわけではない。
だが、話を聞く限り、可能性は十分にある。
「リーネ。その時、どんなことを言われたか覚えているか?」
リーネは不思議そうに俺を見た。
「……どんなこと、ですか?」
「ああ。例えば、君について何か説明されなかったか?」
その問いに、リーネの表情が僅かに変わった。
そして、ゆっくりと頷く。
「……珍しい種族だから……高く売れるって……」
俺は息を呑んだ。
希少な種族。
小柄な身体。
そして、大勢の客の前で行われた奴隷の競売。
断片的だった記憶が、少しずつ繋がり始めていた。
俺はもう一度、リーネの顔を確かめた。
あの時は遠くの壇上に映し出されていただけだったが、確かに似たリーネに女性がいた気がする。
いや、似ているだけかもしれない。
まだ決めつけるのは早い。
「……その後、ここへ連れてこられたのか?」
リーネは小さく頷いた。
「買われてから、また馬車に乗せられて……気がついたら、この屋敷に……」
「買った相手のことは覚えているか?」
その瞬間、リーネの身体が強張った。
顔から血の気が引き、唇が小さく震える。
俺はすぐに言葉を止めた。
「……悪い。無理に答えなくていい」
リーネは俯いたまま、何も言わなかった。
だが、その反応は気になった。
ただ怖がっているだけなのか。
それとも、何か別の理由があるのか。
俺はしばらく考え、もう一度彼女へ目を向けた。
この屋敷の地下に閉じ込められた奴隷。
そして、エルドルンの闇オークションを思わせる彼女の話。
もし本当にあの競売で売られた奴隷だとすれば、ヴァレンティア侯爵とヘルメースの繋がりを示す、思いがけない手がかりになるかもしれない。
だが、今はそれを確かめるよりも先に、彼女のことを考えるべきだろう。
俺は部屋の隅で身を縮めるリーネを見つめた。
少なくとも、彼女をこのままここに置いていくわけにはいかなかった。




