何も起きない………わけがない!
天正十五年四月。
いよいよ、今上帝の聚楽第行幸の日が迫っていた。
式典に宴、能の鑑賞、茶会、そしてコスメ発表会、その他諸々――。
数々の催しが控え、城内はかつてないほどの慌ただしさに包まれている。
そしてこの度、家康は官位を賜り、正室である旭にも位が授けられることとなった。
そのため、北政所に仕える側近である孝蔵主が派遣され、旭に礼儀作法を徹底して叩き込んでいた。
だが旭は飲み込みが早く、あっという間に「徳川家正室」に相応しい所作を身に付けてしまった。
「ほんま、私みたいなんが従三位を頂くなんてなぁ……。」
明日の行幸に備え、この日は聚楽第での前泊となる。
「何を仰いますか。関白殿下の妹君であり、徳川内府殿の御正室であらせられるのですから。」
「それは兄様と殿が凄いだけやろ。私はオマケみたいなもんやわ。」
明日は夜明け前から支度が始まる。
そのため、旭には早めに床に就いてもらうことになった。
阿茶局が髪を梳き、茶々が肌の手入れを施す。
この手入れは、雷蔵の妻・萌に教わったものだ。
「肌の下拵えで、化粧の乗りが変わるのですよ!」
そう熱弁していたのを思い出す。
(まさかこの時代に化粧水や乳液があるなんてね……。本当に、何が起きてんだ?)
茶々はそっと手を離す。
「はい、終わりましたよ。旭様。」
「ありがとう。……うん、ええ気分やわ。」
「では、夜明け前にお起こしに参ります。」
「ええ。二人とも、明日は頼んだわよ。」
「「はい。」」
寝所を辞した後、茶々は阿茶局と最終確認を済ませ、それぞれの部屋へと戻った。
――寅の刻。
まだ夜は明けきらぬ庭に松明が灯り、廊下や部屋は行燈と蝋燭の光で照らされている。
冷たい水で顔を洗い、眠気を追い払う。
「……よし。」
茶々は寝巻きから動きやすい小袖へと着替えた。
「参りましょう。」
「はい。」
萩乃を伴い、旭の控えの間へ向かう。
途中、慌ただしく行き交う侍女や女中たちとすれ違う。
本来なら一礼すべきところだが、今日は互いに会釈だけで済ませた。
控えの間に入り、茶々と萩乃は先に準備に取り掛かる。
「まず、この白檀を焚いて。部屋全体に香りを行き渡らせて。」
「かしこまりました。」
「打掛に焚き込む香も同じものを。ただし少量でいいわ。今日は人が多いから。」
「はい。これくらいでよろしいでしょうか。」
「ええ、それで。」
次々と指示を出していく。
「御前様が間もなくお越しになるわ。桶の用意を。ぬるめの湯と水を。」
「承知しました。」
侍女たちが素早く動く。
その中で、茶々は一瞬だけ深く息を吸った。
(……いよいよ、本番。)
やがて、眠気を残した旭と阿茶局が姿を現した。
(……今日の旭様、やけに色っぽいな。)
そんなことを思いながら、茶々は用意していた座布団へと旭を導いた。
旭に顔を洗わせた後、茶々が肌の手入れを施し、萩乃が髪を梳く。
その間に、阿茶局が本日着る打掛や小袖の準備を進めていた。
クリームを塗り、手のひらで優しく押さえ、団扇でそっと風を送る。
そうすることで浸透が良くなる、と萌が言っていたのを思い出す。
「旭様、お加減はいかがですか?」
「はぁ……心地ええわ。」
「下拵えが整いましたら、化粧に入ります。」
「少輔の方様、こちらはこれくらいで宜しいでしょうか?」
「……ええ。それで。通り過ぎた時に、仄かに香るくらいが丁度いいわ。」
「萩乃、任せてもよろしいですか?」
「かしこまりました。」
萩乃は櫛を置き、旭の正面へ回る。
「では、始めます。」
「ええ。綺麗にしてね。」
「お任せを。」
萩乃が下地と白粉を手に取ろうとした、その時――。
廊下の方が、妙に騒がしい。
「……何事でしょう。」
「八重、様子を見て来て。」
「はい、阿茶局様。」
襖が開き、八重が廊下へ出る。
その間にも準備は止めない。
萩乃は化粧を進め、茶々と阿茶局は打掛に香を焚き込む。
やがて、旭の化粧が一段落した頃、バタバタと足音を立てて、八重が戻って来た。
「……揉めております。」
「揉めてる?」
「はい。姫路の方様の控えの間の前で。」
その一言で、空気が変わる。
茶々は、嫌な予感を覚えた。
阿茶局も同じらしく、表情がわずかに険しくなる。
「何があったの?」
「近くの女中の話では……阿波の姫様の乳母殿が、姫路の方様の部屋へ押し掛けたと。」
「「はぁ?」」
声が揃った。
「詳細は分かりませぬが……“打掛”と……それから"化粧”という言葉が聞こえたと。」
(……ああ、もうそれ確定やん。なに?バ◯リ◯クタイム?プレミアムの方?朝から何してんの?)
茶々は思わず額に手を当てた。
(また“綺麗ね”から始まって、“譲れ”に発展したんやろ……。)
だが今回は、場所もタイミングも最悪だ。
「このままでは、行幸に間に合いませぬ……。」
阿茶局の声が低くなる。確かにその通りだ。
(寧々様か竜子姉様を呼ぶ?――いや、間に合わん。
そもそも、あの連中、寧々様たちにも噛み付く言うてたし……。)
茶々が判断に迷っていると、旭がスッと立ち上がった。
「……仕方ないわね。止めに行きましょう。」
「「……え?」」
「阿茶局、お茶々。行くわよ。このまま行幸に遅れたらどうするの。」
あまりにも自然に言い放つ。
「そ、それは……!」
「参りましょう、少輔の方様!」
「は、はい……!(えぇ〜……いや、でも……行かないと、『行幸遅れました〜!テヘペロ⭐︎』で済まないもん!間違いなく何人か首が飛ぶ!)」
旭はそのまま、小袖姿で外へ出ようとする。
「あ!旭様、お待ちを!」
茶々は慌てて蒼の打掛を肩へ掛けた。




