母になる準備と、旭の本音
茶々の懐妊を知った家康は、すぐさま使者を出し、甲斐の冨士御室浅間神社へ安産祈願の祈祷をした。
かの武田信玄が娘のために祈願したと伝わる社である。
(……まだ早くない?)
そう思いつつも、養女である自分の懐妊を、ここまで喜んでくれるのは素直に嬉しかった。
茶々の懐妊は豊臣家にも知らされたそうで、秀吉が嗚咽していた、と華姫からの文で知った。
(……もう何も言うまい。)
茶々は文をそっと折り畳んだ。
***
八月から十月にかけては、悪阻に悩まされたが、秋も深まる頃にはようやく落ち着き始める。
「無理は絶対あかん!」「これはするな」「あれもするな」と、旭を筆頭に周囲の監視が一気に強化された。
(……暇。)
そこで茶々は、産着を作ることにした。
「ほな、私もやるわ。」
裁縫の達人でもある旭が参戦し、井伊の屋敷での裁縫が日課となった。
旭は茶々の産着を作りながら、於愛のために厚手の足袋も仕立てていた。
「於愛は身体が弱いんよ。風邪こじらせたら長引くらしいわ。」
(父上、母上。茶々を丈夫に産んでくれてありがとうございます。)
茶々は心の中で、亡き両親へ手を合わせた。
「めでたい事って続くものですね。」
「え?」
「阿古殿も、ご懐妊なさったでしょう?」
「ああ……そうなんよ。」
旭はどこか柔らかい顔をする。
「何か贈り物を――」
「あんまり高価なんはあかんで。あの子、気ぃ使うから。」
その横顔は、完全に“母”だった。
***
十一月下旬、冷え込みが強くなってきた頃。
旭が、どこか浮かない顔で井伊屋敷にやって来た。
「旭様、どうかされました?」
「……何でもないわ。」
だが、明らかに様子がおかしかったが、少しの沈黙の後に切り出した。
「お茶々。今日は、ゆっくり話さん?」
「実はね……義姉上様から手紙をもろたんよ。」
旭は懐から文を取り出し、茶々に渡す。
茶々はそのまま文を読み進める。
「……竜子姉様が、ご懐妊?」
「ええ。」
「めでたい事ですのに……。」
言いながら茶々は気づくが、旭が笑っていない。
「旭様……?」
旭は、少しだけ視線を落とした。
「私ね……。」
一呼吸おいて、静かに言った。
「兄様が、憎いの……。」
茶々は僅かに息を止めた。
「徳川に嫁いでから……ずっと考えてたんよ。」
旭は、ぽつりと呟いた。
「もし、あの時……殿の元に嫁ぐのが、私やなかったら、って。」
茶々は黙って、旭の言葉を聞く。
「今も大坂で、甚兵衛さんと暮らしてたんやないか。
阿古の嫁入りを、2人で見届けて……。
庭で槍や刀の手入れしてるあの人を見ながらな……。そのまま、二人で白髪になるまで一緒におったんやないかって。」
沈黙。
「……そもそもや。」
旭の声が、少しだけ低くなる。
「兄様が天下なんか取らんかったら、こんな事にならんかったんよ。」
ぽつりと吐き捨てる。
「まぁ……今さらやけどな。」
自嘲気味に笑い、菓子を口に運ぶ。
「私も……分かります。」
茶々が静かに言う。
「私も、同じ事を考えた事があります。」
茶々は、言葉を選びながら話す。
「お祖父様が、父上が、朝倉ではなく織田に付いていたら、私たちは今も小谷で暮らしていたんじゃないか。」
少し間を開けて、続ける。
「織田の伯父上が本能寺で討たれなかったら、せめて、勘九郎様が生きておられたら…。
母上も、柴田様も自刃せずに済んだやもしれぬ…。」
茶々は顔を上げて、旭を見つめた。
「ですが、私たちは今を生きております。」
一拍。
「徳川に嫁ぐ旭様に付き従い、縁あって井伊直政の妻となり、こうして子にも恵まれて。
あの時、こうだったらと思うことはありますが、私は私が選んだこの道を後悔したことはありません。」
茶々はキッパリと言い切った。
暫し沈黙が続いた後、茶々は再び口を開く。
「旭様の、関白殿下が憎い、というお気持ち、茶々にも分かります。」
少し目線を逸らせたが、すぐに旭へと戻す。
「この乱世、致し方ない事と申せど、殿下は我ら姉妹にとっては、浅井一族と義父と母の仇…。
私たちを保護して下さった事には今でも感謝しておりますが。
えっと……どう言ったら良いのかしら?」
「感謝の気持ちと憎悪の気持ちが入り混じってるのね。
複雑ね……私と違って。」
「え?」
「実は、私はな。」
旭が再び口を開く。
「十七の時にね、一度嫁いどるんよ。」
茶々は目を瞬かせた。
「最初は、尾張の番匠やった。」
少し遠くを見る。
「太吉さんっていうてな。虫も殺せんような気の弱い人やったけど……優しい人やった。
私のこと、大事にしてくれたんよ。」
一拍。
「でもな……兄様が出世してから、全部変わった。」
空気が重くなる。
「武士に取り立てられて。戦に出されて……。」
指先がわずかに震える。
「だんだん、おかしなっていった。
手も汚れてへんのに、ずっと洗うんよ。何かに怯えるみたいに……。」
沈黙。
「……ある日な。」
旭の声が、少し掠れる。
「私が、安土の方様に呼ばれて、どうしても城に登城せなあかん時があってな。
ほんで、私が留守にしてる間に……自害してたんよ。」
胸の重さを吐き出すような溜め息を吐く。
「私を娶ったばっかりに……太吉さんは死んでまった。」
旭は、ぽつりと呟いた。
「毎日、自分を責めたわ……。私を娶ったばかりに、あの人は……って。
安土の方様も、"私が呼び出したばかりに"……って、ご自分を責められてたわ……。」
茶々は何も言わず、ただ耳を傾ける。
「喪が明けてすぐ、兄様に言われるがまま……その頃はまだ織田家臣やった、甚兵衛さんと再婚したんよ。」
一度、言葉を切る。
「私はまだ……太吉さんのこと、引き摺ってた。
でもな、それは甚兵衛さんも同じやった。前の奥方を亡くされたばかりで……。
なんて言うか……お互い、大切な人を失った者同士やった。
寄り添うようにしてな……気付いたら、打ち解けてたわ。」
ほんの少しだけ、柔らかな笑みが浮かぶ。
「四年ほど経って、阿古が生まれて……。あの頃が、一番幸せやった。」
遠くを見るような目に、僅かに涙が浮かんでいるのを、茶々は見ていないフリをした。
「贅沢はできへんけど……親子三人で、このままずっと続くもんやと思ってた。
今の、徳川での今の生活が不満か、言われたら……違う。」
はっきりと言う。
「徳川に嫁いでから、本当にようしてもらってる。身分も地位もあるし、暮らしも安定してる。
殿には、感謝してもしきれんわ。」
茶々は、その言葉を静かに受け止めた。
(……やっぱり、この人は。)
単純な不幸ではない。だからこそ、重い。
「私から……"なんでもない、平穏な日"を奪った兄様が、憎いの。」
旭は、迷いなく言い切った。
「せやからな。」
一拍。
「見返したいんよ。」
その声は怒りというより、諦めを越えた決意だった。
「兄様が作った世やなくて……別の形の世を、見せつけたろ思て。」
茶々は、思わず息を呑む。
「だから――」
旭は、ふっと笑った。
「ウチの人には、天下を取ってほしいのよ。」
「殿が……天下を。」
「あの人には、その力がある。」
どこか確信めいた声音だった。
「兄様より、よっぽどこの日の本をようしてくれる。
まぁ……私の勘でもあるんやけどね。」
くすりと笑って、茶々を見つめた。
「私の勘は、大体当たるの。」
空気が、少しだけ軽くなる。
「殿はな……幼い頃にお父上を亡くされて、お母上とも離れて暮らして……。
織田や今川の人質として、随分と苦労されてる。」
茶々は黙って聞く。
「やからこそ、あの人は戦を憎んでる。
戦さえなければ、家族と離れずに済んだはずやって。」
旭は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「この世から、戦を無くしたいと……。」
そして、ふっと笑う。
「気付いたらな。私と殿、見てる先が同じやったみたいなんよ。」
(……意外、やな。)
そう思ったが、口には出さない。きっと、ビール瓶を粉砕する威力のデコピンが飛んでくる。
「私も……見てみとうございます。」
茶々は静かに、しかし力を込めて言った。
「殿が……徳川が治める天下を。」
旭は満足そうに頷く。
「その意気や。」
そして、少しだけ優しい声になる。
「まぁ、そういう訳やから。
お茶々はしっかり用心して、元気な子を産みなさい。
お産は、女にとって戦なんやから。
気ぃ抜いたら……負けるで。」
「……はい。」
茶々は、そっと腹に手を当てた。まだ小さな命を、確かめるように。
(この子が生きる頃には――戦のない世になっていたら、いいな。)
静かに、そう願った。




