江戸の生活は中々に楽しい
文禄三年七月。
茶々は、子供たちと共に江戸城下の井伊家上屋敷に滞在していた。
箕輪城の奥向きは、側室の杏と筆頭侍女の於軽が取り仕切っている。
手紙のやり取りによれば、特に大きな問題もなく、平穏そのものらしい。
(……ほんと、あの二人には負担ばっかりかけてるなぁ。)
だが、徳川の御台所・旭の女房として、そして井伊家の上屋敷を預かる立場として。
茶々が江戸に留まることは、避けられぬ役目でもあった。
(大名の妻子が江戸住まいになるのって、確か江戸時代からよね……。
これ、その先駆けみたいなもんか。)
そんな折、本多忠政の妻・熊姫が挨拶に訪れた。
かつて岡崎で会った時は、まだあどけない少女だったが、今では十八。
父・信康と母・五徳に似た、凛とした美しさを備えた女性へと成長していた。
しかも、今年二月に出産したばかりだという。
「国姫は熊姫に良く似てるわね。」
茶々は慣れた様子で、赤子をあやす。
「そうでしょうか?私は殿や父上に似ていると思うのですが。」
微笑む茶々の腕の中で、国姫は無邪気に笑った。
将来、美人になることは間違いないだろう。
「……嫡男を上げられず、申し訳なく……。」
熊姫は、ふと表情を曇らせる。
「そんなに焦らなくてもいいじゃない。」
茶々は軽く笑った。
「まだ十八でしょう?これからよ。」
「ですが……。」
「子は授かり物よ。」
そう言って、国姫をそっと熊姫に返す。
「今は、この子を立派に育てることだけ考えなさい。」
「……はい!」
その表情は、すでに“母”だった。
我が子を見つめるその眼差しに、茶々はふと、自分の過去を重ねる。
(……私も、お政を産んだ時はこんな顔してたのかもね。)
そして、もう一つ。
(この子……将来、とんでもない姫になるのよね。)
腕の中の小さな命を見て、思う。
国姫。後に『日向御前』と呼ばれる女性。
男勝りで気が強く、常識に囚われないその気質は、時に周囲を振り回すほどだったという。
(確か、女人禁制の山に平然と突っ込むタイプだったはず……。)
茶々は小さく息を吐く。
「お茶々様?」
「え?ああ……。」
我に返ると、熊姫が不思議そうにこちらを見ていた。
「……あの、小さかった熊姫も、もう母になったんだなって思って。」
「父上や母上も、同じことを申しておりました。」
熊姫はくすりと笑い、腕の中の国姫を見つめながら穏やかに告げる。
「この子も、あっという間に大きくなるのでしょうね。」
「ええ。」
茶々は頷いた。
「赤子の時期なんて、本当に一瞬よ。しっかり目に焼き付けておきなさい。」
夏の光の中。穏やかな時間が、静かに流れていた。
熊姫の来訪をきっかけに、井伊家上屋敷には、徳川譜代の妻たちが顔を見せるようになった。
逆に茶々が子供たちを連れて訪ねることもあり、
お茶会や裁縫、菓子作りといった穏やかな交流が増えていく。
戦の気配とは無縁の、静かな日々だった。
——だが、九月中旬。
上方から、新たな報せが届く。
鶴松の元服は十月。そして、豊臣家の家督相続は、新年に執り行われるという。
(……名前、何になるんだろ。やっぱり『秀頼』……?)
そんなことを考えながら、茶々は旭に呼ばれ、江戸城本丸の奥御殿を訪れていた。
「箕輪様、こちらでお待ちくださいませ。」
茶を口にしながら庭を眺めていると、一人の青年が姿を現した。
まだ少年の面影を残しつつも、どこか家康や信康に似た面差し。
見覚えがある。だが……思い出せない。
茶々は思わず、その顔をまじまじと見つめる。
「箕輪様。お久しゅうございます。
松平萬千代にございます。」
「……え?」
一瞬、思考が止まる。
「萬千代……殿?まさか、三郎様の……?」
「はい。」
青年は穏やかに頷いた。
「今は、日向昌康と名乗っております。」
「まぁ……!」
あの幼かった萬千代が、目の前で立派な青年になっているので、茶々は思わず目を見張った。
「あれ?日向……?松平ではないの?」
「母方の日向家を継ぎました。
母たっての願いにて、父上やお袋様にも手配して頂きました。」
「そう……。」
(なるほど、そういう形で残ったのね。)
茶々は内心で納得する。
「江戸に居るということは、城仕え?」
「はい。今は御台様の近習にございます。
御台様は城代としてお務め中でして、その間に箕輪様のお相手を仰せつかりました。」
「まぁ……。」
思わず、くすりと笑う。
「じゃあ、お言葉に甘えようかしら。ええと……。」
一拍おいて。
「私のことは“茶々”でいいわ。貴方は、私にとって甥のようなものだもの。」
「……はい。」
少し照れたように、昌康は頷いた。
それから二人は、互いの近況や岡崎で出会った頃の話に花を咲かせた。
幼かった少年が、いつの間にか家の一員として立っている。
その事実に、茶々は時の流れを感じる。
(信康様の子たちも……随分増えたわね。)
信康には、正室・五徳をはじめ、三人の側室との間に多くの子がいる。
昌康も、その一人。
それぞれが異なる立場で、徳川の中に居場所を得ているのだ。
(……この子も、その中で生きていくのね。)
茶々は、目の前の青年を静かに見つめた。
(……そういえば。)
昌康の言葉を聞きながら、茶々は思い出す。
信康は武田滅亡後、その旧臣たちを積極的に取り立てていた。
滅んだ家に仕えていた者たちを、その才を見て拾い上げる。
戦の世では珍しくもないが、それを恐れず行える胆力は、やはり只者ではない。
その中でも、特に名を聞くのが、真田昌幸。
“信康の軍師”と呼ばれる男だ。
(……この辺りも、そのうち関わってきそうね。)
茶々は、ぼんやりとそう考えた。
それからしばらくして、旭付きの侍女が現れ、「もう少しお時間が掛かる」と告げたため、茶々と昌康は庭へと足を向けた。
「昌康様は、随分とお背が高いのね。」
「江戸へ来た折に測った時は、五尺六寸ほどでした。」
「まぁ、そんなに……。(私と同じぐらいだな。)」
父・信康も祖父・家康も大柄だ。
成長期の昌康は、恐らくこれからまだ伸びるのだろう。
「御台様にも『どこまで伸びるつもりや』と呆れられました。」
「ふふ、孫の成長が嬉しいのよ。(……いや、多分“面白いもの見つけた”顔してたわね、あの人。)」
そんなことを思いながら歩いていると、ふと視界が開けた。
「……あら、ここは?」
そこには、薬草や野菜が整然と植えられた畑が広がっていた。
「御台様の畑にございます。」
「やっぱり……。懐かしいわ。」
駿河で手入れしていた庭と、よく似ている。
「某も手伝っております。」
どこか誇らしげに言う昌康に、茶々は思わず吹き出した。
「ふふ……ごめんなさい。あまりにも得意げだから。」
「な、何か可笑しな事でも……?」
「いいえ。昔の自分を見ているみたいで。」
土に触れ、育てる喜びを知った頃の自分を思い出す。
「土いじり、楽しいでしょう?」
「はい!ですが御台様には『まだまだや』と……。」
「厳しい師匠ね。」
くすくすと笑いながら、二人は畑を見て回ると、侍女がやって来た。
「箕輪様、昌康様。御台様がお呼びにございます。」
そして、二人は並んで奥へと戻っていった。




