醍醐の花見
雪が溶け、桜の蕾がほころび始めた頃。
茶々は呼び出された。
「各将らを招き、醍醐寺で花見をするそうじゃ。」
「醍醐寺で、でございますか?」
茶々は、ふむ……と考える。
(それって、あの有名な醍醐の花見かな……。
この時期だっけ?もう少し先じゃなかった?
………まぁ、いいか。今更考えたって分からん。)
茶々は考えるのをやめた。
「うむ。大政所様と大納言様への弔いの意味も込めておろう。
これで少しでも太閤殿下の気が紛れてくれれば良いのじゃが。」
(……え、心配してるの?そのままくたばってくれんかな〜とか言いそうなのに……珍しい。)
茶々様、家康公に対して辛辣すぎませんか?
「その花見が終わった後、旭殿と秀忠には賢子を連れて江戸へ帰還してもらう。
その折に、其方らも関東へ戻るが良い。
……お茶々よ、長い間この上方にての任ご苦労であった。」
「有り難き御言葉、恐悦至極。」
「それから、其方らは領地には戻らず、そのまま江戸に滞在せよ。」
「箕輪ではなく……江戸へ、ですか?」
「ああ。江戸城下に各家の屋敷を新たに建てたのでな。そこへ入れ。」
「……はい。心得ました。」
茶々は、醍醐寺で行われる花見の準備に取り掛かった。
まずは化粧用品だ。
久しぶりに雷蔵と萌がやって来て、新作の品に賢子が目を輝かせている。
旭と賢子の前で、萩乃と萌と共に「あれが良い」「これも良い」と吟味する時間は、どこか楽しかった。
それから衣装の新調。
女性陣には、二度の衣替えが命じられている。
「金のことは心配するな!全部、豊臣家が出す!」とのお達し付きである。
(……怖っ。)
花見まで二週間。
豊臣家から注文を受けた呉服屋たちが、大坂の徳川邸へやって来た。
大広間にずらりと並べられた打掛を前に、茶々は内心で固まる。
(これ……全部で幾らすんだろ?)
茶々は並べられた豪華な打掛に目眩がした。
(……お金の事は、考えないでおこう。胃が痛くなる。)
茶々は気を取り直し、旭の近くに控えた。
「お賢、遠慮せんでええ。好きな物を選びなさい。」
「は、はい……義母上様。えっと……。」
数の多さに、賢子は戸惑っている。
「ふふ、迷うわよねぇ。」
旭も楽しそうに衣装を見始めた。
「ほら、お茶々も。」
「え?」
「此度の花見は大名家だけやない。重臣たちも来るんよ。
井伊侍従の正室なんやから、当然やろ?」
(マジっすか……。)
茶々が内心で頭を抱えていると、「茶々姉様には、此方がお似合いになるかと。」と、賢子が一着を指差した。
鮮やかな金地に、見事な刺繍が施された打掛だった。
「良いわね!お茶々、絶対似合うわ!」
旭が即決し、そのまま試着させられ、姿鏡の前に立つ。
「……綺麗よ、お茶々。」
「誠に。お美しいです。」
(……うん、自分で言うのもなんだけど、似合うわ。賢姫、センス良いな。)
「でしたら……賢姫はこちら、旭様はこちらは如何でしょう?」
茶々も選び返す。
桃色の打掛は賢子へ、白銀の扇面模様は旭へ。
「ええやないの。」
「ありがとうございます。」
気付けば、衣装選びはすっかり盛り上がっていた。
花見まで一週間。
旭たちは伏見の徳川邸へ移り、出迎えた西郡殿は、少し戸惑った様子だった。
「御台様、私も……よろしいのでしょうか?」
「気にせんでええよ。」
旭は笑う。
「醍醐寺の桜、見事らしいで?楽しみやねぇ。」
その言葉に、西郡殿もふっと表情を緩めた。
「……そうですね。」
西郡殿は、全力で楽しむ方を選んだ。
そして、当日。
醍醐寺へ向かう大名行列は、まさに絢爛そのものだった。
道の両脇には見物人が溢れ、その華やかさに、誰もが目を奪われている。
やがて輿が止まり、茶々は地に降り立つ。
目の前に広がっていたのは、満開の桜並木だった。
淡い桃色と澄み渡る青空、その対比は息を呑むほどに美しい。
「……見事やね〜。」
旭が、思わず呟く。
「誠に。まさに春の景色にございまする。」
西郡殿も、静かに頷いた。
「来てよかったやろ?」
「はい。」
案内に従い、席へと向かう。
旭と西郡殿は家康のもとへ、賢子は秀忠の隣へ。
茶々は直政と、井伊の子供たちと共に座る。
だが、勝姫はぴたりと動かなかった。
慣れぬ場所に、見知らぬ大人たち。
不安なのか、緊張なのか、姉の政姫にしがみついたままだ。
やがて、続々と招待客が到着し始める。
中には、すでに酒を手にしている者もいた。
(……もう呑んでるの!?……まぁ、今日ぐらいはええか。)
その時、ドン——と、太鼓の音が響いた。
ざわめきがぴたりと止まり、山門の方から声が張り上げられた。
「太閤殿下、ご入場!」
一斉に視線が向くと、舞い散る桜の中から秀吉が現れた。その左右には、寧々と竜子。
満面の笑みで、両腕を広げる。
「待たせたのぉ!!」
どっと、笑いが起きる。
「今日は遠慮はいらんでぇ!好きに歌え!好きに呑めぇ!!」
その一声で、宴が始まった。
笛の音が流れ、舞台では能が披露される。
酒の香りと、笑い声。山全体が、春に包まれていた。
まさに、天下人の花見。
「茶々姉様!」
振り向けば、華姫とお寿が立っていた。
「お久しゅうございまする。」
「政姫は、ますますお茶々様に似てきましたね〜。」
「あら?そちらの姫は……?」
「妹の勝にございまする。」
政姫は、まだくっついたままの勝姫を抱き上げる。
「お勝ぅ、ご挨拶。」
最初は警戒していた勝姫だったが『このお姉さんたち、良い人だ!』とすぐに分かったようで、あっという間に懐いた。
「まぁ、よう笑う子ね〜。」
華姫とお寿に抱かれ、機嫌よく笑っている。その様子に、場の空気も柔らいだ。
「母上。」
虎松が声をかける。
「弁之助が……。」
「ああ、廁ね。」
茶々が立とうとした、その時。
「儂が行く。」
直政だった。
「お茶々、万次郎を頼む。」
「え?あ、はい……。」
「行くぞ、虎松。」
「はい、父上。」
弁之助を抱き上げ、自然な動作で連れて行く。
その背を見送りながら、華姫とお寿は目を丸くしていた。
「……井伊様が?」
「え、自分で?」
「うん。うちでは普通よ。」
ぽかん、とする二人。
「……素敵な旦那様ですね。」
(あ。)
茶々はそこで、ようやく気付く。
(これ、普通じゃないのか。)
この時代では珍しい、"父親が子を世話する光景"。だが井伊家では、それが当たり前だった。
その分、子供たちは父にべったりだ。
直政が戻ってきた頃に、今度は秀忠が声をかけてくる。
「兵部、茶々姉。」
「お賢と桜を見てこようと思うのだが——」
「お政たちも連れて行って良いか?」
「この桜、滅多に見られませんし。」
賢子も微笑む。
「私たち、まだ酒は飲めませんしね。散歩にちょうど良いかと。」
茶々は少し考えて、任せることにした。
「……では、お願いします。」
「はい。」
そこへ華姫とお寿も加わる。
「私たちもご一緒してよろしいですか?」
「もちろんです!」
賢子がぱっと笑う。
「ほら、みんな行こう!」
「お政、迷惑かけたら駄目よ?」
「はい、母上!」
「虎松、万次郎、弁之助。若殿から離れるでないぞ。」
「「はい!」」
「あい!」
久しぶりに夫婦二人きりになり、茶々は酒器を手に取り、夫の盃へ酒を注ぐ。
「見事ですねぇ〜……。桜がとても美しい。」
茶々は空を見上げながら、ポツリと呟く。
「ああ……。なれど……其方もこの桜に負けぬほど、美しいぞ。」
「……もう〜!何言ってんですか〜!」
茶々は満更でもない顔をして、直政の肩をバシバシと叩いた。
「痛い痛い……。」




