江戸は平和です………多分ね
文禄四年、一月。
新年を迎えた江戸は、城内も城下も賑わいに包まれていた。
年末には、箕輪より杏もやって来て、井伊屋敷は一層の活気を見せている。
だがその裏で、茶々と杏は連日の来客対応に追われていた。
「はぁ……さすがに疲れたわ。」
「そうですね……。」
ようやく奥の間へ戻ると、萩乃が静かに待っていた。
杏は一瞬で空気を察し、「子供達を見て参ります」とだけ言い残して部屋を後にする。
戸が閉まる音がやけに重く響いた。
「……何かあったのね。」
「はい。上方の北政所様より、御方様宛てに文が。」
差し出された文箱を受け取り、茶々は封を切る。
(寧々様から……?)
一瞬の緊張。
だが、読み終えた茶々は思わず吹き出した。
「……ふふ、なんだ。そういう事。」
「御方様?」
「鶴松様……ごほん、秀弘様の元服は無事に終わったそうよ。
その時にまた殿下と秀次様が喧嘩したんですって。」
萩乃は小さく息を吐く。
「原因は?」
「秀次様、関白職を辞する話を殿下に伝えてなかったらしいわ。」
「……は?」
「前田加賀様や大殿、朝廷にはもう根回し済みだから“まぁいいか”って思ってたみたい。」
茶々は肩をすくめる。
「……あの人らしいわね。」
だが、萩乃は笑わなかった。
その違和感に茶々の表情がすっと引き締まる。
「……萩乃?」
「伏見の西郡様を通じて、淀城の間者より報せが。」
差し出された、もう一通の文。
先ほどとは違う嫌な重みがあったが、茶々は無言で目を通す。
そして、その表情が静かに変わる。
「……淀殿が、こんな事を?」
そこに記されていた内容。
『拾丸の元服も、秀弘と同じように盛大に。』という、何気ない“願い”。
(……違う。)
ただの母の願いではない。
これまでの淀殿の言動と、それに振り回されてきた周囲を、茶々は知っている。
「……面倒な事にならなければいいけど。」
もう何度も感じている嫌な予感。
「萩乃。淀城の者たちに伝えて。」
「はっ。」
「これまで以上に、慎重に動くように。」
先ほどまでの正月の賑わいは、もうどこにもなかった。
(……来る。)
茶々は言葉にはしなかったが、確かにそう感じていた。
***
「まぁ……淀の方様が……。」
「また面倒な事になりそうやな〜。」
「嫌な予感がいたします……。」
翌日、江戸城奥座敷にて。
茶々は旭、阿茶局、於孝の前で、萩乃からの報告を伝えていた。
旭はげんなりとした顔で蜜柑を剥き、阿茶局と於孝は何とも言えぬ表情でそれを頬張る。
茶々もまた、不安を紛らわすように蜜柑を剥いた。
「このまま淀殿が大人しくしてくれたらええんやけど……そうもいかんやろうね。」
「大殿は、まだ上方におられますでしょうし……。」
「ええ。しばらくは戻らんでしょうね。」
旭は小さく頷く。
「秀弘を支える“五人の衆”として、政務を担う立場やもの。」
(……出てきたか。)
茶々は心の中で呟いた。
(歴史の授業風に言うなら……"五大老"やな。)
それは本来、幼き後継を支えるために置かれる権力の要石。
そして同時に、均衡が崩れた瞬間、争いの火種にもなり得る存在。
(……授業で習った時は、こんな物騒な制度になるとは思わんかったけど。)
この世界で定められた五人の衆は、
・徳川家康
・前田利家
・上杉景勝
・宇喜多秀家
・ 小早川隆景(後に、毛利輝元)
いずれも一国を動かす大大名ばかりだ。
「殿が帰って来るのは、まだ先やなぁ……。」
旭はぽつりと呟く。
「旭様、寂しいですか?」
「うーん、まぁねぇ。」
しかし、すぐに笑った。
「でも、皆がおるしね。毎日賑やかで楽しいわ。」
その言葉に、茶々はわずかに安堵する。
(……少なくとも、ここはまだ平和だけど。)
「ただ……。」
旭の声色が、少しだけ変わる。
「西郡殿から文が来てね。」
「文……?」
「殿に、新しい側室を勧めたいって。」
場の空気が、ほんの僅かに揺れた。
「……そうですか。」
阿茶局は静かに頷く。
「私も、必要であれば構わぬかと。」
(確かに……。)
茶々は思う。
今の家康は、側室の数が少ない。血筋も既に十分に繋がっている。
(このタイミングで動く、という事は……。)
単なる家の事情ではない。"政治”が絡む可能性もある。
(大殿なりの考えがある……ってところかしら。)
茶々は蜜柑を一房、口に運ぶ。甘さは感じるのに、妙に後味が残った。
(……静かね。)
江戸は穏やかだ。
だが、上方では確実に何かが動いている。
(このまま、何も起きなければいいけど。)
そんな願いとは裏腹に、胸の奥に、消えない違和感が残っていた。




