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世継ぎよりも、大切なもの

竜子から、豊臣家嫡男・鶴松を紹介された。


正史では、茶々の産んだ鶴松は三歳で夭折している。だが、この世の鶴松は違った。


すこぶる健康で、よく笑い、よく動く。

そして何より、母である竜子によく似た、美しい顔立ちをしていた。


(……将来、絶対にイケメンになるやつだわ。)


あまりにも竜子に似ているせいで、父の面影が感じられない。


(……本当に、サルの子か?)


そんな不敬な考えが、思わず頭をよぎる。


(……いや、"私の時"も言われたわ。)


茶々はそんな考えを、頭の外に放り投げた。


鶴松は人見知りもせず、利発で、すぐに政姫たちと打ち解けた。


今は自分の部屋へと政姫たちを連れて行き、侍女たちと共に遊んでいる。


そのおかげで、茶々はようやく竜子と二人きりになった。


だが、何から話せばいいのか分からない。

そんな沈黙を、竜子が先に破った。


「……お茶々をこちらへ寄越したのは、寧々様ね?」


「……はい。旭様宛の文にて……。」


「そう。」


短く頷く。


「大坂城に、華姫たちがいたでしょう?」


「はい。華姫より、おおよその事は聞き及んでおります。」


「……そう。」


一瞬、視線が伏せられる。


「ごめんなさいね、お茶々。無理を言って来てもらって。

ほ、お初は今、身重でしょう?無理はさせたくなかったの。」


茶々の次妹、お初。

長く子宝に恵まれなかったが、ようやく第二子を授かった。


出産は年明け。今は大津で静養している。


(……あの子、正史や前の人生でも子宝に恵まれなかったけど……。

本当に、ようやくなのよね。)


胸の内で、そっと安堵する。


その時、竜子が茶々の手を取った。ギュッと思ったよりも強く握られる。

顔を上げると、その瞳はうっすらと涙を湛えていた。


(……やっぱり。)


寧々の文では、気丈に振る舞っているとあった。だが、それだけで済むはずがない。


「……でも、ありがとう。来てくれて、嬉しいわ。」


竜子は静かに微笑んだ。


「いいえ、姉様。」


茶々も、静かに応じる。


「私もお会いしたかったのです。それに……お政たちを、姉様に会わせたくて。」


「……ええ。」


竜子の表情が、少しだけ和らぐ。


「お政たちにも、会いたかった。旭様……いえ、御前様からの文で様子は聞いていたけれど……。

お政は、本当にお茶々の小さい頃にそっくりね。」


「織田の義伯母上様も、同じ事を申されておりました。」


「あら、そうなの?」


くすり、と笑う。


「……懐かしいわ。」


その言葉に、空気が少し柔らぐ。


「昔はよく、あなたやお初、万福丸や高次たちと一緒に小谷で遊んだものね。」


「はい。」


茶々も自然と笑みを浮かべる。


「泥だらけになって、京極の伯母上と母上に揃って叱られました。」


「そうそう。」


竜子も頷く。


「お祖母様にまとめて湯浴みさせられて……。」


「お祖父様や父上、新九郎叔父上は、"腕白で良きこと"って笑ってたわね。」


懐かしい記憶が、鮮やかによみがえる。


あの頃は、本当に何もかもが満ちていて、幸せだった。

家族がいて、笑いがあって、何も失っていなかった頃が。


勿論、今もまた違う幸せを噛み締めているところではあるが。


ふと、竜子の笑みが消えた。


「姉様?」


「ああ……ごめんなさい。」


視線が、わずかに揺れる。


「懐かしくて……つい。」


一拍。


「無理だと分かっているのに……あの頃に、戻りたいって。

最近、そう思ってしまうの。」


――ぽたりと、竜子の涙が茶々の手の上に落ちた。


それから、堰を切ったように竜子は泣き出した。


ぽろぽろとわ止めどなく涙が溢れる。


「……姉様。何か、あったのですか?」


「何もない……とは、言えないわね。」


かすれた声だった。


「表の声には……なるべく耳を傾けないようにしていたの。でも……。」


一度、言葉を切る。


「殿下は、鶴松を世継ぎと定めているけれど……。」


震える指が、わずかに力を失う。


「私は……ただ、あの子が無事に育ってくれれば、それだけでいいの……。」


(……あの姉様が。)


茶々は息を呑んだ。


誇り高く、気高く、決して弱さを見せなかった竜子が、今はまるで、少女のように縋りついている。


姉のこんな姿、初めて見た。


「ご、ごめんなさい……。」


竜子は涙を拭いながら、首を振る。


「でも……お茶々の顔を見たら……安心してしまって……。」


「姉様。」


茶々は、その手を握る。


「茶々は、ここにおります。どこにも参りません。」


「……うん。」


小さく頷く声は、どこか幼かった。


(……この立場は、重すぎる。)


豊臣家の正室。そして、世継ぎの母。

その重圧は、計り知れない。


茶々は何も言わず、ただ手を握り続けた。


どれほどの時が経ったのか。


ようやく竜子の涙が落ち着いた頃、茶々は侍女を呼び、桶と手拭い、そして茶を用意させた。


濡らした手拭いを手渡すと、竜子はそれで涙を拭い、そのまま目元に当てる。


「……落ち着かれましたか?」


茶々は茶を差し出す。


竜子はゆっくりと受け取り、一口含んだ。


「ええ……。」


静かに息を吐く。


「こんなに泣いたの、初めてよ。

殿が……元明様が亡くなった時ですら、こんなに泣かなかったのに。」


「(……意外。)それは……何故ですか?」


竜子の目が、すっと細くなる。


「本能寺の変の後のこと……覚えてる?」


「………あ。」


茶々は、思い出す。


「……あの人は。」


竜子の声が、低くなる。


「目先のことしか見えていなかった。旧領を取り戻すことしか……。

私や高次はまだしも……子たちの命まで危うくして……。」


静かに、だが確かに怒りが滲む。


「……黄泉の国まで追いかけて、二、三度……いえ、私の気の済むまで、何度も殺し直してやろうかと思ったわ。」


――ぞくり、と茶々の背に冷たいものが走った。


(……怖っ。)


「その時に……あまりの悔しさと情けなさで、泣いたのよ。」


「……そうでしたか。」


竜子は、侍女が用意したぬるめの茶を一気に飲み干した。

空になった湯呑みに、茶々が静かに茶を注ぐ。


「姉様。たくさん泣かれましたもの。お茶も、その分お飲みくださいませ。」


「……ありがとう。」


竜子は一口含み、長く息を吐いた。


「本音を言えばねぇ……。」


ぽつりと零す。


「世継ぎの生母とか、天下人の母とか……。そんなもの、どうでもいいのよ。」


「……まぁ。」


「阿波の姫が若君を産もうが、姫を産もうが……。ふっ……正直、どうでもいいわ。」


静かに、しかしはっきりと言い切る。


「孫八郎は高次のもとで出仕しているし、若狭武田の再興を望んでいる。私も、それを支えたいと思っているわ。」


小さく息を吐いて、続ける。


「お賢も秀忠殿との婚約が決まっている。

いずれ徳川の正室として嫁ぐのを、この目で見届けたい。」


そして、ふっと柔らかく笑う。


「鶴松も元気に育っている。……それだけで、私はもう十分なのよ。」


(……分かる。)


茶々は何も言わず、ただ頷いた。


「それなのに……。」


竜子の声が、わずかに揺れる。


「こんなことを言うのは贅沢だと分かっているわ。でも――」


視線が、茶々へ向けられる。


「……聞いてくれるわよね?」


「もちろんにございます、姉様。」


茶々は穏やかに応じる。


「寧々様も、そのために私を寄越されたのでしょう。」


再び、茶を注ぐ。


「阿波の姫が懐妊してから……嫌でも耳に入るのよ。」


竜子は静かに言葉を重ねる。


「もし若君を産めば、足利と三好の血を引くその子こそ、豊臣の跡目に相応しいのではないか……と。」


「なれど、殿下は鶴松様を後継と定めておられます。それに……先のことは、まだ誰にも分からぬことでございます。」


「……ええ。」


小さく頷く。


「生まれてみなければ、誰にも分からないわ。」


一拍。


「でも……。」


竜子の目が、どこか遠くを見る。


「殿下も近頃は……阿波の姫が若君を産むことを望んでおられるような気がして……。」


(……今すぐあのサルの息の根止めてこようか?)


胸の奥で、物騒な考えがよぎる。

寧々か旭の了解を得たら、間違いなくやるだろう。だが、顔には出さない。


「殿下のお気持ちも、分からなくはございません。」


茶々は静かに言う。


「幸松様と香の方様の件もございましたから……。」


(……あの件、やっぱり気になるけど。)


だが今、この場で踏み込むべきではない。

心が弱っている姉に聞く事が憚れる。


竜子は湯呑みを置き、手拭いを目に当てる。

茶々は、すぐに新しいものを差し出した。


「姉様。」


柔らかく、しかし意図的に話題を切る。


「この話は……ひとまず置いておきましょう。」


「……え?」


「明後日は、秀忠殿と賢姫の結納にございます。

今は、そのことだけをお考えになられてはいかがでしょうか。」


竜子は一瞬、きょとんとした顔をしてが、やがて小さく笑った。


「……そうね。お茶々の言う通りだわ。」


ふっと竜子の表情が和らぐ。


「お賢は、私にとってたった一人の娘だもの。

しっかりと……見届けてやらないとね。」

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