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平和な日常に突然の謹慎

文禄二年 五月。


スペインとの交渉のため、スペイン領マニラへ赴いていた秀長が帰国した。

聚楽第でその姿を見かけたが、表情は浮かない。どこか険しい顔をしていた。


(あまり良い結果ではなかったのかな……?)


とはいえ、政治のことは分からない。

首を突っ込むべきでもないし、突っ込んだところで何が出来るわけでもない。ここは、大人しく見守るしかない。


三月、伏見城が完成した。


寧々様と鶴松君、そして殿下の側室たちはそちらへ移り、竜子と賢子は聚楽第へ。

華姫たちは引き続き大坂城に残ることになった。


あれほど淀城行きを嫌がっていた阿波の姫君も、秀吉自ら送り届けることで、ようやく移ることとなった。


その“特別扱い”に、周囲の側室たちは当然ながら面白くない顔をしていたし、秀次様の正室や側室たちも同様だった。


寧々様と姉様はというと、「まぁ……これで大人しくなるなら」と、半ば諦めたような様子だった。


そして、豊臣家臣たちの胃薬の消費が爆速になったのは、言うまでもない……。


そして文禄二年四月に、阿波の姫君は淀城にて男児を出産した。


秀吉は大いに喜び、子の健やかな成長を願って、民間の風習に倣い一度庭に置き、家臣の松浦重政(まつうらしげまさ)に拾わせた。


名は——拾丸(ひろいまる)。


ただ、その祝いの空気はどこか妙だった。


確かに祝ってはいる。だが、どこか遠慮がある。踏み込みきれない、そんな空気。


寧々様も竜子姉様も、表向きは祝っているが、内心は複雑だろう。


それを知ってか知らずか、秀吉は上機嫌で、阿波の乳母殿とその周囲だけが誇らしげに振る舞っていた。


そして、淀城に移ってから、阿波の姫君の呼称が変わった。


『淀殿』


本来、その名は“茶々"に与えられるはずのもの。それが今は、別の誰かに与えられている。


過去の巻き戻りでも、同じことは起きなかった。


"淀殿"と同じような立場の側室はいた。だが、“淀殿”はいなかった。


(……何かが、ズレてるな。)


言葉に出来ない、不気味さが胸の奥に残った。


ここまでが少し重たい話。


茶々の周りでは、むしろめでたい事が続いていた。


京極家へ嫁いだ妹のお初が、二月に男児を出産。

小法師と名付けられ、嫡男として定められた。

結城家へ嫁いだお江も懐妊し、秋頃には出産予定だという。


さらに、信濃・小笠原家へ嫁いだ登久姫が、昨年末に第一子となる女児の虎姫を出産した。


信康と五徳にとっては初孫。家康や安土殿にとっては初曾孫だ。


五徳からの文を安土殿に見せてもらったのだが、どうやら信康は、完全に初孫に夢中らしい。


今すぐにでも会いに行きたいと、準備を進めているとか、いないとか……。


(この時代で、それはかなり珍しいんだけどなぁ……。)


それでも。それだけ嬉しい、ということなのだろう。


そして、上野国箕輪に残してきた杏と、そのお腹の子も順調だと知らせが届いた。さらに、直政からは一通の手紙が届く。


「子の名を、決めてくれないか。」


茶々はしばし悩んだが、筆を取った。


――男であれば「猿夜叉(さるやしゃ)」、姫であれば「勝(かつ)」と。


猿夜叉は、父・浅井長政の幼名。

勝は、養父・柴田勝家に由来する。


戦のない世とはいえ、いつ何が起こるか分からない。


だからこそ、父や養父のように強く、そして志半ばで散った者たちの分まで、長く生きてほしい。


そんな願いを込めた名だった。


直政は少し戸惑ったらしいが、最終的にはその想いを受け入れてくれた。


そして四月下旬。


杏は無事、女児を出産した。


予定よりやや早かったものの、姫はすこぶる元気で、「勝姫」と名付けた、と手紙には記されていた。


「母上、早くお勝に会いたいです!」


「虎も!」


「万も!」


「だぁ!!」


井伊の子供たちは大はしゃぎだ。


「そうね。母も早く会いたいわ。七月か八月には戻れるはずだから、もう少しの辛抱ね。」


「弁之助も会いたいよね〜。」


「あい!」


弁之助にとっては同母の妹。

まだ自分も幼いくせに、どこか誇らしげな“兄の顔”をしている。


政姫の膝の上ではしゃぐ姿を見て、茶々はふと、ほんの少しだけ、寂しさを覚えた。


五月も下旬に入ると、暑さがじわりと増してきた。


京都は盆地ゆえ、夏の気配が来るのも早い。

だが……来なくていいものは来なくていい。


寒さは五周目にしてどうにかなる事を覚えた。着込めばいいし、隙間風が入らないように埋めればいいし、火鉢もフル活用すれば良い。(それでも、ストーブに比べれば弱いが……。)


けれど、暑さだけはどうにもならない。

『クーラーどこだ!?扇風機は!?』である。


「こうも暑いと、今からが心配やね。」


打掛を腰に巻き、扇子でぱたぱたと風を送る旭が、額の汗を拭う。


「本日は一段と暑いですね。」


茶々もまた、手拭いで頬の汗を拭った。


まだ五月だというのに、まるで真夏のような陽気だった。


庭では、秀忠と賢子、そして井伊家の子供たちが水遊びに興じている。


賢子は年下の従兄弟たちをよく可愛がり、傍から見れば、まるで本当の姉弟のようだった。

弁之助はようやく一人で歩けるようになったばかりではあるが、まだまだ目が離せない。

侍女たちが気を配りながら、その様子を見守っている。

時折、秀忠が賢子に声をかけると、賢子は頬をほんのり桃色に染める。


そんな光景に、旭と茶々は自然と顔を見合わせた。


「賢姫、来年やくて今すぐ嫁いでくれてもええんやけど。」


「誠に……。(徳川家としては大歓迎なんだけどな〜……。)」


「でもまぁ……まだ母上の、竜子さんの側におりたいやろうね。」


「……はい。」


庭で水遊びをする秀忠たちを、静かに見守っていた、その時——


廊下の奥から、騒がしい足音が響き渡る。


「この喧しさは……萩乃か?」


「……何事でしょうか。」


「御台様ぁぁーー!!箕輪様ぁー!!一大事に御座いまするぅぅーー!!」


その声と共に飛び込んできた萩乃の姿に、旭と茶々は思わず身体を強張らせた。


「萩乃、何事じゃ。賢姫とお政たちが驚いておるではないか。」


騒ぎに気付いた秀忠が、萩乃の元へ歩み寄る。


茶々が庭へ視線を向けると、賢子が万次郎を、政姫が弁之助を抱き上げ、不安そうにこちらを見ていた。


虎松は姉たちの小袖の裾を握りしめ、固まっている。


(萩乃のこの慌て方……絶対面倒なことが起きたでしょ……。)


茶々は一瞬、秀忠に目をやる。

秀忠も察したように、すぐに子供たちの元へ戻った。


「そろそろ部屋で休もうか。枇杷を用意したんだ。井戸水で冷やしておいたから、ちょうどいい頃合いだろう。」


賢子や政姫たち、侍女たちを連れ、秀忠はそのまま部屋へと引き上げていく。


子供たちの姿が見えなくなってから、旭が口を開いた。


「それで、萩乃。そんなに慌てて、どうしたんや。」


「はい……。あの、心してお聞きくださいまし……。」


一瞬、息を呑む間。


「加藤主計頭(かずえのかみ)様が……太閤殿下の勘気に触れられ、謹慎を言い渡されたとの事……。」


「はぁ!?」


「虎之助が!?……何をしたのよ、あの子は……。」


「それが……どうも、淀の方様絡みのようで……。」


「淀殿の事かいな……。」


(……そういえば。)


今世の清正は、淀の方こと阿波の姫を、ひどく嫌っていると噂されていた。


かつて、茶々が"淀殿”であった頃。


清正は、茶々と秀頼のことを案じ、時に励まし、時に耳の痛いこともはっきりと言ってくれる、頼もしい人だった。


だが今は違う。


『あの女は、妲己褒姒、玉藻前だ。』


三成や吉継らがたしなめるほど、そう言い放って強く敵視しているという。


(……まぁ、無理もないわね。)


淀殿の女房や乳母が、正妻である寧々に遠慮なく振る舞っている現状を思えば。

母と慕う寧々がそんな扱いを受けていれば、清正が主人である淀殿を嫌うのも当然だ。


旭が、ゆっくりと息を吐く。


「萩乃。分かってる事だけでええ。私とお茶々に、説明してくれん?」


「はい、御台様。」

【登場人物・官位について】

作中では、官位・通称で呼ばれる場面があります。


・治部少輔(じぶのしょう)=石田三成

・刑部大輔(ぎょうぶたいふ)=大谷吉継

・左衛門大夫(さえもんのたいふ)=福島正則

・主計頭(かずえのかみ)=加藤清正


※本作では、時期・立場に合わせて官位や通称を使い分けています。

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