まだ産まれてない子を、神輿にするな
元号が文禄へと改まったのは、十二月に入ってからのことである。
この頃、豊臣秀吉は政権基盤をより強固なものとするため。
甥であり養子でもある豊臣秀次へ関白職を譲り、自らは太閤の位に就いた。
(秀次様……どうか、この世では生き延びて下さいね。)
茶々は胸中でそっと祈る。
ふと、二度目の人生の記憶が蘇った。
秀次が関白となった、その数年後。
謀反の疑いを掛けられ、秀次は自分の身の潔白を証明する為に自害した。
『私の命を持って、妻や子供たち、家臣たちの御助命を。』
しかし、秀吉は許さなかった。
茶々は勿論だが、側室や幼い子供たちも聚楽第に軟禁された。
この時、茶々はふと亡き母の言葉を思い出す。
『浅井の血を絶やすでない……。』
そして、手に握ったままの秀次からの最期の手紙へ視線を落とす。
『後事、偏に御頼み申し上げ候。』
手紙の最後に、そう書かれていた。
茶々は直ぐに動いた。せめて、娘だけでも。生まれたばかりの側室の子たちだけでも。
そして萩乃を通じて、甲賀の者たちに娘たちを託した。
聚楽第を退去する娘に、つい亡き母と同じ言葉を口にした。
『泥水を啜ってでも生きろ。秀次の血、浅井の血……絶やすでないぞ。』
その後、秀吉の厳しい追及にも決して口を割らなかった。
秀吉から"側室になれば、命は助ける"とも言われたが、あえて断った。
『私は、豊臣秀次の妻にございます。我が身可愛さに、殿下の側室にはなりませぬ。早う、この首をお刎ねください。』
そして、茶々は秀次正室として、六条河原の露と消えた……。
(……嫌や。)
二度目の結末を思い出し、胸の奥がきゅっと痛む。
(今度こそ、あんな結末にはさせへん。)
秀次が何をするのか。秀吉がどう変わるのか。
未来など、もう分からない。
(だけど、少なくとも、知ってる未来をそのまま繰り返すつもりはない。)
茶々は静かに目を伏せた。
***
旭と秀忠、安土殿は京の徳川邸へ入った。
しかし、茶々は旭の名代として大政所への挨拶を任され、子供たちを伴い一足先に大坂城へ入っていた。
身重の杏を領地に残してきたことに不安はあったものの、二人目ということもあり杏自身にも余裕がある。
それに、於軽をはじめとする侍女たちも頼りになる。
弁之助を託され、政姫たちとともに連れて来た。
(そういえば……今回は朝鮮出兵がないのね。)
本来の歴史では、この年に秀吉は朝鮮へ兵を出している。
だが今世では、その気配すらない。
その代わり、別の火種がくすぶっている。
天正二十年に発覚した、南蛮商人とバテレンによる人身売買。
それに対し、秀吉はフィリピンに置かれたスペイン総督府へ直接抗議を行っている。
さらに、バテレン追放令の発布。
それらを受け、総督府内部では「対日強硬派」と「穏健派」が対立しているという。
(……スペインと戦争、なんてことにならなければいいけど。どこまでズレんのかねぇ、この世界。)
「箕輪様、支度整いましてございます。」
侍女に呼ばれ、茶々は思考を切り替える。
子供たちを連れ、大坂城本丸御殿へと向かった。
案内された部屋で待つ間、虎松と万次郎は落ち着きなく周囲を見回し、弁之助は茶々の膝の上で大人しく座っている。
「こら、虎松、万次郎。そんなにきょろきょろしないの。」
茶々がたしなめるより先に、政姫が口を開いた。
「弁之助を見てみなさい。大人しくしているでしょう?
あなたたちは兄なのだから、出来るはずです。」
「はい、あねうえ。」
「あい……。」
まだ四つとは思えぬ落ち着き。
長康との婚約を経て、“井伊家の長女”としての自覚が芽生え始めているのだろう。
(……しっかりしてきたわね。)
嬉しさと、少しの寂しさ。
(でも、まだ四歳よ? もう少し甘えてくれてもいいのに。)
そんな思いが胸をよぎる。
「御免つかまつりまする。
大政所様と織田の五の姫様がお見えにございます。」
襖が開き、大政所が華姫に支えられるようにして、入ってきた。
「お茶々、そんな堅苦しくせんでええ。
あんたは身内。オラァにとっては、孫みたいなもんやで。」
「……お久しゅうございます、ババ様。
華姫も大坂においででしたか。」
「はい、茶々姉様。お久しゅうございます。」
大政所は、子供たちを見て目を細めた。
「この子らが井伊の子かい?」
「はい。長女の政、長男の虎松、次男の万次郎、三男の弁之助にございます。」
「可愛らしいねえ。ほれ、こっちおいで。菓子があるよ。」
その声に、子供たちの表情がぱっと明るくなる。
戦も政も遠い場所で、ほんの束の間の穏やかな時間が流れていた。
大政所が子供たちの相手をしている間に、茶々は静かに華姫へと視線を向けた。
(華姫が大坂に居るとは思わんかった。
でも、ラッキー。今のうちに、聞けることは聞いておかないと。)
「茶々姉様、大坂にはいつまで?」
「そうねぇ……。」
茶々は少し考えるようにしてから答える。
「秀忠殿と賢姫様の結納の折には都へ向かおうと思うわ。それまで……一週間ほどと。」
「そうですか。」
華姫は頷きつつ、ふと首を傾げた。
「それにしても……華姫が大坂にいるなんて、少し意外やな。てっきり聚楽第にいるもんやと……。」
「あ……。」
華姫の返事が、わずかに詰まる。
「はい……その……。」
明らかに歯切れが悪い。茶々はその様子を見逃さない。
(やっぱり、何かあったな。)
「おおよその事は、寧々様からの文で聞いているわ。……聚楽第は、随分と空気が悪いみたいね。」
「……はい。」
華姫は小さく頷いた。
「今の聚楽第は……とても居心地が良いとは言えません。
皆、どこか落ち着かず……ギスギスしていて。」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「それで北政所様のご判断で、私とお寿様は“大政所様の看病”という名目で大坂へ。」
「なるほどね……。」
「お虎様と万寿姫様も、大坂にいらっしゃいます。」
「え?そうなの?」
「はい。お寿様は二の丸、私は三の丸に。
お虎様と万寿姫様は西の丸におられます。」
(……分散してる。)
茶々は内心でそう呟く。
(これ、偶然じゃないわね。)
「それなら、大坂にいる間に二の丸と西の丸にもご挨拶に行かないとね。」
「きっと皆様、お喜びになりますよ。あ、政姫様たちも是非ご一緒に。」
「そうね。連れて行ってあげないと。」
一度、穏やかな空気が戻る。
華姫は茶を一口含み、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……殿下が、また城を建てられるそうです。」
「城を?」
「はい。関白職を秀次様へお譲りになられ、聚楽第もお譲りになるとのことで……。伏見に新たな城を。」
「……伏見城。」
(いよいよ、ね。)
茶々は静かに頷く。
「完成すれば、華姫たちも移るの?」
「いえ……しばらくは大坂に留まる予定です。」
「そう……。」
わずかな違和感が、胸に残る。そして、華姫はさらに続けた。
「もう一つ、城のお話がございます。」
「何かしら?」
「淀の城を、殿下が改修されたのです。」
「……淀の城?」
「はい。元は三好家の居城ですが、阿波の姫様の産所として整えられたと。」
その瞬間、ぞくり、と茶々の背筋に冷たいものが走った。
(……そこまで、する?)
「整い次第、姫様はそちらへ移られるそうです。」
「……そうなのね。」
どうにか表情を崩さぬよう、茶々は応じる。
「茶々姉様……?」
華姫が心配そうに覗き込む。
「顔色が……。」
「大丈夫よ。」
茶々は微笑んでみせた。
「少し驚いただけ。殿下は、聚楽第の空気を察しておられるのかしら?」
「どうでしょう……。」
華姫は曖昧に首を傾げる。
「ですが、周囲が騒がしいことに気付いておられないとは思えません。」
「……そうね。」
華姫は静かに、核心へ触れた。
「もし、阿波の姫君が若君をお産みになれば――」
言葉が、わずかに重くなる。
「若政所様の御子、鶴松様との間で……家督を巡る争いになるやもしれません。」
部屋の空気が、ひときわ静まる。
「殿下は鶴松様を跡目と定めておられますが……先のことは、誰にも分かりませぬ。」
「……ええ。」
茶々は静かに頷いた。
(だからこそ、厄介なのよ。)
「せめて――」
茶々は、茶碗を手に取る。
「姫であってくれることを祈るしかないわね。」
「はい……私も、そう思います。」
(まだ産まれてもない子を、神輿に担ぎ上げようとすんなっつうの。)
二人はそれ以上言葉を交わさず、ただ静かに茶を啜った。




