歪ー10
喧騒を離れ、屋敷のバルコニーへと出たシャルティアは、夜風にその身をさらしていた。
柵に寄りかかり、遠くオブシリスの街並みを眺める彼女の横顔には領主としての仮面の下に隠された深い憂いがあった。
俺が近づくと、彼女は小さく肩を震わせたが、すぐに気づいて柔らかな微笑を浮かべた。
「……宴の賑やかさに少し当てられてしまって」
彼女は再び夜空に視線を戻した。
「……あの頃、私はまだ領主ではなく、ただの貴族の娘に過ぎませんでした。当時、ネージュ一族については噂程度にしか知らず、『神の眼』のことや、彼等一族の悲願についても、何一つ理解していなかったのです」
シャルティアの声は、かつての記憶を辿るように静かだった。
「ロアに初めて出会ったのは、そう、数年ぶりにグロスター領で開催されることになった武術大会、そのレセプションが開かれていた夜のことでした。私はその帰り道、馬車の中からふと路地裏へ目を向けると、そこで何やら只ならぬ空気を感じたのです。そこには、何者かが地面に倒れ伏し、その傍らでは複数人の男たちが包帯で両目を覆った一人の少女を強引に連れ去ろうとしていました」
シャルティアがそこで言葉を切り遠い目をした。
俺は彼女の横顔を見つめながら、自然と口から出た言葉を紡ぐ。
「……もしかして、その子がロア?」
俺の問いかけにシャルティアはゆっくり頷いた。
「ええ。当時の私には、その子が何者かなど知る由もありませんでした。ただ、異様なほど静かな空気を纏った少女が人形のように引きずられ、暗がりに連れていかれる……。その光景が私の脳裏に焼き付いて離れなかったのです」
シャルティアの瞳が過去の光景を捉えるようにわずかに細められる。
「思わず馬車を停めさせ、従者を連れて後を追いました。しかし、私が路地に入り込んだ時、そこに広がっていたのは彼らの思惑とはかけ離れた光景でした。
月明かりの下、少女は迷いもせず剣を抜いていた。
それは……静謐で、それ以上に酷く悲痛な剣。
少女の背後にいた賊は、彼女が剣を抜き放つ刹那、頸を跳ね飛ばされ、音もなく絶命していました。
仲間を殺された賊たちは言葉を失い、慌てて剣を抜こうとしましたが抵抗することすら叶わず次々と地に伏せられていったのです。
恐怖に駆られた男が一人、背を向けて逃げ出そうとしましたが少女は一切の慈悲も見せず、その背中を真っ向から切り伏せました」
そこでシャルティアは言葉を切り、震える指先でグラスの縁をなぞった。
語りながらも、彼女の瞳には今なお、あの夜の路地裏に立ち尽くす少女の背中が焼き付いているようだった。
「私が思わず息を呑んで立ち尽くしていると、彼女はふと、こちらに視線を向けました。
殺気を含んだ冷徹な瞳――しかし、そこに宿るものは激しい憎悪ではなく、底なしの虚無でした。
彼女は私をただの障害物か、あるいは風景の一部とでも見なしたのか。
一切の関心を示すこともなく、返り血で頬を染めたまま、ただ深い孤独を纏って静かに闇の中へと立ち去っていったのです」
シャルティアは遠い視線を夜空に浮かべたまま、静かに続けた。
「あの夜、彼女を見た瞬間、私は自分が何を感じたのか、自分でも理解できませんでした。恐怖とも、憐れみとも違う……胸を締め付けられるような、名付けようのない衝撃。その理由を確かめたいという想いが、ずっと心の中に突き刺さっていたのです。
それから数日が経ち、グロスター領では数年に一度の武術大会が幕を開けました。
大会期間中の街は国中から集まった観客で溢れかえり、祭りのような熱狂に包まれていました。
私はこれまでこうした催しに一切興味がなく、あらゆる理由を付けては観覧を避けてきました。
父は毎回のように私に観覧を促していましたが、私はそのたびに断り続けていたのです。
けれど今回は、なぜか拒む気になれませんでした。
おそらくロアのことが気になっていたからです。
もしかしたら彼女がそこにいるのではないか――そうした予感があったのかもしれません。
父に参加するように言われた際も珍しく断らずに頷くと父はひどく驚いていました。
そして大会が進行する中、観客の喧騒の向こうに、私は再び彼女の姿を見つけたのです」
背後の広間では、ドワ娘やユシルたちが宴の余韻を楽しんでいるのか、重厚な扉の向こうから時折楽しげな談笑やグラスが触れ合う音が微かに漏れ聞こえてくる。
その温かな気配は、バルコニーに流れる張り詰めた空気をかえって際立たせ、冷えた夜風が二人の間を通り抜けていった。
「――大会で勝ち進んでいく彼女の姿を、私はただ見守ることしかできませんでした。あの日、路地裏で見たのと同じ……あまりにも殺伐とした、自分自身をも削り取るような剣。
布で覆われたその表情は見えなくとも、彼女が剣を振るうたびに胸が締め付けられるように痛むのです。
……彼女は強い。
しかし、所詮はまだ幼い少女でした。
歴戦の猛者が立ちはだかる中、彼女は何度も何度も苦戦を強いられました。
それでも彼女は、どれほど深手を負おうとも、滴る血に視界が遮られようとも、自身の痛みなどまるで他人のことのように切り捨て、ただ剣を振るい続けていたのです。
その姿は痛々しく、とても見ていられませんでした。
彼女は死力を尽くし、とうとう決勝まで駒を進めました。
でも、最後は圧倒的な力の差の前に力尽き、敗れ去ったのです。
大会が終わり、観客の歓声が響く中、父が演壇に立つと、
「――これにて大会は閉幕する。優勝者には相応の賞金を与える。そして、我が娘シャルティアの護衛として重用することにしよう」
父の宣言が会場に響く中、私は居ても立ってもいられず傷付き倒れ伏したロアの元へと駆け寄り、私は迷うことなくその冷たい身体を抱きかかえると、父に向かって叫びました。
「――父様! 私はこの子がいい! この子を、私のお付きの護衛にします!」
会場がざわつき、父はひどく戸惑った表情を浮かべていました。
しかし、私が抱きかかえるロアの姿と、私の決して譲ることのない意志を見つめ、父は最後には苦笑しながら頷いてくれました。
「……敗れたとはいえ年端も行かぬ身でよくあれほどの剣技を身に着けた。……そうだな、お前がそこまで言うのならその娘も特例として重用することにしよう」
父の言葉に、私は抱きかかえた少女の身体をより強く抱きしめました。
ようやく、あの路地裏の夜から彼女を連れ出すことができたのだと、
私はその時、確信したのです。




