豊臣家中の共通認識。石田治部が笑っている時は気をつけろ!
淀城に到着した三成は、そのまま真っ直ぐ且元の詰所へと向かった。
「兄ぃ。」
且元は煙管を燻らせたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「……佐吉、来てくれたんか。」
「兄ぃを一人にするわけあらへんやん。
それより………大丈夫ではないよな。」
且元の目の下には、濃いクマが出来上がっていた。
「はぁ……佐吉ぃ……聞いてくれやぁ。」
煙管をタバコ盆にそっと置いて、文机をダンっ!と強く叩いた。その衝撃で、文机にヒビが入る。
「……阿波の乳母殿!!あんのクソババァっ!!
殿下の後ろ盾がある思うて、気が大きいなってるようやっ!!
儂に舐めた口きいてきよるんや!あの場で斬り捨ててやろうかと思ったわぁぁ!!
今も生きて、のうのうと奥でデカい顔出来ること、儂に感謝せぇよぉぉぉーーっっ!!」
三成は目が点になった。
三成が知る『片桐且元』という男は、常に冷静沈黙で物事を静かに決める男だ。
(この人も……七本槍やな。)
三成は且元の震える両肩に手を置く。
文机を叩き割ったせいか、且元の手から血が滲み出ていた。
「…兄ぃ。血が……。」
三成は懐から手拭いを取り、且元の両手を取って血を拭った。
それから手拭いを口で破き、簡単な手当てをする。
「……相変わらず、手際がええな。」
「これでも、元は寺小姓やからな。」
「……ははは、そうやったな。
はぁ……。殿下がまだ十三かそこらのお前を連れて帰って来たなぁ……。
……ほんま、可愛げのないガキやったわ。」
「それ、今言うか?」
そう笑い合っていると、且元がふと目線を逸らした。
「……豊臣家は…これから先、どうなるんやろうか。」
「兄ぃ。そんな弱気にならんでよ。まだ打つ手はあるはずや。」
「ああ……そうやな。」
且元がしっかりとした目で、三成を見る。
「お前が折れとらん。虎と市松、紀之介も折れとらん……。そうやな?」
「うん。まだまだ折れへんで。
なぁ……兄ぃ。俺、一旦奥へ行ってみようと思うんや。」
「……まだ殺すなよ。」
「はは、物騒やなあ……。」
何故、且元がそんな事を言ったのか……。
この時の三成は分からなかったが、翌日に嫌というほど思い知らされる……。
***
淀城の奥御殿。
政務の声はない、足音も少ない。
代わりに、女たちのひそひそ声が聞こえるのみ。
三成はいつになくニコニコと外用の笑顔……所謂、営業スマイルで座っていた。
清正と正則たちが見たら、間違いなく泣いて土下座するほどの威力がある。
なんで、三成さん営業スマイルなのかって?
……阿波の乳母殿のせいだよ。
「三成殿、ようやっとこちらに来られましたか。
殿下のお側を離れるとは何事ですか。」
「申し訳ございませぬ、伏見にて政務がございまして。」
三成はゆっくりと頭を下げる。
(おい、おばはん。名前呼んでええって許した覚えないぞ。弁えんかい。)
心の中で悪態をつく。
「あら、他の方がおられるでしょう?
貴方一人で政務をなされているのですか?そんなはずないでしょう。」
三成は刀に手を掛けそうになったが、心の中でお経を唱えてる。
(三帰依……南無……)
そして、営業スマイルは崩さず……。
「殿下はお世継ぎがお生まれになり、お疲れなのです。
あのような騒ぎを起こされては困ります。」
三成のこめかみがピクリと動く。
「お世継ぎ?騒ぎ?……何のことですか?」
すると、阿波の乳母殿は鼻で笑う。
「はぁ?そんな事も分かりませんの?
拾丸様は豊臣家の世継ぎではないか。それから、清正殿たちの件、其方様がしっかりと見ておられればこんな事には……。」
「……お世継ぎは、伏見城におわす、鶴松様にございまする。このこと、殿下は既にお決めになられておられます。」
「はっ!これだから、下の者は……。
いいこと、よくお聞き?拾丸様は、三好家と足利家の血を引く御子……天下の正統は血で決まるのです。
京極如きの血を引く鶴松殿とは違うのです。」
三成は、何を言われてるのか分からなかった。
『おばはん、一体いつの時代生きとるんや?』と口から出そうになったが、笑顔は崩さず……。
阿波の乳母殿は、扇子で畳を打ち鳴らす。
「とにかく!其方様は殿下の御側から離れぬ事こそが責務ではないですか!
ご自分の責務を今一度お考えになられては?」
三成は深々と頭を下げた。
「……ご忠告、痛み入ります。」
それだけ言い残し、三成は奥御殿を後にした。
「治部様……。」
表に戻る渡り廊下で、後ろから声を掛けられた。
少し息を切らして三成を追い掛けて来たのは、淀殿の女房だった。
「あの……先程は乳母様が、とんだご無礼を……。」
女房はそう言って、深々と頭を下げた。
寧々から、あの中で唯一話が通じる女房が一人だけ居ると聞いたことがあったが、おそらくこの人だろう。
「……いえ、そんな。女房殿、面をお上げください。」
「御心遣い、痛み入ります……。」
そう言って顔を上げた彼女の顔は、疲れ切っていた。
一人であのよく分からない集団の中にいるのか……。そう思うと、同情してしまう。
「女房殿も……苦労されているようで。」
「いえ、もう慣れました。姫様の怪し御言葉も、乳母殿の勘違いも……。
殿下がお側に居られるから、気が大きゅうなっておられるだけですから。」
(成る程……。虎の威を借る狐か。)
「では、某はこれにて……。」
「お引き止めして、申し訳ございません。」
三成は女房に一礼して、表へと戻っていった。
阿波の乳母殿のこの発言、後々に大問題になります。




