やって来た若政所様、嵐の予感……
文禄二年、正月。
本来であれば、日本史に大きな影響を及ぼした『文禄の役』が起こる頃だが、今のところその気配はない。
代わりにきな臭かったフィリピン方面は意外にも、スペイン総督府が日本に対して正式な謝罪声明を発表したことで、一応の決着を見せた。
(意外……でも、まぁ納得か。)
スペインは現在、フランスとイギリスを相手に戦の真っ最中だ。
その上で“極東”にまで兵を送る余力など、あるはずがない。
さらに明も無視できない。弱体化しているとはいえ、依然として大国だ。
(そりゃあ……日本と戦うより、話し合いで済ませる方を選ぶよね。
外から見たら、日本の武士なんて全員“首置いてけ族”に見えてるのかもしれないけど。)
秀吉はこの謝罪を受け入れ、和議交渉を進めるよう、弟の秀長に命じた。
(秀長様、今世ではまだご健在で良かった……。)
最近は咳き込んでいる、という話も耳にするが。
(無理だけはしないでほしいな……。秀長様と秀次様、この二人が豊臣の命運を握ってるって言っても過言じゃないんだから。)
そして、茶々はふと思い出す。
(……そう言えば。一度目と四度目の時は、朝鮮の役が発生したけど。三度目の時、無かったよな。あれ?二度目は?…………無理、思い出せん。)
また、史実とズレていた。
***
年末には、徳川家嫡子・秀忠と、竜子の娘・賢子の結納が執り行われた。
二人は正式に婚約し、賢子は太閤・秀吉と北政所・寧々の養女として、来春に徳川へ輿入れする予定だ。
それまでは、寧々と竜子のもとで行儀見習いをするという。
(このまま何事もなく、平穏に進んでくれたらいいけど……。)
秀忠と旭はしばらく京に滞在することになり、茶々と安土殿もそれに従って京で過ごしている。
正月の慌ただしさがようやく落ち着いた、二月。
関白・豊臣秀次が、正室の一の台と子らを伴って聚楽第に入った。
側室たちはまだ近江八幡に留まり、順に移ってくるらしい。
この日、茶々は旭と並んで裁縫をしていた。
安土殿は大徳寺・総見院へ参詣に出ており、子どもたちは秀忠が見てくれている。
「秀次の側室、もう十人を超えたそうなんよ。」
旭が、呆れたように針を動かす。
「姉様も、ぼやいとったわぁ。
『女に手ぇ早いとこは藤吉郎に似よってからに……』って。」
「まぁ……そんなにですか。」
(秀次様、確かに手が早いのよね……。)
ふと、二度目の人生の記憶がよみがえる。
――秀次の継室として嫁いだ頃、すでに側室は八人。
それでも足りないかのように、次から次へと増えていく。
『側室を持つなとは言わん……。だけど、統率する私の身にもなってほしいんだけど!?』
側室の件で、秀次とは何度も喧嘩した。
そして、ついに堪忍袋の緒が切れた茶々は、出産直後にもかかわらず、娘を連れて寧々のもとへ逃げ込んだ。
事の重大さにようやく気づいた秀次は、慌てて迎えに来たが、養母の寧々と、実母の智にこっぴどく叱られた。
それ以降、さすがに大人しくなった……はずだ。
「母様が言うてたわ。『弥右衛門さの孫だで、しょうがにゃー』って。」
「ああ……。確か、弥右衛門様もその気があったとか。」
「うん。私の小さい頃に亡くなったから、父様のことはあんまり覚えてへんのやけど……」
旭は、少しだけ遠い目をする。
「母様が薙刀振り回して、父様追いかけ回してたんは覚えてるわ。」
(……ババ様、思ってたより武闘派ね。)
「そういや、秀勝が結婚することになったそうよ。」
「まぁ、秀勝様がですか?」
「うん。あの子、小一郎兄様に付いて政務であちこち飛び回っとったんやけど……。
兄様たちに『そろそろ身ぃ固めぇ』って言われたみたいやね。」
「それは、めでたい事です。」
――正史では、秀吉の甥・豊臣秀勝は茶々の妹・お江と結婚し、一人娘の完子をもうけた。だが、朝鮮出兵の最中、若くして病死してしまう。
しかし今世では、秀長のもとで政務に関わり続けていたため、これまで縁談がまとまらずにいたのだ。
「して、お相手は?」
「公家の高倉家の三女、明子様や。
なんでも、明子様が秀勝に一目惚れしたらしいで。」
「まぁ……。」
「母御は家女房らしいけどな。
それでも、ウチみたいな元足軽の家が御公家様から嫁もらうなんて……大したもんやわ。」
秀勝は背が高く、整った顔立ちの美丈夫だ。
母の智や叔母の旭を思えば、それも納得できる。
武家らしい凛とした雰囲気を持つ若者である彼に、蝶よ花よと育てられた公家の姫が惹かれるのも、無理はない。
(そういえば、阿古殿も一目惚れやったな……。)
旭の一人娘・阿古も、万里小路家の御曹司に見初められて嫁いだのだった。
今では四人目を懐妊中だという。
(……いつの間に、って感じやけど。)
万里小路家の子どもたちは母に似て愛らしく、将来は美形間違いなし、と京でも評判だ。
すでに縁談もいくつか持ち上がっているらしい。
(気が早いなぁ……。)
そんな話をしながら、茶々と旭は裁縫の手を進めていた。
そこへ、旭付きの侍女・お桐がやって来る。
「御台様、箕輪様。京極の若政所様がお見えにございます。」
「姉様が?」
「どうしたんやろ。今日は来るって聞いてへんけど……。
若政所様をこちらへ。」
「はい。」
お桐が下がると、茶々はぽつりと呟いた。
「御台様、か……。まだ慣れんのよね。」
関東の覇者の正室に与えられる呼び名、御台様。
江戸入り以降、旭はそう呼ばれるようになっていた。
「そのうち慣れますよ。私も“箕輪様”と呼ばれ始めた時は、誰のことかと思いましたもの。」
「……そんなもんか。」
軽く笑いながら、茶々は裁縫道具を片付け、来客を迎える準備を整える。
やがて、お桐に伴われて竜子が現れた。
「御台様、突然の訪問、無礼をお許し下さい。」
「何言うてんの。身内みたいなもんやないの。」
「ありがとうございます。」
「お品、お元。茶と菓子の支度を。」
「「はい、御台様。」」
旭の言葉に、控えていた侍女たちがすぐに動き出す。
(……“御台様”、板についてきたな。)
茶々は内心でそう思いながら、竜子へ視線を向けた。
「それで、姉様。今日はどうされたのですか?」
竜子は、少し困ったように笑う。
「……愚痴を、聞いていただきたくて。」
そうぽつりと言った。首をかしげるその仕草は、どこか弱々しい。
「なんぼでも聞くわよ。私もお茶々も、そのためにおるんやから。」
旭があっさりと言い切る。
(……これは、長くなりそうね。)
茶々は、そう静かに覚悟した。




