行幸最終日、豊臣家臣たちの胃薬が足りん
昼下がりの春の暖かな日差しが聚楽第を照らす。
聚楽第の一角では、国母と女御を迎えての茶会が催されていた。
茶々は阿茶局と共に、旭の後ろに控えている。
やがて、侍女の一人が静かに声を掛けた。
「阿波の姫様にございまする。」
三人の視線が、ほぼ同時に動いた。
(義姉上様は、下がらせるって言うてたけど……。)
(茶会は流石に出てこねばなりませぬか……。)
(頼むから、何も言うなよ……。国母様と女御様の御前だぞ。)
三人の心の声は、見事なまでに一致していた。
阿波の姫君は静かに頭を下げると、用意された席へ着いた。
それ以上、何も起こらない。
騒ぐこともないし、誰かに話しかけることもない。
ただ静かに茶を飲んでいる。
(……。)
(……。)
(……。)
三人は、そっと息を吐いた。
(よかった……。)
茶会は滞りなく終わった。
その後も、阿波の姫君が表へ出てくることは極端に少なかった。
おそらく、寧々と孝蔵主が何らかの手を回しているのだろう。
茶々たちは、ようやく胸を撫で下ろした。
――そして、数日後。
行幸最終日である。
聚楽第では、南蛮渡来の化粧品を集めた披露会が催されていた。
色とりどりの紅や頬紅、香油などが並び、奥方たちは思い思いに品を手に取っている。
旭も楽しそうに品々を眺めていた。
「お茶々。これなんかどう?」
「まぁ、綺麗な色ですね。」
茶々は頬紅を手に取り、旭の顔に合わせてみる。
「此方の頬紅、蒼の打掛と合いそうですよ。」
「そうねぇ。」
旭は鏡を覗き込み、少し考える。
「あ!この色、於愛とお久に似合いそうやね。お土産に買ってこうか。」
「お二人とも、きっと喜びます。」
阿茶局も嬉しそうに呟く。
「そうやろ?」
旭が嬉しそうに笑い、茶々と阿茶局も笑みを返した。
しかし、この華やかな雰囲気をぶち壊す怒号が飛ぶ。
「無礼者がっ!!」
「どちらがです!!」
女の金切り声が広間に響き渡り、茶々の手が止まる。
「…………。」
旭も止まり、阿茶局も止まる。
三人は、ゆっくりと顔を見合わせた。
(嘘やろ。)
(まさか……。)
(……またですか。)
茶々は天を仰いだ。
「……神様仏様、イエス様……。」
誰にともなく呟く。
「今日は勘弁してください。」
こめかみに青筋を浮かべた三成、酒呑童子も素足で逃げ出しそうなほど、恐ろしい顔をした清正が、騒ぎの方へ向かっていた。
「またかいな!」
「ほんま、懲りんでぇ!」
その後ろから、正則が慌てて追い掛ける。
「おい!佐吉!虎之助!堪えろよ!」
「「分かっとるわ!」」
「二人揃って、その顔で何が分かっとるんや!」
「「五月蝿い!」」
一方、別の場所では。
「…………。」
寧々が扇子を握り締めていた。その握り方が尋常ではない。
ミシッっと、小さな音が鳴る。
「北政所様……。」
後ろに控える孝蔵主が、恐る恐る声を掛ける。
「……行くで。」
「はい……。」
二人もまた、騒ぎの方へ向かっていった。
やがて、茶々たちの目にも騒ぎの中心が見えてきた。
そこには、阿波の姫君付きの女房と、織田の五の姫付きの女房が向かい合っていた。
「其方は先に姫様が見ておられました!」
「ですから、お譲りしますと申しておるではないか!」
「まぁ!なんて口の聞き方!」
五の姫付きの女房の眉間に皺が寄る。
「はあ?序列も知らぬ存ぜぬの者に言われとうはないわ!」
その言葉に、阿波の姫付きの女房は、顔を真っ赤にする。
「なにを!これだから、尾張の成り上がり者はっ!!
成り上がりの分際で!我が姫様を愚弄するか!?」
「それ言うたらあかーーーん!!」
茶々が思わず叫んだ。
旭も目を見開き、阿茶局は額を押さえた。
寧々と孝蔵主もその場で立ち止まる。
三成もその場で立ち止まっており、清正は噴火しそうなぐらいに顔を真っ赤にし、正則が慌てて羽交い締めにしていた。
会場の空気が、一瞬で凍りついた。
「…………。」
誰も動かない、誰も喋らない。
(……どうすんの?これ……。)
茶々は自分の胃がキュッとなったのが分かった。
「ほお。」
凍り付いた会場に、低い声が響く。
「余のことを申しておるか?」
「…………。」
全員が、ゆっくりと振り返ると、にこやかな笑顔を浮かべた秀吉が立っていた。
笑顔。
ものすごい笑顔だ。笑顔なのに……全然、笑っていない。
女房の顔から、血の気が引いた。
「あ……。」
ようやく自分が何を言ったのか理解したらしい。しかし、もう遅い。
「…………三成。」
秀吉は静かに呼ぶ。
「はっ。」
三成が一歩進み出る。
「正則。」
「はっ!」
正則も続く。
秀吉は女房を指差した。
「連れて行け。」
「「承知!」」
「お、お待ちを!私はそのようなつもりでは――!」
「行くぞ。」
「殿下!お待ち下さいませ!」
三成と正則に両脇を固められ、そのまま連行されていく。
「清正、ここは任せたぞ。」
「はっ。」
清正は小さく頭を下げて、持ち場へと戻って行った。
会場には重苦しい沈黙が残るが、秀吉はパンッと手を叩く。
「みんな〜!すまんなぁ!」
先ほどまでとは打って変わった明るい声。
「気にせんでええから、ゆっくり見てってちょう!せっかくの一級品だでなぁ!」
「…………。」
「ほらほら!遠慮せんでええでぇ〜!まだ続いとるでよ!」
奥方たちが、恐る恐る品物へ視線を戻していく。
ようやく会場全体から、安堵の息が漏れた。
その中で、阿波の姫君だけが、きょとんとした顔をしていた。
「殿下?」
秀吉が振り返る。
「ん〜?」
「私の女房を、どこへ連れて行ったのですか?」
秀吉は一瞬だけ固まった。
「…………。」
「?」
「……なんでもにゃーよ!」
笑顔を浮かべる。
「ちょっと話するだけだわぁ〜!」
「……そう。」
阿波の姫君は素直に頷いて、小さく呟く。
「いじめないでくださいね。」
「いじめとらんよ〜!」
秀吉は笑っている。阿波の姫君も笑っている。
その様子を見ていた茶々は――。
「…………。」
全身に鳥肌が立つのを感じた。
(なんだ!?それ!!)
隣を見ると、旭も阿茶局も同じ顔をしていた。
――完全に、同じことを考えている。
(……怖い。)
聚楽第最後の日、行幸は無事に終わろうとしていた。
ただし、豊臣家臣たちの胃は、全く無事ではなかった。




