歪ー30 扉の向こう
――廊下を歩きながら、俺は先ほど広間で見かけた光景を思い返す。
この夜会では直接現金を収めるのではなく、信用証を使ってヴァレンティア家へ拠出する金額を示しているようだった。
実際、何人かの貴族が男に信用証を手渡しているのを見かけている。
もしカフカからヴァレンティア家へ金が流れているのなら、それを示す記録がどこかに残されているかもしれない。
オークションに招待されたという事実だけでも、カフカとヴァレンティア家に以前から付き合いがあった可能性は高い。
だが、それだけでは今回の件に関わっている証拠にはならない。
できれば、もっとはっきりしたものが欲しい。
カフカの名が記された信用証でも、ヘルメースとの金のやり取りを記した帳簿でもいい。
それが見つかれば、状況は大きく変わる。
そんなことを考えながら廊下を進んでいると、前方の角から一人の男が姿を現した。
俺は咄嗟に歩調を緩める。
先ほど広間で信用証を受け取っていた男だ。
男は手に革張りの書類入れを抱え、こちらには目も向けず廊下を進んでいく。
俺は少し距離を空けて、その後を追った。
男は階段を上がって二階へ向かうと、いくつかの部屋の前を通り過ぎ、廊下の奥にある一室へ入った。
俺はそのまま近づかず、少し離れた場所で様子を窺った。
しばらくすると扉が開き、さっきの男が出てくる。
その手に先ほどまで持っていた書類入れはなかった。
男が階段の方へ消えるのを待ってから、俺は部屋の前まで移動した。
周囲に人の気配はない。
もちろん部屋の中にも。
取っ手へ手をかけると、扉には鍵が掛かっていなかった。
中へ入って静かに扉を閉める。
部屋には大きな机といくつもの棚が並び、そのほとんどが帳簿や書類で埋められていた。
机の上には、先ほど男が持っていた書類入れも置かれている。
どうやら、ここで夜会に集まった信用証を管理しているらしい。
俺は書類入れを開き、中を確認した。
何枚もの信用証がまとめて収められており、それぞれに貴族の名前と金額が記されている。
一枚ずつ確認していくが、カフカの名前はない。
当然といえば当然か。
今夜ここに集まっているのは、ほとんどが貴族だ。
カフカとの取引記録があるとすれば、今夜集められた信用証とは別のところだろう。
俺は書類を元通りに戻すと、別の棚へ目を向けた。
並んでいる帳簿の中から金の出入りを記したものを探し出し、手早く中を確認していく。
一冊目を調べ終えて棚へ戻し、続けて別の帳簿を開く。
さらにもう一冊と調べてみたものの、カフカやヘルメースに繋がる記録はどこにも残されていなかった。
やはり、そう簡単には見つからないか。
そう思った時、廊下から複数の足音が聞こえてきた。
足音はそのまま近づき、やがて扉の前で止まった。
今から廊下へ出れば、鉢合わせになる。
俺は素早く室内を見回した。
机の陰に隠れたところで、誰かが入ってくればすぐに見つかる。
窓から外へ出ることもできそうだが、ここは二階だ。
飛び降りること自体は難しくないものの、庭に誰がいるか分からない。
その時、部屋の奥にもう一つ扉があることに気づいた。
俺は帳簿を棚へ戻すと、足音を立てないよう扉へ近づき、取っ手へ手をかける。
幸い、こちらには鍵が掛かっていない。
ゆっくりと扉を開けて向こう側を確かめると、細い廊下が続いている。
背後で扉の取っ手が動く音がしたため、俺はすぐに廊下へ出ると音を立てないよう静かに扉を閉じた。
間を置かず、向こうの部屋から人の声が聞こえてくる。
「今夜の分はこれで全部か?」
「いえ、まだ何人か残っております」
「なら、先に届いている分だけ確認しておこう」
どうやら、さっきの男が戻ってきたらしい。
俺は扉から離れ、そのまま細い廊下を進んでいく。
先ほどまで歩いていた廊下と違い、こちらには華美な装飾がほとんどない。
おそらく使用人が屋敷の中を行き来するための通路なのだろう。
ひとまず一階へ戻ろうと廊下を進んでいくと、やがて下へ続く狭い階段が見つかった。
階段を下りた先にも同じような通路が続いていたが、屋敷の表側から聞こえていた音楽や話し声はかなり遠くなっている。
広間へ戻るなら、ここから表側へ抜ける道を探せばいい。
そう考えて歩き出したところで、廊下の奥にある一枚の扉が目に留まった。
他の扉とは違い、随分と頑丈な造りをしているうえ、しっかりと鍵まで掛けられている。
俺は足を緩め、その扉を眺めた。
先ほど調べた帳簿には、カフカやヘルメースに繋がる記録は何もなかった。
だが、もし表に出せない金のやり取りがあるのなら、普段使っている帳簿に堂々と残しているとも考えにくい。
そうしたものを別の場所に保管している可能性はある。
俺は周囲に人がいないことを確かめてから扉へ近づき、鍵を調べた。
――これなら俺でも開けられそうだ。
俺は解錠スキルを使い手早く鍵を外す。
小さな音とともに錠が外れ、取っ手を回して扉を開くと、その先にあったのは部屋ではなく、さらに地下へ続く階段だった。
わざわざ鍵を掛けた扉の先に、さらに地下へ続く階段がある。
秘密にしておきたい何かがあると考えるには十分だった。
俺は扉の向こうへ入り、そのまま階段を下りていく。
下へ進むにつれて屋敷の喧騒は遠ざかり、一番下まで辿り着く頃にはほとんど聞こえなくなっていた。
そこで、鼻につく妙な臭いに気づいた。
湿った地下特有の臭いだけではない。
香油のような甘い匂いに、汗や人の体臭が混じったような、妙に淀んだ臭いが漂っている。
僅かに眉をひそめながら周囲を見渡すと、石造りの狭い通路が奥へ伸びており、壁に灯された僅かな明かりの先には、いくつもの扉が並んでいた。
俺は周囲を警戒しながら奥へと進む。
秘密の金庫か、表には出せない書類を保管している場所だと思っていたが、それにしては妙な造りだ。
通路に並んでいるのは大きな保管庫ではなく、一人か二人が入れる程度の小さな部屋ばかりで、その扉には外側から鍵が掛けられている。
しかも奥へ進むほど、先ほどから感じていた臭いが僅かに強くなっていく。
ここは一体、何のための場所なんだ?
そんな疑問を抱きながらさらに奥へ進んだところで、微かな物音が耳に届いた。
俺は足を止め、しばらく耳を澄ませる。
今度ははっきりと、扉の向こうから衣擦れのような音が聞こえてきた。
俺は音のした扉へ近づき、そっと耳を寄せた。
やはり誰かいる。
物を保管しているわけじゃない。
この中には人がいる。
それなのに、扉には外側から鍵が掛けられていた。
俺は鍵を調べてみたが、先ほどのものより頑丈な造りをしている。
俺は腰から短剣を抜くと、扉と枠の隙間へ刃を差し込み、錠が固定されている辺りまで押し込んだ。
そのまま短剣を梃子にして力を加えると、木が軋みながら扉と枠の間に僅かな隙間が生まれた。さらに力を込めると、錠を固定していた部分が鈍い音を立てて外れた。
思ったより音が響いた。
俺は短剣を鞘へ戻し、誰かが近づいてくる気配がないことを確かめてから、ゆっくりと扉を開く。
すると薄暗い部屋の中には簡素な寝台が置かれ、その端に一人の女が座っていた。




